新学習指導要領

学習指導要領の解説書が出揃っていることに気がついた(教育研究者という自覚はないので、文とそれに関わることだけを書く)。

当然、音楽科のことが気になる。まず、『小学校学習指導要領解説・音楽科編』を途中まで読んでみた。これはダメだと思った。

音楽科の目標は「表現及び鑑賞の活動を通して、音楽的な見方・考え方を働かせ、生活や社会の中の音や音楽と豊かに関わる資質・能力を次のとおり育成することを目指す」である。

「音楽的味方・考え方を働かせ」は、今回の改訂ではじめて現れる句である。それについてどのように解説しているか。

**引用開始****
音楽的な見方・考え方とは、「音楽に対する感性を働かせ、音や音楽を、音楽を形づくっている要素とその働きの視点で捉え、自己のイメージや感情、生活や文化などと関連付けること」であると考えられる。
**引用終了****

まず、「考えられる」という語尾がおかしい。学習指導要領を読んだ人が、学習指導要領の文言を読んでその意味を解釈したのなら分かる。しかし、この文は 「音楽的な見方・考え方を働かせて」という文言を定めた側の文なのである。自分が提案した言葉の定義をするときには、「考えられる」ではなく「である」で あるはずだ。

ほかにも疑問はつきない。

「見方・考え方」の定義が「関連付けること」で終わっている。なぜ「方」が「こと」なのか。仮に、「こと」だとしてもこの「ことを働かせる」とはどのような意味なのか。

「見方・考え方」というが、音楽は見るものなのか、あるいは考えるものなのか。それは音楽的なのか。見方に対応する言葉としては「視点」がある。では「考え方」に対応するものは何か。

実は、「考えられる」という語尾については、他の教科の解説にもみられる。

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言葉による見方・考え方を働かせるとは、児童が学習の中で、対象と言葉、言葉と言葉との関係を、言葉の意味、働き、使い方等に着目して捉えたり問い直したりして、言葉への自覚を高めることであると考えられる(国語科)。

「社会的な見方・考え方」は、小学校社会科、中学校社会科において,社会的事象の意味や意義、特色や相互の関連を考察したり、社会に見られる課題を把握して、その解決に向けて構想したりする際の「視点や方法(考え方)」であると考えられる(社会科)。
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国語科は、読んでもそれがなぜ「言葉による見方・感え方」なのかがさっぱりわからない。

社会科は、定義はわかりやすいが、なぜ「考えられる」なのかわからない。

この他の教科でも、定義の部分で「考えられる」という語尾が多数見られる。

一番重要な部分の解説がこの様である。それ以外の部分は推して知るべしである。

なぜこうなったのか。以下は推測である。

今回の学習指導要領の改訂においては、各教科での議論の前に「中央教育審議会教育課程企画特別部会における論点整理について」という文書が出された。その 文書に示された用語、例えば「見方・考え方」を各教科の学習指導要領に盛り込むことが、各教科の目標を定める前に決まっていた。したがって各教科の担当者 (委員)は、「見方・考え方」という用語を苦心惨憺して各教科の目標に挿入した。

もともと各教科にこれらの用語を入れる必然性があったわけではない。したがって、目標を決めたあとの解説書を作成する段階で、そこで使った用語の定義を考えざるを得なかった。だから「考えられる」というようなおかしな語尾が数多く出てくることになった。

こんなところだろう。

これまで、教育課程の改訂をみてきたし、自分も関わってきたことはある。今までは、形式的ではあっても、ボトムアップで議論が進められた。今回は完全にトップダウン方式で改訂が行われた。

解説文というのは、一度読めば頭の中に入って来るものでなければならない。しかし、こんな文では日本の教師の知的水準がいくら高いと言っても、きちんと理解するのは無理だろう。

この学習指導要領が全面実施されるまでには、文科省は何度も説明会や研修会を開くことになるだろうし、学校関係者もその説明会で振り回されることになるだろう。膨大な時間と労力が費やされることになる。

もちろん、力量のある教師は、こんなことに振り回されることはなく、上手に折り合いをつけて(あるいはつけたふりをしながら)、自分の実践を立派にやりとげるのだろう。こんな教師をたくさん知っているので、まったく悲観はしていない。

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忸怩

自民党の義家弘介議員の加計問題に関する国会質問の中での発言

「文部科学省の組織的な天下り斡旋に自身も関与を指摘され引責辞任をされた前川前次官、恣意的な報道を繰り返してきたマスコミのみなさま、また、野党議員による根拠はないが結論はありきといった姿勢の追及に対し、忸怩たる思いを抱いてまいりました」

「忸怩」が気になる。

友人の国語教育研究者がFBに投稿していて気がついたのだが、「忸怩」とは、「恥じ入るさま」だそうだ。広辞苑もこう定義している。だから、このまま読むと「追求があり、(与党の議員として)とても恥ずかしい思いをしている」という意味になる。ただ、それなら、自民党議員としても反省しているという意味になるからとても良いことだが、「根拠はないが結論はありきといった姿勢の追求に対し」てなら恥じ入る必要はない。

ちょっとカッコよさそうな言葉があったので使ってみたくなったのだろうが、国会という場で、またそれを野党やマスコミ批判のために使うなら、もっと調べて使えばよい。まだまだヤンキーだな。

かくいう私も言葉使い間違いはよくする。「忸怩」も意味をずっと取り違えていた。ただし、自分の個人的なブログやSNSの範囲でのことで、自分一人が忸怩たる思いをするが、間違いを訂正すればそれですむことだ。

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教訓

私は、40年間大学教員をやってきたが、学生にほとんど教訓めいた話をしたことがない。

その大きな理由は、自分自身が人生訓や教訓など垂れるような人間でなないと自覚しているからだ。そんな話は恥ずかしくって、逆立ちしてもできない(逆立ちもできない)。

もう一つは、人生訓や教訓というものが通用するのはある特定の条件下であって、どんな場合にもまた誰にも通用する教訓などありえないと考えているからである。それどころか有害な場合さえある。

よく偉い人の言葉を引用して講話などをしている人をみると、とても気持ち悪くなる。だから私は、そういう教訓話をしなければならない仕事には決して向かなかっただろうと思う。会社の代表、学校の校長、学部長などである(まあ、なりたくてもなれなかっただろうが)。ただ、国立教育研究所時代に「室長」という職についたことはある。ただし、構成員は室長一人で室員はいなかった。

というわけで、先日「赤ひげ」(山本周五郎原作 NHK BS時代劇)というテレビ番組で、船越英一郎扮する主人公が「万人に当てはまる教訓などない」と言っているのを聞いて意を強くした。

しかし、ちょっとまてよ。ではこの「万人に当てはまる教訓などない」というのは教訓ではないのか。もしこれが教訓だとすると、この教訓も万人には当てはまらないということになる。そしてこれが万人に当てはまらないとすれば・・・。パラドックスの典型例である。

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私は、これまで人生で3つのことをやめた。自分にとってはとても大きなことだ。

1 41歳の時に車の運転をやめた。まず、車を処分した。それから43歳の誕生日に免許を失効させた。理由は、1)酒と両立できないこと、 2)反射神経が鈍いので、煽られたとパニック状態なること、3)考え事をすると運転に集中だきないことである。

2 50歳になる少し前に煙草をやめた。これは前からやりたかったことだが、本当に決断するまでに30年かかった。理由は健康のためというより、嫌煙権論者の弾圧に負けてしまったことである。

3 65歳で仕事をやめた。昨年の3月である。私学なので定年まであと3年あり、給与もフルに支払われることになっていたのだが、思い切ってやめた。一つは、研究や教育に情熱がほとんどなくなったこと、もう一つはやりたいことあったこと。ただ、やりたかったことはまだ全然できていない。

というわけで、やめたことをまったく後悔はしていないのだが、夢の中ではこれがまったくやめられない。

1 夢の中運転をしているが、ブレーキが効かなくなったり、ブレーキに足が届かない夢が多い。先日は、車がバックするのにブレーキに足が届かない夢だった。運転していて、検問に引っかかり「ああ、私は免許証を捨てたんだった」と気づく夢を見ることも何度かある。

2 夢の中ではもうすでに1日1箱ほどの喫煙者である。そして「あれ、自分はやめたはずなのにいつの間にか元に戻っている」と気づく。夢の中の煙草はとてもうまいが、夢の中で後悔している。

3 授業をしている夢をよく見る。ただ、授業の準備をまったくしないので、教壇に立ってもやることがない。ただ、なにかわけのわからない(自分でも何を話しているのかわからない)をとりとめなく話している。学生が一人、二人と教室から出て行く。ある時は、なにか学生のしたことで怒り、学生を大声で怒鳴りつけている。

このように辛い夢ばかりである。目が覚めて、ほっとするのだが、そういうときはたいてい汗びっしょりかいている。とにかく夢が怖くてしかたない。

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稼がない男

西園寺マキエ『稼がない男。』同文館出版、2013

以前、「パートナー婚」というカップルの形があること、そしてその当事者が自分の知り合いだったことを知って驚いたことがあるが、それと同じくらいの衝撃だ。しかし、読了後は爽やかさばかりが残る。

フリーターとフリーライターのカップルの17年間(出版後も同じ状況らしいからもう20年以上)を女性の側から書いている。

この本の主人公であるヨシオ君も、実は私のよく知っている男だ。東京時代に知り合った。よく話もしたし、いっしょに酒も飲んだ。彼は30代前半だったと思うが、頭は切れるし話も面白かった。

ただ、30過ぎても定職につかない彼のことを随分心配した。その彼から彼女といって紹介されたのが著者のマキエさんだ。魅力的な女性だった。彼女の存在を知ってますます「定職につけよ」と思ったし、実際にそう言ったような気もする。

私が東京を離れてからは、彼のことは頭の中から離れていたのだが、「稼がない男」とは彼のことだということを教えてくれた人がいて、読んでみることにした。彼は定職につけないのではなく、自分の意思でつかなかったのだ。そしてそれが彼の生き方でもあったのだ。

「時給は安いけどなんたってラクだもん。会社勤めとかのストレスに比べたらぜんぜんたいしたことないよ」

「誰かが儲かるってことは、どこかで誰かが儲からなくなってるわけさ」

そんな彼と20年以上もつきあっている(これからもずっとつきあっていくのだろう)マキエさんも素敵だ。もう二人とも50 歳を超えているはずだ。

幸せの形は一つではないということを若い(相対的にという意味で)二人に教えられた。著者のマキエさんの筆力もすばらしい。

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千成俊夫先生

昨日、北広島市(北海道)の千成俊夫先生のお宅にお邪魔した。御病気だと聞いていたのでお見舞いのつもりだったのだが、「快気祝いだ。ワインがある。俺も少しだけ飲むから飲め!」と言われてびっくり。先生手作りのラタトゥイユまでいただいて、2時間があっという間に過ぎた。

「引き際はきれいに」は千成先生をお手本にしたことを話すと、とても喜んでおられた。お互い職場を何度も変わったので、お金がたまらなかったことを話題にしたら、奥様が同意されて笑われていた。うれしくなった。

お別れの時には、外まで見送りに出て来られて「お前、元気でな!」。あれ? という感じだが、これが千成流。やっぱり、凄い先生だ。私はこの師に教えられたことを誇りに思うし、この師と巡り会えて本当に幸せだったと思う。

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偲ぶ会

昨年は、同窓の大学院の二人の後輩の訃報を受けた。
先日、その一人を偲ぶ会があって出席し別れの言葉を述べた。

私より若い後輩の訃報を受けるのはもうごめんだ。
また、後輩に対する別れの言葉を話すのは、今回が最初で最後にしたい。

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新学習指導要領

新学習指導要領案発表。
音楽教育研究者は辞めたので、その文言についてのみ一国民の立場で一言。小学校音楽科の目標。( )は中学校の目標。

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「表現及び鑑賞の(幅広い)活動を通して、音楽的見方・考え方を働かせ、生活や社会の中の音や音楽(、音楽文化)と豊かに関わる資質や能力を次の通り育成することを目指す。
(1)
(2)略
(3) 」
**************

昭和44年学習指導以来の箇条書きの復活である。これで少し分かりやすくなるのかと期待した。しかし読んでがっかりした。公の文でこれほど非論理的な文を見た経験がない。

分析
a 表現及び鑑賞の幅広い活動を通して、
b 音楽的見方・考え方を働かせ、
c 生活や社会の中の音や音楽と豊かに関わる資質・能力を
d 次の通り育成する
e ことを目指す。

a まず、この「通して」はどこにかかるのか。従来の説明では、指導のあり方を述べたものだから、そこから推測すれば「育成する」にかかっているとしか読みようがない。

b ここが一番わかりにくいところだ。「働かせ」の主語は、「教師」なのか「児童」なのか?もちろん教師も働かせなければならないが、わざわざここに文章に書くのは、児童に働かせて欲しいからであろう。また「働かせて」だから、これに続くのは用言でなければならない。そう考えると「関わる」しかない。「・・・働かせ、・・・・関わる」とつながるのだろう。

c ここは、今回の学習指導要領の目玉らしい、育成すべき「資質・能力」を示した箇所である。つまり、この目標の中心である。

d 前の節のcで育成すべき対象を示したのだから、ここは「育成する」だけで十分なのだが、「次の通り育成する」となっている。ただ、「次の通り」は次に書くことの予告文であるべきだが、何を予告しているのかさっぱりわからない(次に書いてある箇条書き文も突っ込みどころがいっぱいだが、つきあっている暇はないので省略する)。

e ここを見て私は椅子から50センチ飛び上がるほど驚いた(実際はは1mmも飛び上がってないが)。「育成すること」が目標ではないのか? 目標に「育成することを目指す」と書いてしまえば、「目標を目指す」と言っているようなものである。つまり「私の目標は東大を目指すことです」と言っているようなものであり無意味である。

このように分析すると、今回の目標は「生活や社会の中の音や音楽と豊かに関わる資質や能力を育成する」ということに尽きる。

さらに「音や音楽と豊かに関わる」ためには、働かせなければならないものはたくさんある。「音楽的見方・考え方」だけがなぜこんなに突出しているのか。「音楽的見方、考え方」は資質・能力の一部ではないのか。そうであれば、ここに書くのではなく、まさに箇条書きにその一つとして記せばよいのである。例えば、次のような文章で十分なのである。

「生活や社会の中にある音や音楽と豊かに関わることができるようにする。そのために次のような資質・能力を育成する」
(「音や音楽」は生活や社会の中にあるのは当たり前だから、なくてもかまわないかもしれない)。また「資質」などということばを使うと説明が大変になる、それに概念的に言えば、「資質<能力」だから、ないほうがよいかもしれない。

学習指導要領の目標がなぜこんなに非論理的なのか?
おそらく、この文章を作成したメンバーのせいではない。まず最初に枠組みが上から押し付けられるからである。
・「見方・考え方」を入れよ
・「資質・能力」を入れよ
・「を通して」を入れよ
・文末は「目指す」とする
・箇条書きの部分は、「(1)知識・技能、(2)思考・判断またはそれに準ずるる事項、(3)関心・意欲・態度」を入れよ。

だから、他の教科も判で押したように同じ文章になっている。
例えば、国語。

「言葉による見方・考え方を働かせ、言語活動を通して、国語で適切に理解し適切に表現する資質・能力を次の通り育成することを目指す。」

国語の専門家がこんな非論理的な文章を出して平気でいるわけではないだろう。委員の方々は内容についてはかなり時間をかけて議論をしたのであろうが、最終的にこんな文章を出さなければならないとは気の毒でならない。

まあ、それでも現場には優秀な人材がたくさんいる(とくに音楽関係)ので、それほど心配はしていない。

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文部科学省幹部の天下り問題

天下るほうも下るほうだが、研究論文なんかほとんだ書いたことがないような人間(教育行政についての知識や手腕はあるが、少なくとも研究者ではない)を教授として雇い入れる大学も大学である。大学が何か一つ新しいこと始めようとすれば、その許認可の権限をすべて文科省が握っているのでそうなるのだが、これは国会等で徹底的に追及してほしいと思う(まさか、私の元職場はそんなことしていないだろうな)。

天下りもひどいが、もっとひどいのが所轄の研究所の人事である。例えば、省内にある某研究所は、所長、副所長、各研究センター長、研究部長等の研究の指導的ポストのほとんどを研究者ではなく文部科学省の幹部あるは中堅の幹部が独占するようになった。もちろん研究所だから事務職としてはなく、研究職つまり文部教官として就任するのである。つまり教育研究という独自の役割をもった研究機関の研究職ポスト(それも幹部ポスト)を文部科学省の事務官がやってきて一時的に利用しているのである。そして、それまでまったく研究の経験もなかった人間が所長や部長の地位につき、長年研究を続けてきた研究者の上に立ってあれこれ指図するという構図になっているのである。

ここの所長や(現在の)研究部長に研究経験がないのは一目瞭然である。ほとんど教育関係の学会では名前を聞いたこともないような人間ばかりである。だから、研究所のHPを見ても、研究者紹介のページはあるが、名前だけでそれぞれの研究者にどんな研究業績があるのかがまったくわからない(幹部には何の研究業績もないから出せないのだろう)。

当然、これらのポストも一時的な腰掛けポストなので、たいていは1〜2年で交代する(とくに所長、次長、センター長)。こんな研究所からよい研究が生まれようがない。もちろん、ここで働いている一般の研究者の中にはすぐれた研究者がたくさんいるし、ほとんどの研究者は誠実な方ばかりである。しかしその人たちの力が十分には発揮されていない。

天下り問題が出てきたことを機会にここにもしっかりメスを入れる必要があるのではないか。

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声なき蟬

音楽教育研究者、教育者としては私はもう終了

これからは声なき蟬になる。
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