「学び」という言葉
「学び」
流行だからか、それとも特別な意味があるのか。「学び」という言葉がよく使われるが、うさんくさい。学会で「教師の評価と子どもの学び」と言うタイトルの 発表があったが、おさまりが悪い。なぜ一方が「評価」という二文字熟語で、もう一方は連用止めなのか。
教育学では伝統的に学習という言葉が使われて来た。もし「学習」という言葉で不都合だというのならばその理由を聞いてみたい。
例えば「教授-学習過程」はどうなるのか。学習が「学び」なら、「教授」は「教え」か。「学び-教え過程」ではおかしいから、「学び-教えのプロセス」と でも言うのだろうか。しかしやっぱりおかしい。
動詞を連用形で止めて体言の働きをさせることはよくある。その時「学び」は「学ぶ行為」そのものをさす。しかし、「教え」は「教える行為」ではなく、「キ リストの教え」と言うように、「教えられた事柄」を指す。だから学習を「学び」とすると、「教授」に対応する言葉がなくなってしまうのである。こういう場 合、二文字の熟語を使うと都合がよいのである。
「学習」をすべて「学び」という言葉に置き換えてみるとどうなるか。
「自己の学び」「学びの意欲」「学びの集団」「創造的音楽学び」「生涯学び」
とても窮屈である。かっこよさそうな言葉にすぐ飛びつくのも問題だ。ひどい場合、「学び」と「学習」が混在した文もある。どう違うんだとだれかさんにかみ つかれないようにご用心。
ひねくれ教育事典【う】の部
うんどうじょう(運動場) 日本の学校には必ず備え付けられていて「ここは学校だぞ!」という目印になっている施設。その脇にかまぼこ型の体育館があれ ば、もう絶対に学校だ。欧米の学校には必ずしも運動場がないので、日本人が学校を訪問をしようとすると迷うことがある。運動場は運動する場所だが、最近で は少なくなった土の踏める場所でもある。運動場の土地を確保できず、屋上を運動場にしている学校もでてきた。その場合はその学校は何を目印にしているのだ ろう。また、土のある運動場がなくなれば、土踏まずという言葉は死語になってしまうのであろうか。そうなると扁平足の私はとてもうれしいのだが。
昨日は一人で飲みに出た。飲み過ぎた。飲むと夜があっというまに終わってしまう。もったいないと思うのだがやめられない。
今日も大雪の模様。カラオケで「あーあ、ひろさきィは、きょーォも、ゆきーィだった」と歌ったら受けた。
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