唯我論 続き
一昨日、永井均『<子ども>のための哲学』のことを取り上げた。
その中に次のような下りがある。
「いま考えられているのは、A、B、C、D、の4人の男の子がいて、Bが<ぼく>であったのに、Bに何の変化もないまま、ただBが<ぼく>ではなくなっ て、単なる<ぼく>になってしまう、という状況だ。突然<ぼく>でなくなるということが考えにくければ、Bが<ぼく>である現状と、もともと<ぼく>では なかった仮想状況を対比しても同じことだ。もちろんそん場合でも、他の点では、Bに何の変化もない、と考えねばならない」
よくもこんなことを考えるものだ、哲学者とは何とひまな人間かなどと思っていたらちゃんとちゃかしが入る。
・勢古浩爾『思想なんかいらない生活』(ちくま新書・820円)
上の永井氏の文を引用したあと、勢古氏は次のように続ける。
「などと延々やられた日には、もうめんどうくさくてうんざりである。ところが永井はさらに「話をおもしろくするために、突然<ぼく>でなくなる方を考えて みよう」とひとりノリノリでグイグイ自説を開陳していくのだが、悪いことにちっとも「おもしろく」ならないのである。「ぼくはなぜ生まれたか」「ぼくがな ぜぼくなのか」「ぼくとは何か」。何度もいうが、こういう問いにとらわれるのは自由である。そのひとの勝手だ。だが、この問いは地の果てまでいっても、無 意味である。無意味であろうとなんであろうと、そういうことを考えずにはいられない人間がいるのだということはわかる。だがそれもまた無意味である。この 無意味の中に意味を読み込むことができないほどに無意味。ふつうの人間には、その無意味を意味あるように生きることさえできない」
そうなのだ。自分がめちゃくちゃに意味があり重要なことだと考えていることでも、「その無意味を意味あるように生きることさえできない」別の人がいるの だ。まあ、研究者全体に言えることなのだが、だいたいほとんどの人は、自分のやっているテーマがその分野の中では一番おもしろいものだし意味があるのだと 思っているはずだ。またそうでなければ、こんな仕事はやってはいられない(なんせ、わざわざみんながいやがる勉強を一生やろうというわけだから)。しか し、違う人から見れば、そんなことはどうでもよい・・・むしろほとんど大多数の人間にとってどうでもよいことなのだ(このサイトだって吉田はとってもすご いサイトだと自負しているのだが、インターネット世界全体から見れば、ゴミみたいなものである・・・という自覚はしている)。
明後日から日本音楽教育学会の大会が武蔵野音楽大学ではじまる。私は今回はパスする。大会の発表要旨のついたプログラムを見る。発表者は力みかえっている けど・・そんなことどうでもいいじゃない・・というものも(といっても何も発表もしない私よりはマシです)。
勢古氏の本はタイトルの過激さからか馬鹿売れしているようであるが、言い方が過激なだけで、主張は常識的すぎるくらい常識的である。代表的なのは次。
勢古浩爾『まれに見るバカ』(洋泉社新書y・2002年・720円)
※本の紹介のさいに値段をつけるのは、学生の皆さんを考慮してのことである。だいたい新書は定価は平均750円前後である。大学生協の書籍部で買えば、 もっと安くなる。ちょっとぜいたくな昼食1回分である。ほとんど躊躇なく買えるものを紹介している。
ひねくれ(ない)教育事典 【を】
をしへる(教へる) そうなのだ!おもろいことに、教育の「教」は旧仮名遣いでは「を」を使うのである。(ちっともおもしろくないってか?)
というわけで、ひねくれ教育事典は2巡目がおわり3巡目にはいる。
3巡目からは50音全部網羅するのはさすがに無理なので、とばしたり重複したりしながらすすめていく。
(このコーナーを本にしたいと言ってくる出版社がないこともないこともないこともないこともない)
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