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2004年11月 7日 (日)

多数決

小学校・中学校・高校を通して、意思決定の方法の一つとして多数決を学んできた。対立する意見があれば多数決をするのが当たり前のこと だと教えられてきた。だから、大人社会でも当然そうするものだと思ってきた。ところが、実際は違う。会議で多数決を取ることなどまずないのである。全員が 合意することが建前なのである。
私の所属する学部内のある委員会(A委・私も所属している)が、学部全体のことを決定していく委員会(B委)にある提案をした。そのB委ではA委の案にい ろいろ意見は出たが了承された(とオブザーバー出席していた私はそう思っていた)。ところが、次のB委員会(私は出ていない)で前回都合で欠席していたD 委員が猛烈に反対し、結局B委員会はA委員会に提案を差し戻してきた。私はその後、D委員と顔を合わせたときに「ひどいじゃないですか」と抗議をしたら、 D委員は「私だけではなくB委員会の半分くらいは反対だった」と言われる。半分くらい反対者がいればこれはもう否決されるはずなのだが、そうはなっていな い。反対者が半分もいるなら前回そんな意見が出ているはずである。嘘とは言わないがその場の雰囲気からくる思いこみで言っているのである。多数決をしてい ないのだからそんなことはわかるわけがない。
私は徹底抗戦を考えたのだが、A委員会は委員長はじめ穏やかな方ばかりなので、A委員会では差し戻しの意見にはしたがおうということになり、これ以上譲れ ないという線まで大幅譲歩して再提案した。
しかし、それでもB委員会ではさらに意見が出たのである。つまり委員会として大幅譲歩した案をさらにもっと譲歩せよと迫る委員がいたのである。中には今回 の提案の前提までこわすような(私のような教員養成学部で生きてきた人間から言えば「アナーキー」としか言いようのない)意見まで出たのである(その会議 では言えなかったが、今度会ったら必ずやっつけてやるから覚悟しとけ!プンプン!)。こうなるともう突っぱねるしかない。「私たたちにそういう考えはな い」と突っぱねた。それでも反対なら勝手にしてくれという気持ちである。実はその前にもう一人のA委の委員と「これが通らないなら辞任しよう」と打ち合わ せていたのである。そのせいもあってかなんとか「合意」が形成された。しかし、これは第一段階である。教授会がある。
こういうふうに混乱するのはなぜか。声の大きな人には実は責任はない。このような決め方をする限り最後まで主張し続けるのはある意味では当たり前のことで ある。その大きな原因は、多数決をとらないことにある。大学の会議では、意思決定はほとんど「合意」という形をとる。「合意」をするまで議論することがよ いことだとされる。そうすると声の大きな少数者は徹底抗戦することになる(私も時と場合によってはこの戦術を使う)。結局提案したほうは譲歩するしかな い。結局声の大きな少数派の意見が採り入れられることになる。
しかし、これはきわめておかしな方法である。つまり多数決をせず合意をはかろうというのは、少数意見は存在することすら認めないという理念である。逆に声 が大ききれば少数意見でさえ全体の決定になってしまうのである。
きちんと決定のルールを確立すべきである。国会と同じでよいのである。
・意見が対立したら多数決で決める。
・提案の一部に反対なら、文の形で修正案を出す。
・多数決で負けたら、潔く多数に従う。
これでよいのだ・・・
ただ、大学は法人化で自らのことを自らで決めることがきわめて少なくなってきた。こういう議論そのものが意味がなくなるのがこわい。


ひねくれ教育事典 【れ】
れきし(歴史) 自分の負って立つ世界観によって、見え方のまったく異なってくるもの。それは単に、ある現象をどう見るかということにとどまらず、現象そ のものが存在したかどうかというところまで異なってくるのである。例えば、日中戦争が勃発した1937年に中国国民政府の首都南京でおきたとされるあの事 件である。ある人たちは「南京大虐殺」と呼ぶ。しかし、別のある人たちは「そのような事件はなかった。それはまぼろしにすぎない」と言う。そしてまたある 人たちは、事件はあったが「大虐殺と言えるものではなく戦争のなかでは通常におこりえるものだった」という。これらをそれぞれ「虐殺派」「まぼろし派」 「中間派」と言う。このような異なった見え方が存在する場合、教育の世界では結局それぞれの見方を認め、判断は学習者にゆだねるべきだとおもうのだが、そ う簡単にいかないのが教育界である。どう難しいかについては・・・歴史教育の専門家に聞いてくださいよ。なお、この南京事件については、次の本を参照され たし。
・北村稔『「南京事件」の探求 その実像をもとめて』(文春新書・2001年・680円)

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