横田憲一郎『教科書から消えた唱歌・童謡』(産経新聞社・2002・1238円)
現行の学習指導要領が、以前のものと一番大きく変わったのは、共通教材の削除である。以前は小学校・中学校とも、歌唱共通教材と鑑賞共 通教材が指定されていたが、現行の指導要領では、小学校の歌唱教材だけになってしまった。そのため、これまでの教科書に掲載されていた愛唱歌が消えてしま うことを懸念する声が高くなった。それを反映してか、一昨年から昨年にかけて、唱歌・童謡に関する本がたくさん出版された。私もすべてにあたったとは言え ないが、家の本棚だけにでも十数冊はある。そのうちの一つ
・横田憲一郎『教科書から消えた唱歌・童謡』(産経新聞社・2002・1238円)
唱歌、童謡の紹介で、資料としてはおもしろいのだが主張が一方的すぎる。たとえば次のような主張である。
「戦後教育は戦前の諸価値を否定することにより進められた。歌の世界でも戦前の天皇制や軍隊にふれた歌詞まで変えられた。過剰反応としか思えない言葉狩り はいまだに続いている」
これに続いて、歌詞改作の例を出している。
例えば、「われは海の子」の7番の歌詞は次の通りである。
「いで大船を乗り出して 我は拾わん海の富 いで軍艦に乗り組みて 我は守らん海の国」
著者は現在では3番までしか歌わないことを批判する。その理由として次のように述べる。
「曲が作られた明治43(1910)年といえば、日露戦争に勝利して五年後だ。元気な少年が海軍にあこがれるのは自然なことであった。それを軍国主義と決 めつけるのは浅知恵というものである」
確かに、軍国主義と決めつけるのは浅知恵だ。しかし、それならば著者の言う明治43年の少年にとって自然な歌が現在の子どもにとって自然なのか。こういう 歌を「共通教材」に入れておくことが自然なのか。こういう検討をしないで批判ばかりすると主張全体が壊れてくる。著者も次のように言う。
「歌はそのときの国情や世相を映す鏡でもある。いたずらにカットせず、時代背景まで教えるのが教育だ」
賛成である。しかし、カットせず時代まで教えるとすれば、「共通教材」で何を扱うべきかについて慎重な議論が必要になってくる。
教科書でカットされていることを著者が批判している例をもう一つ紹介する。「蛍の光」の3番である。
「筑紫のきわみ みちのおく 海山とおく へだつとも その 真心はへだてなく ひとつに尽せ国のため」
これについて次のように言う。
「もうおわかりになるだろう。「国のため」や「守り」が気に入らないのだ」
それを言うなら、この歌詞そのものがもともと改作であったことも紹介すべきであろう。音楽取調掛が1881(明治14)年に小学唱歌集にこの歌を掲載しよ うとしたときは、「海山とおくへだつとも その 真心はへだてなく」は「わかるゝみちは かはるとも かはらぬこゝろ ゆきかよい」だったのである。「か はらぬこゝろ」は男女間で契る言葉だとして当時の文部省が圧力をかけたのである(園部、山住『日本の子どもの歌』岩波新書)。
唱歌や童謡に思い入れが強い人はたくさんいるはずだ。それはそれでよい。しかしその思い入れのために情報が一面的になることがある。この本だけでない。
ひねくれ教育事典 【ぬ】の部
ぬきうちテスト(抜き打ちテスト) 予告なしに突然試験をすること。今や、この言葉も死語になった。今大学で抜き打ちテストをしたら「シラバスにそんなこ と書いてない」といって文句を言われるだろう。それなら、シラバスに次のように書いておくことにしようか。「学期の間に3回テストをします。この3回のテ ストの点が計60点、期末テストが30点、出席点を10点とします。学期の間のテストは予告なしに行います。出席者の少ない日に抜き打ち的に行います」
昨日は紀伊国屋に。一週間ぶりだ(日曜日は弘前にいればたいてい行くのだが)。音楽関係の本8冊、新書2冊、文庫7冊、計17冊。18000円ちょっと。 カードという便利なものを持っているのでついつい買いすぎる(いやいや、本はいくら買っても買いすぎることはない)。私は自分が読む本はすべて自腹で買う ことにしている。もちろん公費で本を購入することはできる。しかし、それは公共のためである。共同で利用するため、学生に読ませるため、貸し出しのためな どである。もちろん研究のためも公共のための一つではある。しかし私は管理がまったくできないのだ。紛失するとめんどうだ。だから自分で何でも買ってしま うのである。
そう言えば、この冬は衣類を何も買ってない。
「ぼろは着てても心は錦、どんな花よりきれいだぜ」。そうだ、水前寺清子なのだ。
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