完全試合 佐々木朗希投手(

完全試合

昨日達成の瞬間を見ることができた。阪神-広島の試合を見ていたのだが、広島の勝ちを見届けてすぐにチャンネルを変えたら、あと二人というところだった。最後のバッターを三振に討ち取った瞬間は興奮した。

プロ野球の完全試合。2007年の日本シリーズは観ていたが、山井投手と岩瀬投手の継投だった。1994年の巨人槇原投手(対広島)もニュースで知ったものだった。その前の阪急の今井雄太郎投手以前も全部、ニュースで知ったものだった。

高校野球では、1978年選抜の前橋高校の松本稔投手の完全試合は、一試合全部をテレビで観ている。

プロ野球の完全試合達成の瞬間をライブ放送で観観たのは、はじめてのことだ。もう、見られないと思っていた。

しかし、槇原投手の完全試合が27年前とは驚きだ。それだけ、プロ野球が打高投低になっているということだが、その中での完全試合とは佐々木朗希投手もロッテ守備陣も立派である。

佐々木投手と言えば、3年前の夏の高校野球の岩手県大会の決勝戦で監督が登板回避させたことが、物議を醸した。私はあのときに監督の判断を支持したが、あれがあって今があると思っている。

鯉が首位に立ったこともうれしいが(阪神地方のみなさん、ごめんね)、今日は佐々木投手を讃えよう。

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さくらさくら 日本古謡?

自宅のまわりには、桜の名所が結構あるが、昨日あたりから散り始めた。この散り際も桜の魅力の一つである。

別のSNSで「さくらさくら」(小学校第4学年歌唱教材)があまり知られていないことが話題になっていた。

教科書を調べるてみると、2社ともに2曲目で「さくらさくら」が見事な写真がとともに掲載されている。一社の写真は「これはいったい何の教科書だろう」と思うほど一枚に3ページも使った(折り返し付き)見事なものだ(他に、日本の桜2枚、ワシントンの桜の写真まで)。

しかし、実際に音楽科で季節の歌としてこの歌を取り上げようとすると、なかなかたいへんだと思う。授業が始まる頃には日本の東北・北海道を除いては桜は散ってしまっている。(弘前にいたころはゴールデンウイークがピークだったが、最近は早くなっているようだ)。共通教材だから飛ばすわけにはいかないので、歌唱教材としては、さらっと歌って終わりというところだろう。

この歌は「日本古謡」ということになっている。古いものでは、音楽取調掛が明治20年に発行した『箏曲集』に掲載されているが、箏(こと)の練習曲として使われていた楽曲からとったものらしい。ただ、今の教科書に掲載されているものとは歌詞が異なる。今の教科書の曲は、昭和16年の国民学校教科書「うたのほん下」に掲載されたものだ。なぜ、これが「日本古謡」になってしまったのかはわからない。学会で「日本古謡」の表記を問題にしている人もいた。たしかに「日本古謡」いうのは怪しい話だ。

また、はなやかなさと散りゆく寂しさをもつ桜の風景とこの歌詞・旋律はどうしても合わない。私にはなんとも間の抜けた歌に聞こえる。一社の教科書に「日本の自然の美しさを表した歌として、外国でも有名です」という表記があるが、これが日本の代表的な歌だと思われるのはあまりうれしくない。

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パズル

SNSでみつけた問題

問題】
A,B,Cの3人が拳銃で果たし合いをする。Aは射撃がへたくそで1/3の確率でしか当たらない。Bは少しましで2/3の確率で当たる。Cは百発百中である。A→B→C→A→.... の順にそれぞれに誰かを撃つ機会が与えられる。これを最後に一人が残るまで続ける。Aは自分が生き残る確率を最も高くするためには最初どうすべきか。

私は、慌てものだから、「そのなもんCを最初に撃ったら良いに決まっているじゃないか(1)」と思ったのだが、正解(題意)は「どちらも狙わない」(わざとはずす)だという。


2順目が回ってきたときの状況を確率でのべると
(1) Cを狙う
・AとBの決闘になる 5/9
・AとCの決闘になる 2/9
・Aに番が回らない  2/9
(2)どちらも狙わない
・AとBの決闘になる 2/3
・AとCの決闘になる 1/3

なるほど (2)が正解ということになる。

しかし、この方法でも二人が必ず死ぬ。二人になったときに決闘はさけられないし、Aが死ぬ確率は高い。というわけでもっともよい選択は「決闘なんかやめて仲良くしようよ」と提案することである。そして今、一番有利な状況にあるAが提案するのが受け入れられやすい。

二者択一ではなく、第三の道を探ることがもっともよい場合が現実社会では多々ある。



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将棋の未来

藤井聡太王位(棋聖との二冠)に豊島将之竜王が挑戦した王位戦七番勝負が藤井王位の4勝1敗で終了した。平行して豊島叡王(竜王との二冠)に藤井二冠が挑戦する叡王戦五番勝負も行われていて、こちらは現在2勝2敗のタイになっており、9月13日に第5戦が行われて決着する。

藤井聡太二冠の活躍によって、将棋が世の中から注目されるようになった。これはとてもすばらしいことだと思うが、危機感も覚える。

将棋のタイトル戦は、一部を除いては全局が Abema TVによって生中継されている。王位戦は1局が2日間にわたる長い対局である。全部を観戦するわけにはいかないので、ときどき覗いてみていた。

中継では、 コンピュータソフトによるその局面での形勢判断と最善手が示されている。現局面での両者が勝利する確率としてパーセンテージで示される。例えば 50% 50%ならば互角、70% 30% とでれば70%のほうが有利であることを示す。ただし、この確率は対局者がこれ以降最善手を指し続けることが前提で、悪手を指せば確率は下がるし、逆転することもある。

コンピュータがほぼ最善手を示していることは間違いない。一手指したあと、評価値がめまぐるしく動くがこれは読み(探索)が深くなるので判断がより正確になっていくことにあらわれである。コンピュータがどれだけ深く読むかは、コンピュータのソフト(プログラム)とハード(機械)の性能によるが、かなり性能のよいものを使っているはずである。

藤井の強さの一つは、コンピュータが示す最善手との一致率が高いことにあらわれている。もちろん100%コンピュータ通りというわけではない。そう指さないで不利になることもある。しかし、相手もミスをするので結局ミスが少ないほうが有利になる。藤井は、対局見守るプロ棋士たちが予想しなかった手を指すことがよくあるが、その手がコンピュータ示した最善手であることがよくある。

実況中継の視聴者は、このコンピュータよる形勢判断による評価値(パーセンテージ)と最善手、そして実際に対局者が指した指し手を見ながら勝負の行方を見守ることになる。このような将棋の観戦の仕方をするようになったのは、実はごく最近のことである。

一つは、生中継で勝負を見ることができるようになったことである。将棋の生中継を見ること自体がこれまでは考えられないことであった。将棋の多くの棋戦は持ち時間が3時間以上、タイトルの番勝負ともなると、8時間、9時間になる(だから2日制をとっている)。このためにあるテレビチャンネルを独占して使用することはできない。現在、テレビ放送では、NHKのEテレと有線テレビ(CS)の囲碁将棋チャンネルが棋戦を主催して放映しているが、これらは持ち時間が短く(10分~20分)であり、また放送時間に枠内に入るように録画である。しかし、 Abema TV などのインターネットによる中継によって、長時間の生中継がj可能になった。これは将棋ファンにとってはありがたいことである。

もう一つは、先述したコンピュータ・ソフトの影響である。将棋のソフトはパソコンの登場と同時に開発がはじまったが、最初の頃は弱かった。私の記憶では20世紀の間は弱かった。どのくらい弱かったというと、私が勝てるくらい弱かったのである。ところが21世紀になると、ソフトがアマチュアの有段者の力を持つようになり、私ごときではとても勝てなくなった。ほどなくして、プロ棋士と対等にたたかえるようになった。2012年に、米長永世棋聖がコンピュータ・ソフトに敗れたのが象徴的な出来事であった。コンピュータ・ソフトはさらに開発がすすみハードの性能が高くなったこともあって、2017年には佐藤天彦名人がソフトに連敗するに至って、プロ棋士もソフトに勝てないことが明らかになった。

藤井はコンピュータも使いこなすようで、市販されるもっとも性能のよいCPUを選んでパソコンを自作し、それにソフトを入れて将棋の研究をしているようである。もともと強い人が最強のツールを使っているのだから、他の人が叶わないのも当然だとも言える。藤井に限らず、将棋界はコンピュータ・ソフトによる研究が先行し、人間は正解をコンピュータ・ソフトに教えてもらっているという状況になっている。

一方で観戦しているファンも、コンピュータの示す最善手や評価値をみている。ファンの関心は①コンピュータが示す最善種は何か②棋士がその最善手を指すか③評価値がどのように動いていくかということになる。これならば将棋をまったく知らなくても、ある程度は楽しむことができる。例えば将棋を知らない藤井ファンもいて、その人はコンピュータの評価値だけを見ているようだ。将棋はまったく指さないがプロの将棋観戦を楽しむ「見る将」が増えてきたのもこのような理由による。

このようにコンピータに完全に席捲されてしまった将棋に未来があるのか。幸か不幸か初手から最終手まですべてを指し示すようなソフトは登場していない。いかに性能のよいコンピュータでも、すべてを読み切ることは今のところはできないからである。しかし、近い将来必ず結論が出る。
そのときに将棋がどうなるのか。そこに興味はあるが、たぶん私はこの世にはいない。

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大学人の差別ツイート

広島大学助教の差別ツイート問題。
言語道断だし、自分の出身大学にこのような教員が勤めていることが恥ずかしい。
だから、この人の言動は批判されるべきだ。また、大学としても何らかの責任ある対応をすべきだ。
ところが、このことについてある団体を通じて署名依頼が来た。その内容は次の通り
・・・・・・・・・
私たちは広島大学と伊藤氏が非常勤講師を務める上記の大学に対して、以下のことを求めます:
1) 伊藤氏を解雇し、このようなことが二度と行われないように学内で差別禁止ルールを定め、再発防止策をとること。
2) 伊藤氏の講義や学内その他の場において差別発言が行われてこなかったかを調査すること。
・・・・・・・・・・
この署名には私は応じない。
学外団体が一大学に対して教員解雇の圧力をかけることには反対だからである。
一教員に大学の諸規定に違反する行為があれば、大学がその規定に基づいてなんらかの処分をくだすのは当然である。しかし、外部からの圧力を理由にした一教員の解雇などは絶対にあってはならない。
このようなことが前例となれば、大学の人事に対する外部の圧力を認めることになる。また大学当局が気に入らない教員を排除するのに外部の圧力を口実にすることも可能になる。
目的がいくら正しくても、その手段が節度を超えてはならない。

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ラジオ英会話

いい歳こいてと言われそうだが、ダメ元で昨年の途中からNHKラジオで「ラジオ英会話」という番組を毎朝聴いている。勉強の成果は見えないが、この番組の講師の大西泰斗氏(その分野では名の知れた人らしい)の提唱している文法が少し面白い。いろいろあるが、基本文型を次のように説明している。

自動型   I jog.
対象を伴わない単なる動作を表す。

説明型 Jonh is a student.
主語についての説明、be 動詞が一般的だが、ほかの動詞が使われた場合「オーバーラッピング」と呼ぶ。

他動型 I like Mary. 
動詞による働きかけが直接対象(目的語)に及ぶ形

授与型 I gave Mary a present. 
「あげる・もらう」といった授与関係を表す形。

目的語説明型
We call him Jimmy.  目的語の説明が構造するという形。him=Jimmy

その日のテキストをこのような型分類して説明している。
言ってみれば、SV  SVC  SVO SVOO SVOC のことだが、高校時代にこうやって説明されたら少しはわかりやすかったかなあ。
たとえば、授与型なら「〜に〜をやる」と訳せばなんとかなる。目的語説明型なら「彼はジミーだ」でなんとかなる(そうなるように動詞が働いてる)。

おもしろいが、私にとっては道は険しい!

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はびこる形式陶冶主義

以下の文章は、日本音楽教育学会より学会設立50周年を記念して発行される「50年の歩み」編集委員会より依頼されて執筆したものである。
内容については一任ということだったので、このような冊子にふさわしい原稿かどうかはわからないが、当時考えていたことを書きメールで送った(2018年11月30日)。

その冊子が発行されたかどうか、また私の文章が掲載されたのかもわからない。また、執筆して2年以上たっているので、主張も色あせている。

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はびこる形式陶冶主義

       吉田 孝 1998.11.30

私は1969年に大学に入学した。中学校の音楽教師をめざしたので、この時から私は音楽教育に関わってきたことになる。それから本年3月でちょうど50年たった。奇しくも、音楽教育学会も創立50周年らしい。ただ、まだ50年を振り返る気にはなれない。歴史研究の対象としては、この50年はまだまだ近すぎるし、生々しい話も多い。また、過去を振り返っている余裕も私にはない。しかし、せっかく紙幅をいただけるので、最近気になっていることについて書いておくことにする。

20173月に幼稚園教育要領、小学校学習指導要領及び中学校学習指導要領が改訂された。続いて同年4月に特別支援学校、20183月に高等学校学習指導要領が改訂された。この学習指導要領の改訂が日程に上って来た当初から、私は嫌な気がしていた。「カリキュラム・マネジメント」「アクティブ・ラーニング」などの怪しげなカタカナ語が、文部科学省の関係者によって頻繁に語られるようになっていたからである。

アクティブ・ラーニングに関して言えば、学習がアクティブ(能動的)なほうがよいのは当たり前のことである。当たり前のことをあえて「アクティブ・ラーニング」と強調するのは、そこに何らかの教育思想や特定の教育方法があると疑うのが当然である。私は、少なくとも音楽科の学習に関する限り、教育内容(学習内容)を想定しない教育思想や学習方法に関する議論に反対する(この考えはある時期に私が主張してきたこととの間に矛盾もあることは自覚している)。当然のことながら「音楽科におけるアクティブ・ラーニング」(「アクティブ・ラーニング」を「主体的・対話的で深い学び」と置き換えたところでまったく同じである)などというようなタイトルの研究は無意味だと考えている。そして最も心配したのは、「アクティブ・ラーニング」の強調が教育内容の軽視に結び付くことであった。

学習指導要領の告示によって、心配は現実のものとなった。例えば小学校の音楽科の目標は 「表現及び鑑賞の活動を通して、音楽的な見方・考え方を働かせ、生活や社会の中の音や音楽と豊かに関わる資質・能力を次のとおり育成することを目指す。」である。これは、音楽科の内容を前提にして設定された目標ではない。「見方・考え方を働かせ」と「次の通り育成することを目指す」は、どの教科もまったく同じだからである。「次の通り」以下に示された目標も、「知識・技能」「思考力・判断力」「学びに向かう力・人間性等」という枠組みに音楽に関する言葉を流し込んだだけのものである。このような考え方は、「教科・教材の実質的な知識内容を習得し保持することよりも、形式的な心的諸力である記憶力・意志力・応用力などを訓練し形成することに教育的価値をおく(吉本均『教授学重要用語300の基礎知識』明治図書、1981p.34)」形式陶冶主義の焼き直しに他ならない。形式陶冶主義は歴史上では繰り返し現れるが、現在はこの形式陶冶主義が横行している時代と言える。

音楽科の目標や内容が、音楽教育研究の論理ではなく、外側から押し付けられた原則や枠組みによって設定されたことを、研究者諸氏はどのように捉えているのだろうか。音楽教育研究が軽んじられているのである。かつては、新しい学習指導要領が告示されると、少なからぬ研究者が批判的な見解を表明した。しかし、今回はほとんどの研究者が沈黙している。音楽教育研究の危機でもある。

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教育界・今すべきこと

次のような内容のことを、 FACEBOOKのタイムラインに書いた。おそらく現場にいる先生たちが普通に感じているだろうと思うことを書いたのだが、思いのほか大きな反響があった。これだけ、現場は切羽詰まっているのだと思う。そのまま掲載する。

・・・・・・・・
コロナ対策。文部科学省も一生懸命やっているのだと思います。しかしこのままでは教育崩壊がおきます。少しでも教育課程行政に関わった研究者として、今言いたいことをまとめてみました。引きこもり人間の意見ですが、それほどピントははずれていないと思います(文も練れていません、内容は変えず、文章の修正は行うかもしれません)。

1 子どもたちと教職員の命と健康を守ることが第一
とにかく、子どもたち教職員に感染が広がらないようにすることが第一である。そのためには休校はやむをえない。また、5月の連休までという期間にもこだわるべきではない)。
そのさい、教職員についても可能な限り在宅勤務にすること。とくに外部への体裁を理由にした出勤などがないよう、各教育委員会を指導すること。このコロナ禍が去れば、教職員には激務が予想されるので、できる限り研修(広い意味での研究と修養)と休養ができるようにする。


2 現行の教育課程を絶対化しない。
ネットを使った授業などさまざまな工夫が行われている。これ自体は評価できることである。しかし、現行の教育課程(出席日数、授業時数、学習指導要領の内容)を基準にしてそれを達成しようとすると、必ず無理が生じる。現場の優れた先生たちはいろいろな知恵をもっている。有能な先生はなんとかして目標を達成するだろう。しかし、限界はある。奇妙な実践も予想される。形式的に出席日数や時間数を稼ぐ、あいまいな評価で教育課程を実施したことにする、などということがないようにする。そのために教育課程全般に柔軟な対応をする。このことを示すだけでも、現場は相当楽になるはずである。

3 教育界の知恵を結集する
現在の教育機関に対する対応は、文部科学大臣と文部官僚(事務方)が行なっているのだろうが、現場から見れば不満だらけである。その声が届かないシステムになっているも問題だ。
しかし、これまで予想もしなかった事態が起こっている。在宅している子どもたちをどうフォローするのか。エネルギーを持て余している思春期の子どもたちをどうするのか。すでに起こっているDVにどう対応するのか。課題は多い。
すぐれた教育学者・実践家の知恵を集めるべきである。中教審の各委員会はネットで開催できるだろう。それも必要だ。しかし、それよりそれを超える教育研究者や専門家などの意見がで反映できるようようなシステムをつくることが重要だ。御用学者だけでなく、教育界から広く意見を集めることである。

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尼崎市体罰

朝日新聞朝刊

兵庫県尼崎市教委は28日、市立の小中高校などを対象に体罰の実態をアンケートしたところ、小学4年生以上の児童生徒2万2559人のうち348人(1・5%)から「体罰を受けた」と申告があったと発表した。教職員2898人への調査でも、131人(4・5%)が「体罰を行った」と認めた。市教委は今後、個別の事例を詳しく聞き取り、関係者の処分を検討する。

教員の4.5%をどう見るのか? これが「体罰を行った自覚がある」という教員の回答だとするとかなり多い数字だ。自覚していないものを含めると、体罰はもっと存在しているはずだ。これは尼崎市だけに特別な状況なのか?

一般の社会には、残念ながら体罰を容認する風潮は残っている。酒飲み話をすれば、「俺は先生によく殴られた。それが良かった!」などという話はよく出てくる。酒場の教育論には反論してもしかたないが、教育界では「体罰は厳禁」ということはすでに常識になっているはずだ。また、教員養成の過程でもそのことは何度も学んでいるはずだ。現在は教員になっても何度も研修があって、何度も何度も教えられているはずだ。私は小、中、高で働いた経験はないので、どうしてこんな高い数字が出てくるのかまったく理解できない。

 

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流山市のいじめ問題

藤川大祐氏(千葉大学教育学部教授)が、21日に記者会見を開き、千葉県流山市教育委員会の法令違反かつ不適切ないじめ問題対応について公表した。藤川氏は、流山市いじめ対策調査会の元会長でもあり、この記者会見は流山市教育委員会が重大ないじめ事件に対し何の対応もしてこなかったことに対する告発でもある。

私は、藤川氏とかつて付き合いもある。藤川氏は研究者らしく慎重に言葉を選んで使う人である。その藤川氏が「嘘」と言うような厳しい言葉で批判するのだから、よほどのことだったのだろう。記者会見も子どもたちを守る最後の手段だったのだろう。

藤川氏自身が、自分のブログで経過を説明しているのでその記事を読んでいただきたい。
このようなことは、流山市またはごく一部の教育委員会の話だと思いたい。

以下、藤川氏のブログにリンク。

流山市教育委員会の法令違反かつ不適切ないじめ問題対応について

教育委員会が法令なぜ違反の対応をしてしまうのか

流山市教育委員会は資料を確認せずに嘘をつく

流山市教育委員会、後藤博美教育長にお尋ねしたいこと

 

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