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2004年11月13日 (土)

愛国心教育

ショートカット。コンピュータ上ではとても便利である。しかし、人間の思考までショートカットではこまる。今きわめて短絡的な思考で教 育改革がすすめられようとしている。
少年犯罪がおこると、「大変残念な事件があった。大切なのは教育だ。子供たちに命の大切さを教え、この国、この郷土のすばらしさを教えてゆくことが大切 だ」と発言する政治家がいる。そして、そこから愛国心教育を強調し、教育基本法の「改正」を主張する。つまり犯罪がおきるのは愛国心がないからだという ショートカットである。ほとんど居酒屋談義である。この愛国心教育、教育基本法「改正」の主張を徹底的に批判した本である。
・高橋哲哉『教育と国家』(講談社現代新書・720円)
高橋氏は主としてデリダを中心に研究している哲学者である。愛国心に対する高橋氏の考えは次の部分に集約されるだろう。
「もちろん愛国心をもちたいという人に、それを禁止する権利は誰にありません。(中略)それは「愛」なのですから、その愛を禁止するということは原理的に できないのです。国家からの強制ではなく、自分自身で愛国心をもちたいと言っている以上は否定することはできません。それを否定しまうと、思想・良心の自 由も否定しなければならないので、自己矛盾になってしまいます。
大切なのは、同時に、自分は愛国心をもちたくない、あるいはそういう教育を押しつけれれたくない人の自由権も認めるべきだということです。近代民主主義国 家においては、人々の愛を「これを愛せ」という形で法制化することは間違いです。何を愛するかは一人ひとりが決めることで、たとえ対象が何であったとして も、国家が、私が何をするかを強制することができるはずはないのです」
それはそうである。「愛」に限らず、人間の精神のあり方を強制することなどそもそも不可能なのである。そしてそれが不可能なことは強制しようとする側さえ わかっているのである。それがわかっているからこそ、そのような精神のあり方を具現化した「形」を求めることになるのである。例えば卒業式での醜悪な事態 はその典型的な例である。3月30日のこの欄で紹介した守口朗氏の文をもういちど引用する。
「保守強行派に牛耳られた一部の教育委員会は、ここに来て校長から決定権を取り上げ、国旗は壁にはれ、国歌は生演奏で斉唱させろ、起立しない教員は処分す るといいはじめた。私の知る最悪の例は、肢体不自由児のための養護学校で、それまで同一のフロア形式で行っていた卒業式を壇上方式に変更させたことだ。こ れにより多くの生徒が、自分の力で卒業証書を受け取る喜びを絶たれてしまった。---中略---教育委員会の役人が国歌斉唱時に国旗に尻を向けて「起立」 「斉唱」の実施率をチェックする姿を想像してほしい。かくも愚劣な行為が、「愛国心」の重要性をとく人たちの圧力により本当に起こっているのだ」(『授業 の復権』新潮新書)
愛国心をいくら強制しても教育がよくなることはない。形式主義がはびこるだけである(近頃の学校現場での息苦しさはこの形式主義によるものである。大学に も少しずつ形式主義がはびこってきた)。しかし、国家と個人の関係、すなわち個人の側から言えば国家とどう向かい合いその一員である国民としてどう生きて いくかということを冷静に考えることは重要である。それは決して精神のあり方ではなく、具体的な場面での意思決定のあり方の問題である。そういう意味で は、「国」「国家」「国民」等についての教育が不十分だったことも事実である。そういった議論は必要である。現在の教育改革を批判する人たちも代案を示す べきだろう。居酒屋談義で教育改革がすすめられてはならない。

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