心の教育?
関西学院大学のホームページに、横山利弘教授の「心の教育って何?」という記事が掲載されている。
この記事は、日本航空(JAL)グループの機内誌『SKYWARD』の2009年4月号の「関西学院大学スカイセミナー」という1頁広告にも掲載されているので、多くの人の目に触れていると思う。
全体の主張は別として、最後の次の言葉だけはいただけない。
学校では心の教育と言いながら、行動の指導や言葉づかいの指導に終始していることが多いのですが、心の教育という以上は、知・情・意の働きに目を向けた指 導をしなければならないと言えます。たとえば子どもをほめるときも、行動をほめるのではなく、心の方をほめるのが大切なのです。
反対である。
私たちも簡単に人の心をほめることがある。「やさしい人だ」「意志の強い人だ」などである。しかし、それはあくまでもその人の言葉や行動のいくつかを見て、それらをたばねて「やさしい」「意志が強い」などのラベルをはっているだけなのだ。心をほめているのではなく、言葉や行動をほめているにすぎないのだ。
自分自身のことを考えてほしい。ある言葉を発する時、あるいは自分の行動について意思決定する時に、自分の心の状態は他人がほめたりできるほど単純か。「やさしい行動」をしている人間の心の状態が常にやさしいとは限らない。私は、電車の中で「くそばばあが、こんな混雑した電車にのってくるなよ」と思いながら、老人に席を譲ることがよくある。どんなに「いけすかん学生だ」と心の中で思っていても、指導はきちんとする。学生と接するときには、わたしの心が冷静であると学生に見えるように努力している。重要なのは、私の心の中の状態ではなく、他人に見える私の行動である。
子どもの行動も同じである。子どもといえども、心の中ではそれなりにいろいろ葛藤しているのである。しかし、それまでの学習と意思決定の結果として言葉や行動が出てくるのである。例えば、心の中ではどんなに「嫌いな奴」と思っても、言動にはそれをみじんも出さない子どもは立派な子どもである。心ではなく、結果として表れた言葉や行動のほうがはるかに重要なのである。だから、その言葉や行動が重要であることを教えなければならないのである。心ではなく、言葉づかいや行動をほめるべきである。l
横山氏とはいずれどこかでお会いすることがありそうである。いつかこの疑問を投げかけてみたい。
「教育」カテゴリの記事
- アベノマスク FBより(2020.05.26)
- 教育委員会(2008.07.13)
- 教員採用試験汚職(2008.07.07)
- 研究会案内(2008.03.06)
- 理科離れ(2008.02.21)
感性学院⇒関西学院ですね。ごちそうになります(笑)。はっとさせられる主張ですね。いつも感服させられます。じっくり考えてみたいと思います。
投稿: 南風 | 2009年4月15日 (水) 07時23分
「感性」と書いてすぐ気づいて訂正したのですが、ほんの一瞬のスキを疲れました(泣)
投稿: 吉田孝 | 2009年4月15日 (水) 09時41分
99%まで吉田さんに賛成。
でも、マタイによる福音書に、こうあります。
あなたがたも聞いているとおり、『姦淫するな』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。みだらな思いで他人の妻を見る者はだれでも、既に心の中でその女を犯したのである。(5:27~28)
そこまで言うか、という感じなのですが、確かに最も大切なのは心の中のありようなのですね。
でも、それは、他人に強要されたり、他人に判断されたりするものではない。
まあ、キリスト教では、神様がいるから、神様だけが心の中をのぞき込むことができ、また心のありようを裁くことができるのですが。
ですから、人間が教育できる部分ではない、と言うところでは、ふたたび賛成、です。
投稿: compUT/OSer | 2009年4月15日 (水) 22時17分
compUT/Oser さん
心の中のことを言えば、人間は罪深いのです。少なくとも私は・・・
投稿: 吉田孝 | 2009年4月16日 (木) 04時33分