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2007年10月23日 (火)

私は、夢を見るほうである(人がどのくらい夢を見ているのか知らないから「ほうである」と言う言い方はおかしいのだが、ほかにどう言えばいいのかわからないのでとりあえず「ほうである」と言っておく。少なくとも「ほうではない」と言うより文のすわりがよい)。いろいろな夢を見る。楽しい夢も見るし恐ろしい夢も見る(これも書く必要のないことかもしれないのだが、なんとなく文の流れで書くことにした)。
楽しい夢・・・20代くらいの私がだれかと恋に落ちた夢(相手が誰かはっきりしないのが夢らしいところ)
恐い夢・・・どこかの国(どこの国からわからないのが夢らしいところ)の革命運動に加わって独裁政権に捕まり、銃殺刑になりそうな場面の夢
楽しい夢も恐い夢もクライマックスで覚める。
前者はたいてい・・・・。後者は銃殺刑の直前である。目が覚めて、ああ、夢かと思ってがっかりしたり、ああよかったと思ったりする。
しかし、たまに目が覚めて「ああ夢か」と思ったことがまた夢だったりすることもある。そのあとまた夢の中(の夢の中)で起こったとおりのことがまた(夢の中で)起こる。そしてもう一度目がさめる。

やっぱり夢かと思いつつ・・・そこで私は考え込んでしまう。いやひょっとしたら、今こうやって生きているこの時間も実は夢の中なのかも知れない。いやそんなことはない。もう50数年生きてきた。この50年は(途中眠って意識がなくなることはあるが)連続している。・・いやしかし、ひょっとしたらこの50年が夢の中かもしれないのだ。この50年は二十歳位の希望に燃えた青年が旅の途中でご飯を炊いているのを待っている間の夢かも知れない(そうなると邯鄲の夢だ。歴史は繰り返すか)。どうしてそうではないと否定することができるのか。そして、目が覚めたら、二十歳の青年だったらどんなにうれしいことか(夢でもいいから、そんなことがあったらいいのに)。

などと考えをめぐらしていたら、同じようなことが書いてある文を見つけた。


「荘子は夢の中で胡蝶になった。すっかり胡蝶になりきって、ひどく愉快だった。自分が荘子であるという自覚すらなかった。ところが目覚めてみると、まぎれもなく荘子である。いったい荘子が夢で胡蝶となったのか、それとも胡蝶が夢で荘子となったのか」
   中略
「いまの状態が覚めているとどうやって判断するのか」という問いに「現に眠っていないから」と答えてみても、その状態からさらに覚める可能性は退けられない。こうして生きている世界が夢であっては困るから、現実が夢でないという根拠を求めたくなるのは人情である。けど残念ながら、そんな根拠はどこにも見つからない。夢と現実が同じだからではない。夢と現実との区別の可能性を問うこと自体が、はなから無意味だからである。



山田史生『日曜日に読む『荘子』』ちくま書房、740円

言わずとしれた我が同僚の山田史生氏の本である。前に『寝床で読む『論語』』と言う本を紹介した。『論語』の方を本人からいただいたので今回もいただけると期待していたのだが、なかなかいただけないので自分で買った。そのことを話すと、「ちょっと今回のは難しくて・・・」と言う返事。そうか、「難しいからおまえには無理だ」と思われたか(泣)

読んでみると、事実難しかった。わかったのは、この引用した部分だけである。でもよいのだ。「わからないからおもしろい」と書いてある。確かにおもしろい。しかしやっぱりわからない。

ところで、この本によると山田氏は日曜日に酒を飲みながら、リヒター指揮の「マタイ受難曲」を聴きながら、「荘子」を読むのだそうだ。キリストの十字架物語と中国思想・・・哲学者は私はとはだいぶちがうなあ。酒を飲むのだけは同じだが、私の場合はテレビを見ながらうたたねである。テレビの音と夢が交錯して不思議な世界が・・・・

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