どんぐりさんのおうち

「どんぐりさんのおうち」というけしからぬ歌に対抗して、移動ド原理主義者の替え歌。

(原曲をそれぞれの調に移調して歌います)。

原曲
「どんぐりさんのおうちどこでしょう? ふたつのおやまのひだりがわ」

変二長調 「・・・・ふたつのおやまのひだりやま」
二長調 「・・・・ふたつのおやまのあいだです」
変ホ長調 「・・・・ふたつのおやまのみぎのやま」
ホ長調 「・・・・ふたつのおやまのみぎがわよ」
ヘ長調 「・・・・みっつのおやまのひだりがわ」
変ト長調 「・・・・みっつのおやまのひだりやま」
ト長調 「・・・・みっつのおやまのなかとひだりのあいだ」(早口で)
変イ長調 「・・・・みっつのおやまのなかのやま」
イ長調 「・・・・みっつのおやまのなかとみぎのあいだ」(早口で)
変ロ長調 「・・・・みっつのおやまのみぎのやま」
ロ長調 「・・・・みっつのおやまのみぎがわよ」

| | コメント (1)

連携

幼小連携、小中連携、中高連携、高大連携、、、、、とった、言葉が教育界で流行している。東京都には、いわゆる小中一貫校がだいぶできているようだ。また、中高一貫の県立学校も全国で生まれている。それでどんな成果が上がっているのかは、よくわからない。

学問的にきちんと調べて検討したわけではないが、私はこの「連携」という言葉には懐疑的である。どうも、行政の都合、あるいは現場の都合はあるにしても、上の学校の都合だけでこうした施策が進められているだけのような気がする。そこに働く先生たちからもあまりいい話は聞かされない。

そもそも学校の制度が、幼、小、中、高、大に区分され、それが長い間維持されてきたことには、それなりの意味があるはずであるからではないか。それぞれの学校もにはそれぞれの時期の役割がある。それぞれの学校で一応区切りをつけ、そして新しい学校で心機一転再出発する機会があることはよいことである。つま 過去を一旦リセットして、新しいステージを迎えるということである。

「連携」とか「一貫」という言葉のもとで、学校間の区分がなくなってしまえば、いつまでも過去の自分をひきって歩かなければならなくなる。これは子どもたちにとっては不幸なことだと私は思っている。

それぞれの学校は、いまある現在の子ども(児童、生徒、学生)の姿をそのまま受け入れ、再出発させるための教育をしていけばよいのである。

そろそろこうした学校に関する調査結果がでてきてもよさそうである。もちろん、研究者や研究機関による客観的な調査でなければ意味がないが。

| | コメント (2)

階名唱

今の学生は、階名唱などほとんど経験したことがないようだ。だから、楽譜を見て階名視唱などとてもできない。しかし、それでも楽譜に階名をふらせると(ドの位置がどこかをきちんと教える)、完全とまではいかないまでもある程度の階名視唱ができる。逆にこれをやると音痴になるのが、子どもの頃からピアノを習い、「ドはドに決まっている」という学生である。Cの音をファとよんだりソと読んだりすることが気持ち悪いと言う。不幸だと思う。

このような状況をみると、階名を読む困難さえ克服すれば普通の人(絶対音感をドレミで身に付けた人を除く)にとって階名視唱はそれほど難しくないことがわかる。言い換えれば、相対音感はほとんどの人が身に付けているということになる。

学習指導要領では、「相対的な音程感覚を身に付けさせるため、適宜、移動ド唱法をもちいる」ことになったが、むしろ階名唱は音楽経験によって身に付けた相対的な音程感覚を視唱や音楽理解に利用することということになる。もちろん階名唱をすれば音程感覚はさらに精度を増す。

トニック・ソルファ法やコダーイの方法などによれば、階名を読むことはそれほど困難でない。にも関わらず、学習指導要領では階名による視唱は小学校ではハ長調・イ短調に限定してしまっている。これでは、「ドはドに決まっている」という観念から抜け出させるのは無理である。また、多くのピアノ教師は幼い子どもに「ドはここです」と固定的に教える(「Cはここです」と教えてくれていたらどれだけ、階名が教えやすいか)。私は、これをてっとりばやくピアノを弾かせたいというピアノ教師のエゴだと捉えている。そして学校教育もこのピアノ教師のエゴに迎合しているのである。

「どんぐりさんのおうち」という歌がある。よくこんなばかげた歌が掲載されている教科書が検定をくぐり抜けてきたとあきれるばかりである。

・・・・・・・・・・・・・・・
とここまでは移動ド原理主義

私は上のような移動ド原理主義者ではない。
で、現実的な提案も含めた論文を書き始めた。(続く)

| | コメント (3)

実地教育研究

2年次の学生が毎週木曜日に学校園に行って観察や学習補助などの実習を行う「実地教育研究」。先週で事前指導がおわり、今日から学生たちが各校に出かけた。計8日の実習を行う。私の受け持つクラスの21人の学生は5市7校に散らばった。

この間の私の役割は、この8週の間に実習校を訪問することと、21人が毎週提出してくる観察記録を読み赤を入れて返すこと。

観察記録は、A3版1枚の様式に、観察した授業や生活指導の記録、補助した活動の記録、1日の自分自身の学習をぎっしり書かせる。締切はその週の金曜日まで。私はそれに赤を入れて火曜日に返す約束をしているのでかなりきびしい。昨年は土曜か日曜のどちらかが1日つぶれていた。宇佐美寛氏ではないが、「敵も苦しい」と思ってがんばるしかない。

実習生が行っている学校への訪問をはじめた。今日は2校。どの学校も協力的でありがたい言葉をいただける。阪神地方は東京と同じで東西への移動が難しい。おまけに車も持ってない(前記事参照)ので、自転車で訪問をすませた。

| | コメント (0)

車は凶器(暴論)

また、高校生の列に自動車が突っ込むという事故が起きた。この所、痛ましい自動車事故が続いている。被害者やその家族・遺族の方々は事故の理不尽最にやりきれない思いだろう。一連の自動車事故の責任は、もちろん運転者にあるし、その罪は厳しく問われるべきである。

しかし、いろいろな事故の原因を考えてみると、問題はもっと大きなところにある。それは、かつてはだれもが合意していた「車は走る凶器」という認識が薄まってきていることにある。車は一歩間違えば凶器である。数日前の京都の事故や高速道路のバス事故のように、運転者が居眠り運転をすれば大事故になる。それほど悪質な違反でなくても、ちょっとした心の油断が大事故を引き起こすこともある。

結局、事故が起きる原因は、凶器を所持し操作しているという自覚も能力もない人が自動車を所持し運転しているということにつきる。

「暴論」と言われそうだが、次のような対策をすべきである。

1 運転免許の取得を厳しくする。例えば、現在の一種の基準を現在の二種くらいまで引き上げる。
2 違反の罰則規定を厳しくする。例えば、いかなる違反も一発で免許取り消し。
3 免許の更新を厳しくする。例えば取得時と同じレベルの学科試験と技能試験を受験させる。
4 自動車の購入(所持)条件を厳しくする。自動車を所有する理由のない者は所有できない。
5 自動車の保有者の管理責任を厳しくする。事故が起きた時には保有者も責任を負う。

要するに、法律を厳しくして自動車そのものを減らすしかない。とくに自家用車をなくすことだ。今の日本でそのなことは無理だと言われそうだが、自家用車がなければ生活ができない社会が異常なのである。

この狭い日本に、車社会は似合わない。私自身は運転能力も自動車の管理能力も欠けていることを自覚しているので、20年ほど運転もしていないし、車も持っていない。運転免許証も捨てた。

| | コメント (0)

主我を愛す

GWの中日の1日(水曜日)。以前から、学校礼拝で話しをするように依頼されていた。私は、ここにも書いたように心に染み入るような話しをするのは苦手である(シモネタなら大丈夫だが、学校礼拝では死んでもできない)。当然、音楽の話しになる。私が選んだタイトルは「主我をアイス」(カタカナにした意味は何もない。話しのタイトルをメールで送った時に全く確認せず出したらカタカナだったようだ。単なる変換ミス)

2~3日前から風邪で声が森進一状態だったが、それも一つの表現法と思って礼拝にのぞんだ。与えられた時間は20分。その中で次のような話しとパフォーマンスをした(出席者はいつもより少なく30名程度)。
(1)1番をギター(フォーク)弾き語りで歌う(旧賛美歌版「主我を愛す」の歌詞。ニ長調だが、声が出ないのでハ長調で。コードも弾きやすい)
(2)阪田寛夫『童謡の天体』(講談社)を紹介しながら、この曲が明治時代から歌われていたことを話す。阪田寛夫は、聖和大学・聖和短期大学学歌「新しき歌」の作詞者でもある(格調高い歌詞だ)。
(3)同じくギター伴奏で明治時代の歌詞で歌う(「エス我を愛す」)
(4)大阪弁の歌詞も存在したことを話し、ギター伴奏で歌う(エスはんわてを好いたはる)
(5)私の祖父が「我が主エス」の部分で頭を深々と下げていたこと、4番まであるので12回頭をさげていたことなどを話す。
(6)私は子どもころふざけて「・・・おそれはあらじ、かぜかぜ吹くなしゃぼん玉とばそ」と歌っていたことなどを話す(歌つき)。「おそれはあらじ」「こわれて消えた」が同じ旋律であること、どちらも「ファ」と「シ」がないことなどを話す。
(7)この歌の歌詞のポイントは、主語が「我々」「私たち」ではなく「我」「私」であることを話す。「私たち」より「私」のほうが強い。
(8)出席者といっしょにこの歌をいっしょに歌う。リフレの部分のアルトとテノールを練習する。ベースは同僚にオルガンを弾いてもらう。(ここから二長調に戻す。声はひどいが勢いで歌う)
(9)最後にみんなでギター伴奏で歌う。少しポップ調の「主我を愛す」になった。最後にリフレをもう一度繰り返し、最後の「我が主エス」で止め、「我を愛す」をゆっくり歌う(ちょっと悪のり)。

というわけで、ちょっとは楽しい礼拝の時間(?)になったかナ。

| | コメント (2)

スーツ

この土・日は東京だった。昨日は会議に出席。会議にスーツを着ていったら「どうしたんですか」と言われた。今年になって、ほとんどスーツを着たことがなかった(どうしても着なければならない時は、その一瞬でけだけ着てすぐ着替えていた)。

実は、1〜3月の間は急激な体重増で、着られるスーツがなかったのである。ズボンがパンパンならまだよいのだが、前ボタンも止めにくい状態。スーツを着たら歩くのも苦しかったのである。

それで3月末から一年一念発起(というほどはないが)次の3つを心がける。
①適度な運動(毎日の徒歩通勤、休日はウォーキング)
②食べ過ぎに注意(八分目でやめる・・・・もう少し食べたいをがまん。お酒はがまんしない)
③「もう一度走りたい」という気持ちを持ち続ける。
昨日は、東京・新橋のホテルで朝を迎えたのだが、靴を持って行き皇居の周囲をウォーキング(もっとも、iPod Touch をもってFacebook にアップしながら歩いたので単なる散歩になった)。

というわけで、体重は順調に減って3キロ減(「たった3キロ」とも言えるが、自分で貯め込んだ脂肪なので仕方がない)。なんとか、スーツが着られるようになった(まだ少しきついが)。

ただ、最初はすぐに体重が落ちる。最初に落ちるのは内蔵脂肪でまだまだ大量に皮下脂肪が残っている。皮下脂肪はなかなか頑固なのでゆっくりゆっくり燃やしていくしかない(ダイエットを途中であきらめるのは、この皮下脂肪がなかなか減って行かないせいだ)。これからが正念場である。皮算用だが、6月くらいからウォーキングをジョギングに切り替え、7月からはランニング・トレーニング、秋には、市民ランニング大会出場、来年にはフルマラソン・・・・、道は遠い。

・・・・というわけで、今日も歩く。

| | コメント (0)

ピアノは危険

一昨日のこのブログ記事を読まれたのかもしれない。大きな重荷を背負ってしまった。

昨日の1年向けのピアノ入門の授業。グランド・ピアノのふたがしまっていたので、学生にふたを開かせることからはじめた。ところが、あぶないあぶない。指をはさみそうでヒヤヒヤする。そこで、しばらく時間をとって、ふたの開き方、譜面台の立てかた、ついでに響版(大蓋)の立て方などを指導する。

考えてみると、ピアノは危険な楽器である。小学生にとっては。ふたを開いたり、大蓋を立てたりする作業を子どもにさせる大けがをする危険性がある。何年生になったら子どもにさせてよいのか・・・・結構悩む問題だ。どなたか実践していないだろうか。

もう一点は、地震対策。昨日私が使ったピアノはインシュレーター※もなく、直に床に置いてある。大きな地震がくれば必ず転がる(これはすぐ対策をする)。それで、最後に次のように話す。
「地震がきたら、ピアノの側からできるだけ離れなさい。まちがっても、ピアノを押さえつけたり、ピアノの下に隠れたりしてはいけない。アップライト・ピアノは倒れてくるので、もっと危険です」

そう説明すると、一人の学生が
「先生、アップライト・ピアノって何ですか?」

※もともとは、床の共鳴を遮断(調整)するためのもので滑り止めではないのだが、滑り止めとしての効果はある。

| | コメント (2)

礼拝

関西学院大学では、1限目と2限目の間の休み時間が40分間ある。この時間はチャペル・アワー(学校礼拝)で、どのようなイベントも入れられない。もちろん、信教は自由なので、教員も学生も出席は強制されていない。だから、教員・学生が全員出席するわけではない(全員が出席できる、チャペルの容量はない)。全員が出席しないのに、40分の時間をあけておくのは無駄だという考え方もなりたたないわけではないが、それは違う。

関学はキリスト教主義の大学。私は、せっかくキリスト教主義の大学に入学したのだから、キリスト教についてはきちんと学習してほしいと思う。少なくとも、キリスト教とは、どのような教義なのか(宗派によって異なるが)、キリスト教徒とは一体何を信仰しているのか(個人によって異なるが)について一端には触れてほしいと思う。これについては、「キリスト教学」(必修)といった科目があるので一通り学ぶことができるだろう。

しかし、もう一つ重要なことは、キリスト教の習慣やキリスト教主義的な考え方に触れることである。そのためには、礼拝に、出て賛美歌を歌ったり、祈りの言葉に触れたり(例えば「「主の祈り」)、宗教主事やキリスト教信者の話しを聞いたりすることが大切である。そしてその話しを自分なりに解釈したり、批判したりすればよい。ただ、学校礼拝は、教会の礼拝とはまったく異なる。だからこれを「礼拝」と考えるにはまったく不十分であるが、それでもキリスト教の習慣に少しは触れることができる。

学生にはできるだけ礼拝に出席するようにすすめたい。そして私も今年度はできるだけ礼拝に出席することにする。実は、毎日同じ時間に礼拝に出席することによって、生活にリズムができるという利点がある。もちろんそんな実益を求めての出席でもよいのである。

***最近人間が素直になりつつある。「ひねくれ」は返上しなければならないかな。

| | コメント (2)

備忘録

8日(月)から新年度の授業がはじまった。一通り終えたところである。それぞれの「授業びらき」をきちんとしようと思って、私にしては珍しく気合いを入れて望んだ。うまく行ったところもあれば、空回りしたところもある。それぞれ反省しなければならない。

水曜日は教授会。ミスを一つしていて謝罪。これはあきらかにうっかりミスなので、言い訳のしようもない。そう言えば、3月の教授会でも謝罪・・・これは個人的なミスとは言えないが、言い訳のしようがない。子どもの頃からケアレス・ミスが多かったのだが、年をとるにしたがってさらにそれがひどくなってきた。・・・ミスをなくす方法を考え実践中・・・・うまく行ったらここで紹介したい。

先月末、とうとう体重が80キロを超えた。検査をしたら、中性脂肪の値が異常に高かった。医者に「早死にしますよ」と言われた。早死にするのはよいが、メタボで死ぬなんておしゃれじゃない。すぐ走るのは無理なので、「ウォーキング」として歩いて大学へ、それから食べる量、飲む量を少し減らす。「もう一度フルマラソンを走ろう」という意思を持ちつづける。少し効果が出てきた。

FaceBook をよく見るようになった。よい仲間がよい情報をたくさん落としてくれる(私のはがらくたばかり)。ただ、面白すぎて時間を忘れてしまうのが玉にキズ。少し、自重することにした。

教師の条件として「子どもが好き」というのは当然のことである。大学教師は「大学生が好き」でなければならないだろう。ただし、それは一般論であって、 「子どもが好き」になりすぎてそれが不適切な行動に結びつく場合がある。大学教師でも「大学生が好き」というかわりに、(男性教員が)「女子学生が好き」 と言えば問題にはなるだろう。個人に向かって「好き」などと言えばもう懲戒も覚悟しなければならないことになる。

私は、ある時期から大学生にはできるだけ感情を持たずに付き合うことにした。むしろ、「バカで、未熟で、無知で、礼儀知らずで、図体だけ大きくなったガキ」と思うことにした。また、それに近いことをこのブログにも書いてきた。しかし、私がそう思っていることは、学生にも伝わるのだろう。けっこういろいろな反発がある。授業の感想文を見てもそれがよくわかる。それでもいいのだと思っていた。・・・・ところが最近自分の気持ちがゆるんで来た。学生たちがとても可愛く見えてきた。とても愛おしく見えてきた。ああ、いかんなあと思う。

| | コメント (0)

«話すのが苦手