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2006年7月13日 (木)

あの戦争を子どもにどう語るか 期末試験にて 

『現代教育科学』8月号の特集は「「あの戦争」を子どもにどう語るか」
巻頭で5人の社会科教育の研究者の方が提言をされている。そのうち4人の方に私は面識がある。
森脇孝治氏は、扶桑社の教科書を「とうてい受け入れがたい」解釈と批判したあと次のように結論づける。
「歴史教育は本来教化とならざるをえない。それを避けようとすれば、歴史による社会(科学)研究とするか、解釈にこだわるなら、論争学習、解釈批判学習とし、個々の子どもによる解釈を支援するほかはない。後者にするなら、解釈が対立する教科書は絶好の教材となるのである」。これは矛盾していないか。「とうてい受け入れがたい」解釈も、論争学習の教材に成りうるのか?
安藤豊氏、吉永潤氏は、読まなくてても内容はわかる(苦笑)。
おもしろかったのは永田忠道氏の「「理想・理念」と「取引・談合」」。この方は我が元同僚である。
永田氏は朝日新聞の「現在の国際関係を脅かしているのは理想の喪失ではなく、理想を高く掲げ、自分の抱く理念を疑おうとしない態度である」という文を引用し、「「あの戦争」を子どもに語るときに、当時、どんな物事が理想として高く掲げられて、理念を疑おうとしない態度が、どのようにして形成されていたのかを考えさせたい」と言う。そして戦前の教科書の記述を紹介しながら、「このように高く理想を掲げ、自分の抱く理念を疑わせない態度の形成は、戦前や戦中のわが国では、ある意味において見事な教育的効果を成果として残した」する。そして、現在についても次のように言う。
「確かに掲げる内容は大きく変わったが、依然として、別の理想を高く掲げ、自分の抱く理念を疑おうとしない態度の形成は様々な場で継承されているように感じる」
当然次のような疑問はおこる。理想、理念を語ると言っても、強制力を持つものが語るのと持たないものが語るのでは違うのではないか。また、「理想・理念」と「取引・談合」を対立的に捉えるのもどうか。実は理想・理念の裏に取引・談合が存在しなかったのか。しかし、理念・理想を疑う態度の形成は重要だと思う。とくに教育界自身に。



そろそろ、大学は学期末を迎える。最終週には期末試験が行われる。
昨年度前期の大人数の科目の期末試験での話。
試験開始後30分したら退出してよいことにしていた。したがって、30分以上遅刻したら、試験が受けられない旨を学生に伝えておいた。
受講生が300人もいれば、中には30分以上も遅刻してくる学生がいる。ある女子学生が遅刻してきて、「どうしても受けさせてほしい」と泣きついてくる。仕方がないので、「試験とは認めないが、解答用紙に記入をするのは認めましょう」と言って、着席させ解答させた。もちろん、たとえ満点でも単位は出さない。
試験が終わって、その女子学生が私のところに来て言う。
学生「先生、どうしても試験として認めてもらえませんか」
私「ダメダメ」
学生「どうしてダメなのですか」
私「途中で退出した人から、あなたが問題を聞かなかったという保証はないでしょう」
学生「ぜったいにそんなことはしていません」
私「そうしなかったという証拠があるかね」
学生「私の答案を見てもらえればわかります」
私「えっ・・・・・それじゃあ、・・・・・・試験として認めても同じだろう」
学生「それもそうですね、えへへ」
私「・・・・・・・」
明るくてたいへんよろしい。しかし、単位は出さなかった。

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