上尾(あがりお)信也『音楽のヨーロッパ史』(講談社現代新書)
トランペット奏者の曽我部清典さんとのやりとりの中で、次の本を紹介した(発言番号130)。
・上尾(あがりお)信也『音楽のヨーロッパ史』(講談社現代新書)
人が音楽をどれだけ政治的に利用してきたかについて述べた本である。この本の最後で上尾氏は次のように言う。
「平和に仕えようが、戦争に仕えようが、人間はムーサイを利用する。それが音楽の歴史である。音楽によって無自覚に感情や感覚を支配されるのではなく、音 楽を奏し聴く個人個人が音楽を自律的に支配することこそ、音楽の力を自らの内にしたことになる」
賛成である。では、個人個人が音楽を自律的に支配するためには、どうすればよいのか。まさにそれが音楽教育の役割ではないか。とりわけ、小中高等学校の音 楽教育は音楽のプロ(生産者を育てるために行うのではない。音楽を享受するアマ(消費者)を育てるために行うのである。
音楽を自律的に支配できるような音楽の消費者を育てるのが学校音楽教育の役割である。そのためには、音楽について、音楽への私たちのかかわり方について、 音楽と社会との関係について考えさせるような教育が必要である。
「学校音楽教育は消費者教育であるべきだ」
10年以上も私がくりかえしてきた主張である。
ただし、カリキュラムをどう改善していくべきかという問題と、現状の制度の中でどんな実践をしていくかという問題は、別の問題である。
ひねくれ教育事典 【い】の部
イデオロギー 持っていると世界がよく見えたような気になるが、実ははるかに多くのものを見えなくする魔法の絨毯。かつて○X主義という魔法の絨毯を手に 入れた青年は、それに乗って森の上を飛んでみた。森全体が見渡せて気持ちいい。得意になった青年は、それ以来、森の中に入ることをせずいつも森の上空を飛 ぶばかりだった。魔法の絨毯を手に入れられなかったもう一人の青年は、仕方なく森の中を歩き回った。来る日も来る日も地を這うようにして歩き回った。その うちに森の中にはさまざまな生き物が棲んでいることがわかった。その生き物と会話ができるようになった。そして森そのものが生き物であることも分かった。 最後に森とも会話ができるようになった。魔法の絨毯の青年はと言うと、あんまり得意になってはしゃぎすぎたために、絨毯から転げ落ちましたとさ。「木を見 て森を見ず」より「森を見て木を見ず」のほうがはるかに危険。
昨日は大雪。自宅で本読んだり調べものしたり家事したり。
弘前公園で雪灯籠祭りが開かれている。出かけるので、そのついで寄ってみよう。
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メール・マガジン第1号、無事発行されたようだ。
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