東京
東京にきている。本当は明日用があるのだが、自分の研究の件で昨日から上京している。
これで、今年5回目の上京になる。疲れが相当たまっている。今日は1日あいたので、ゆっくり本屋めぐりでもしようと思う。できれば、1日禁酒しよう。
東京にきている。本当は明日用があるのだが、自分の研究の件で昨日から上京している。
これで、今年5回目の上京になる。疲れが相当たまっている。今日は1日あいたので、ゆっくり本屋めぐりでもしようと思う。できれば、1日禁酒しよう。
私小説というものをほとんど読まないが、話題になってる作品は気になる。20年度下半期芥川賞受賞作、津村記久子「ポトスライムの舟」(『文藝春秋』3月号)を読んでみた。
主人公の長瀬由紀子は29歳。工場の契約社員で月給は13万8千円。夜は、友人の店で3時間働く。時給は850円。大学時代の友人と食事をするその食事代も惜しいと思う。そんな主人公の日常が淡々と描かれている。
あるNGOの主催する世界一周のクルージングの代金が163万円。自分の工場の年収とほぼ同額である。これに参加したいと思っているが、実現しそうにない。
先が見えない。希望がない。どうしようもなく暗い日常である。特別に魅力的な主人公でもない。それでも読んだ後はさわやかな気持ちになる。今やこのような日常は特別なことではなく当たり前のことである。私の身近にもこのような状況の人はいくらでもいる。それでもうんざりしないのは、作者の才能か。
この小説が書かれた時に比べると現在の経済事情はもっと悪化している。このことがわかっていたら、この小説はもっと別の展開をしていたかもしれない。選考委員の一人の小川洋子氏は書いている。
「津村さんはこれからどんどん書いていくことだろう。それは間違いないことであるし、一番大事なことである」
そう思う。
※私は、「ポトスライム」という観葉植物があることを知らなかった。おそらく、何度もきいたことのある言葉だろうし、その観葉植物も見たことがあるに違いない。しかし、植物そのものを意識することも名前を知りたいと思うこともない。感性のなさの所以かもしれない。
ベートーヴェン作曲「交響曲第7番イ長調」は、ベート^ヴェンが酩酊して作曲したと酷評された。たしかに、第一楽章は千鳥足で歩いているようにきこえるし、終楽章などは「オエーッ」とうなっているようにもきこえる。舞踏会をイメージしたものだという説もある。そのように聴こうとすればきこえないこともない。しかし、この壮大な曲はもちろん酩酊していては書けない(酩酊してきくことはできる。フィナーレの時は完全に眠っているが)。
水島新二の傑作漫画「あぶさん」の主人公のあぶさんは酒豪である。まんがの中ではあぶさんが実にうまそうに酒を飲む。その場面を見ると、読者の私までむしょうに飲みたくなってくる(飲みたくなるだけでなく、たいていは飲んでしまう)。ところが作者は下戸で一滴も飲めないそうである。酒を飲まなくても酒のうまさは描けるのである。
というわけで、私は酒のうまさを文章や音楽であらわすことはできない。ただし、できるだけ酒の印象を悪くすることだけはしたくないと思っている(思っているだけで、たまにすることもある)。しかし、あの政治家は酒の印象を非常に悪くしている。それだけならよいが日本のという国の印象まで悪くした。おまけに潔くない。酒飲みの風上にもおけない。
定額給付金が出た場合。過去の私なら必ずやっていたと思うのだが(もう卒業した)。
12000円というお金はどうも中途半端だ。前からほしいと思っていたものには、少し手が届かない。エイッ! どうせもともとなかった金だ。なくなってもともとだ。
というわけで、行き先は決まっている。そう、チンジャラである。チンジャラに行けば、12000円はだいたい50分でなくなる。2~3回大当たりしても、3時間足らずである。たまに、運良く4~5万になることもある。そこでほしいと思っていたものを買えばよいのだが、また欲が出る(というよりもう中毒になっている)。だからその4~5万も1週間はもたない。おまけに元金の給付金もなくなってそれ以上に使ってしまう。
前にも書いたが、青森県ではテレビの地元CMはほとんどチンジャラである。それだけ県民から集金しているということだ。統計的な証明はできないが、私の感覚では給付金の10%はチンジャラ業界に行ってしまうのではないだろうか。
そもそもチンジャラは明らかに賭博である。いろいろな景品は置いてあるが、ほとんどの人は換金できる景品と取り替える。この換金のシステムを押さえれば誰もチンジャラに行かなくなるだろう。それができないのは業界と政治の馴れ合いのせいである。業界からはもちろん政治献金が出ている。ちゃんと自民党遊技業振興議員連盟というのがある。
ところで、チンジャラのことを別名「ぱ×××」と言う。この「ぱ」は「はまる」と読む。続けて読むと大変である。
小泉元首相が、定額給付金関連の法案は衆議院の議席2/3を使ってまで成立させなければならない法案ではないと発言した。
すこし危うくなったが、この法案が成立したと仮定して・・・
以下は妄想である。
某学会の会員は約1500人、会員が定額給付金のうちの10000円を寄付してしてくれたら1500万円。学会運営が相当楽になる。もちろん、景気を刺激しなければならないから、新しいコンピュータをはじめ事務用品はすべて買い替え。会議はすべてホテルで昼食付き、会議終了後は打ち上げ。それでも使い切れない場合は専用の乗用車。
キリスト教の某宗派の実質的な信者数は約10000人。この信者に献金してもらえば、1億円。全国の老朽化した教会を改修すれば、少しは景気回復に役に立つかもしれない。そして、会員100万人の団体が、さらに会員1000万人の団体が同じことをしたら・・
あくまで妄想ですからね。
飲む時間もないと感じる(感じるだけで実際には飲んでいる)ほど、あわただしい毎日を送っている。ブログを更新するのも忘れていた。いや、ブログを開設していることすら忘れていた。
引っ越しの準備もしなければならないが何もすすんでいない。いや、4月から住む家さえ決まっていない。インターネットの不動産情報を見て、めぼしい物件を見つけたら仲介の不動産屋に電話で尋ねるのだが、案外うまくいかない(すでに決まっていたり、条件が合わなかったり)。それに関西では、敷金とか礼金とかいうのがめちゃめちゃ高いのだ。礼金40万+敷金30万円というのがざらである。
そもそも、「礼金」とは一体なんなのだろうか。不動産屋さんには手数料を払う。敷金とか保証金なら普通は戻ってくる。どうも、丸ごと持って行かれるお金のようだ。それにしても「礼金」という名はおかしい。本来、住居の賃貸は契約によっておこなわれるのはずである。契約時に必要なお金なら「契約金」とすればよいのである(もちろん払いたくはないが、まだ自分を納得させることができる)。礼金という訳のわからないお金だけは絶対に払いたくない。
ということを言っているから、なかなか住居も決まらない。
円天の社長ら22人が逮捕された。3万7千人から1260億円集めたそうだ。一人あたり約340万円になる。そもそも100万円で年間36%の配当など、詐欺でもしないかぎりあるわけがないと考えるのが普通の感覚である。だまされた人には悪いが、○○である。
その点、私は絶対に大丈夫である。大金(10万円程度)をなくしたことはあるが、だまし取られたことだけはない。詐欺にだまされない方法は簡単である。
宵越しの金を持たない。
それだけである。自慢じゃないが、この歳になって家もなければ貯金もない。
弘前大学の学生が、全国的な音楽コンクールで最高位を獲得したことが話題になっている。快挙である。入学した頃から力があって人一倍努力する学生だったから、当然と言えば当然でもある。
ところが、この最高位というのが「2位」なのだそうだ。審査が点数制になっており、何点以上が1位、何点以上が2位というふうに決まっているので、1点足りずに「1位該当者なし」ということになったようだ。しかし考えるとこれは馬鹿げている。
そもそも1位とか2位というのは集団の中の序列であって、集団の中に1人でもいる限り1位はいなければならないのである。マラソン大会で、最初にゴールした人の記録が芳しくなければその人を2位にできるのか。山の高さの順位に基準をつくって、「4000m以上を1位」などと決めることができるのか。それでは富士山は日本2位の山になってしまうではないか。
小学生の部もある大会のようだが、一体小学生にどう説明するのか。国語教育の観点から言ってもよくないではないか。ちなみにこのコンクールのホームページをのぞくと、最高位が3位とか4位とかいった部門がたくさんある。簡単に1位や2位を出してはコンクールの権威が落ちるということなのだろうが、かえって見苦しい。1位や2位を出したくないのなら、金賞、銀賞あるいは、優秀賞、優良賞のような賞名をつければすむことである。「金賞該当者なし」なら理屈は通る。
音楽のコンクールには時々このようなおかしな賞の付け方がある。もちろん、こんなことにケチをつけるのはひねくれの私だけであって、本人は《点数が足りなかったのは自分の力不足。いっそう精進しなければ》と思っているに違いない。この素直さがなければ人間は成長しない。
昨日の読売新聞朝刊に小さく出ていた記事である。
宮城県松山町(現大崎市)で一家4人が殺された「松山事件」で再審無罪となった斎藤幸夫さん(2006年7月死去)の無実を訴え続けた母、斎藤ヒデさんが昨年12月24日、老衰で死去していたことが分かった。
101歳だった。再審を担当した弁護団が明らかにした。
1955年10月、農家が全焼し、焼け跡から一家4人の遺体が見つかった事件で、ヒデさんの次男幸夫さんは強盗殺人、放火容疑で逮捕され、60年に最高裁で死刑が確定した。
その後、79年に仙台地裁が再審開始を決定し、84年に無罪判決を宣告、確定した。
ヒデさんは、最高裁での死刑確定後に刑の執行が迫ったとみられると、植木庚子郎法相(当時)に「息子を生きたまま返して」と直訴。さらに15年以上にわたり、再審開始を求める署名活動を全国で続けた。
弁護団の青木正芳弁護士によると、ヒデさんは、数年前から入所していた大崎市内の特別養護老人ホームで亡くなった。
私は、若い頃にこの斎藤ヒデさんを見かけたことがる。1970年頃だと思うが、広島で行われた原水爆禁止世界大会の会場の入り口で「松山事件」と書かれたノボリを掲げて署名を集めていた。その後も別の場所で2~3度見かけた。その時は支援者もなく、たった一人でチラシを配りながら署名を集めていた。今考えると当時すでに60歳を越えていたようである。小さな体で懸命に息子の無実を訴えているのが印象に残っている。
その後84年に無罪判決が出たときにそのこのお母さんの姿をテレビで見て、本当に良かったなあと思った。それからまた15年、幸夫さんが亡くなったことも知らなかった。ほとんど忘れていたのだが、この記事によって署名を集めていたヒデさんの姿を思い出した。
昭和20年代から30年代にかけて、日本では数々のえん罪事件がおきている。八海事件や仁保事件のように最高裁で無罪になったものも事件もあるが、免田事件や財田川事件やこの事件は、一度死刑が確定して再審によって無罪の判決が出たものもある。もし再審がなければ取り返しのつかないことになっていたのである。いや、取り返しのつかないことになっていたことすら明らかになっていなかったかもしれない。
私は、「死刑廃止」論者ではない。しかし、その適用や執行は慎重であるべきだ。とくに最近は判決が世論の動向の影響を受けているように思う。少し危険な兆候である。また裁判員制度もはじまる。これらの一連のえん罪事件の教訓を生かさなければならない。
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