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和歌山

昨日から和歌山に来ている。今日午後に和歌山大学で開かれる学会の近畿地区例会に参加するためであるが、こちらにいる9歳年上の従兄弟の家に泊まらせてもらっている。昨晩は夜遅くまで、話はつきなかった。

私はだいたい夜の9時くらいまでしか持たないのだが、めずらしく11時過ぎまで起きていた。朝の目覚めがとてもよい。

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「ちびまる子ちゃん」と「コボちゃん」

こちらに来てからは、神戸新聞を購読している。神戸新聞朝刊の4コマ漫画は「ちびまる子ちゃん」(さくらももこ)である。

この「ちびまる子ちゃん」を見ると、毎朝暗い気持ちになる。例えば今朝の内容。

1 独居(たぶん)老人が登場
2 毛虫を見て、さびしそうにしている。
3 老人にちびまる子ちゃんがあいさつする。
4 すぐにちびまる子ちゃんが去ってゆき、老人は「だれも近づいてくれない」と嘆く。

2ヶ月ほど見てきて感じたのだが、この4コマ漫画に描かれているのは、大人や仲間に対する子どもの残酷さである。子どもはもともと自己中心的であり、他人に対しては残酷である(ただし、その残酷さを自覚していない)。だから、さくらももこが描いている世界は真実の世界である。その意味で、「ちびまる子ちゃん」はリアリズムの極致にある作品と言えるだろう。いつか授業でも使えそうである。

ただ、朝から見るのはつらい(見たくなくても見てしまう)。あんまりつらいときは、口直しに駅で読売新聞を買って「コボちゃん」(植田まさし)を見る。こちらも、大人がからかわれる場面が多いのだが、それでも登場人物は優しく描かれている。私はアンチ巨人だし、ナベツネも嫌いなのだが、3月まで15年ほど読売新聞を購読し続けた。ひょっとしたら「コボちゃん」のせいだったのかも知れない。

今から、家を出る。今日も読売新聞を買おう。

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学習指導要領の英訳

うっかり見落としてしまっていたのだが、文部科学省のHPに小学校学習指導要領の英訳(仮訳)が出ている。私は英語についてはからっきし自信がないので、論評などはできない。それでも、どうしても気になることがある。

1 目標の英文

小学校音楽の目標は、次の通りである。

表現及び鑑賞の活動を通して、音楽を愛好する心情と音楽に対する感性を育てるとともに、音楽活動の基礎的な能力を培い、豊かな情操を養う。

 これを分解すると次のようになる。

 ・音楽を愛好する心情と音楽に対する感性を育てる
 ・音楽活動の基礎的な能力を培う
 ・豊かな情操を養う

 「育てる」「培う」「養う」という3つの動詞が使われている。同じ文中で言葉をかえる場合、それなりの理由があるはずである。この文は従前の目標を踏襲しているので、最初にこの文を作った人の意図はわからない。しかし微妙なニュアンスの違いがある。試みに動詞の順を変えてみよう。

音楽を愛好する心情と音楽に対する感性を培い、音楽活動の基礎的な能力を養い、豊かな情操を育てる。

落ち着きの悪い文になる。つまり、言葉を変えることにはそれなりに意味があるのだ。この目標を英訳するとどうなるだろう。今回の仮訳では次のようになっている。

To encourage pupils to cultivate their sentiments, fundamental abilities for musical activities, a love for music as well as a sensitivity toward it, through music-making and appraising.

 つまり「育てる」も「培う」も「養う」もすべて "encourage pupils to cultivate" になってしまったわけである。整理すると次のようになる。

 to encourage pupils to cultivate their sentiments
  to encourage pupils to cultivate fundamental abilities
  to encourage pupils to cultivate a love for music as well as a sensitivity it

"cutivate fundamental abilities" には、意味的にかなり違和感を感じるのだが、私の英語力のせいだろう。 "cultivate a love for music" も文法的に気になるのだが、はっきり指摘する自信がない。

いずれにしても、三通りの日本語を一通りの英語で表すことができたことになる。これは日本語の語彙の豊かさによるものなのか、それとも英語の意味の豊かさによるものなのか。英語の苦手な自分がはがゆい。

2 表現と音楽づくり

今回の学習指導要領から、従前の「創作」が「音楽づくり」という名称に変わった。これ自体はわかりやすくてよいのだが、少し危惧していることがあった。それは、次のようなことである。

「創造的音楽学習」(Creative Music Making)」の主張をしている人たちの間では、"Music Maiking"(直訳すれば「音楽づくり」)とは、音楽表現全体(つまり歌うことや楽器を演奏することを含む)を表し、これまでの「創作」にあたるものは "Creative Music Making" である。だから、「音楽づくり」と言った場合広い意味での "Music Making" つまり歌うことや楽器を演奏すること全般を含む表現活動全体を表すことばと、混同されやすいのではないか。

果たして仮訳では、上の目標に見られるように、「表現と鑑賞」を通しては、"through music-making and appraising" と訳された。では、「音楽づくり」はどうなったか。"createve music making"である。各学年の内容の一部は次の通りである。

 A 表現
  (3)音楽づくりの活動を通して、次の事項を指導する。
     (4)表現教材は次に示すものを取り扱う。

 これが、仮訳では次のようになっている。 

(3) [Creative Music Making]
 The following should be taught through creative music making.
(4) The teaching materials for music-making should contain the following.

整理すると次のようになる。

  表現    Music-Making
  音楽づくり Creative Music Making

一般には理解されにくいだろう。これは、特殊な用語法ではないだろうか。Music-Makingが「表現」という広い意味をさす言葉だとすれば、「創作」を「音楽づくり」とするような紛らわしい使い方をするべきでなかった。

まだ中学校や高等学校の学習指導要領の英訳は発表されていないが、中学校や高等学校の「表現」も"Musci-Making"と訳すのは問題だ。

そのほかにも、気づいたことはたくさんあるのだが、はっきり指摘する自信がない。

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世襲

国会議員の世襲が問題になっている。自民党は「世襲の候補者議員は公認しない」という案を出しているようだが、世襲にとっては痛くも痒くもない。世襲を当選させる有権者がいるからだ。そのような風土なのだ。

北朝鮮の核実験。けしからん話しだが、核保有国が批判しても説得力がない。これこそ、かつて原水爆禁止運動が分裂した大きな原因だ。保有国は核を廃絶するスケジュールくらいは示せないものか。

中央大学教授の刺殺事件。どうも、犯人の思いこみによるものらしい。大学教師は学生とどんな距離で接するのか。けっこう難しい問題である。

昨日から、学校がはじまった。インフルエンザの感染がこのままおさまるのか、広がるのか。今日・明日が分かれ目になる。今週の日曜日に、こちらで小さな会合を予定しているのだが、東京と九州の大学で「感染地域への出張自粛」の要請が出ているらしい。もうそのような状況ではないような気もするのだが。

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授業再開

今日から、授業再開である。電車の中に高校生の姿も見られる。大学にも学生が戻ってきた。ただ、状況が変わっているわけではない。早い話が、「感染してもたいしたことはない。それよりも、社会的機能の回復のほうが大切だ」ということだろう。

私のような素人には、これが吉と出るのか、凶と出るのかわからない。いろいろな情報を総合すると、私自身が感染する可能性は非常に低い、感染しても発症する可能性が低いということらしい。気をつけるに超したことはない。

電車(阪急)の中で、マスク着用率をざっと計算すると、約6割だった。着用したくても、品切れで着用できない人もいるからだろう。ただ、マスクは、どちらかと言えば、咳やくしゃみなどによって菌が飛び散るのを防ぐ効果が高いというだけで、空気中の菌を遮断する効果は少ないと言われる。菌は直接吸い込むだけでなく、手や衣服にも着くからである。それでもしないよりはましなので、私も乗り物や人混みの中ではしているが息苦しくて仕方ない。実は、マスクをした記憶が過去に一度もない。

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まとめて

漢検の元理事長親子逮捕。私はもともと「漢検」というのが好きでない。子どもの頃から漢字書き取りテストが大嫌いだったので・・・・

韓国の盧武鉉前大統領が自殺。衝撃的なニュースだった。”ワープロによる遺書”に違和感があるが、報道される通り自殺のようだ。ネット上では謀殺説もないことはないが、無理がある。少なくとも現政権は盧武鉉が死んでも何の得にもならない。

裁判員制度がはじまった。これには多くの問題点が指摘されている。マスコミの論調でも問題点を指摘するものが多い。ディベート風に言えば、裁判員制度によるデメリットばかりが示され議論されていることになる。ではメリットは何なのか。つまり裁判員制度によってどんな良いことがおこるのか。実は、こちらについては、ほとんど議論されていないような気がする。そのうちに書く。

プロ野球のセパ交流戦がはじまった。大阪ドームのオリックス・広島戦が見たかったが、さすがに出かける気にはなれなかった。

大相撲は魁皇(直方市出身)が勝ち越し。少なくともあと2場所(9月場所まで)は、大関が続けられる。

町は、まだがらんとしている。トンフルよ。四国にだけは上陸するな!・・・身勝手な願い。

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トンフル

「新型インフルエンザ」とう言い方も変だ。豚インフルエンザを略して「トンフル」と呼ぶことにする。

関西では、休校解除に動いている。関西学院大学も、25日から授業がはじまることになった。事態が好転したわけではない。むしろ事態は悪化している。ただ、状況認識が変わっただけである。

こういう現象を何というのだろうか。

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臨時休校

この週末は、東京で二つの会議に出た。どちらも責任のある会議だったので少し緊張した。よい議論ができたと思う。

ただ、その間に関西では、新型インフルが広がっていた。関西ではマスクが手に入りにくいと聞いたので、東京で買って戻った。

昨晩家に戻ると、学部長名のメールが届いていた。1週間の臨時休校である。大学のホームページにもお知らせが出ていた。もちろん、教職員の勤務は通常通りである。静かに研究に専念しようと思う。

追記:インフルエンザが流行すると、なぜか、「吉田先生は、ウイルスのほうが逃げていくでしょう」と言う人がいる。おほめの言葉と喜ぶべきか、「失礼だ」と怒るべきか。ただ科学的な根拠はまったくないので、十分に気をつけることにする。

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津軽海峡冬景色

3日前のこと。授業の前に、「津軽海峡冬景色」の前奏の部分をピアノで弾いて、学生(1年)に尋ねた。好きな歌の一つだ。

私「この曲知ってますか?
学生「どこかで聴いたような気が

この程度だった。1977年、石川さゆりの大ヒット曲である。「私も一人、連絡専線に乗り」だから、まだ青函連絡船の時代である(私は27歳だったのだ)。それでも、「聴いたことがある」というのは、テレビ番組などで何度も紹介されたからだろう。

私「今日のニュースで、三木たかしという作曲家が亡くなったことが、放送されていたしょう。その人が作曲して石川さゆりが歌った『津軽海峡冬景色』という曲です。

♪ 私も一人、連絡船に乗り ♪ 

学生は、「ああ、ああ」という顔をしてうなずいていた。しかし、この歌のよさがわかるようになるまでには時間がかかるだろう。

ついでに次のように言っておいた。
「私は、3月までこの歌で歌われている津軽に住んでいました」
過去は振り返らない主義なのだが・・・・

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レッド・クリフ

GWに映画を観た。「レッド・クリフPart II」。劉備・孫権の連合軍が圧倒的な兵力を誇る曹操軍を打ち破ったとされる赤壁の戦いを題材にしたものである。

私はどうしても観たかった訳ではないのだが、付き合いもあって観た。おもしろいところも少しはあったが、全体としては虚しさ、後味の悪さが残った。「制作費100億円」の価値はないと思った。

後味の悪さの正体は、はっきりしている。戦いに「勝った」「負けた」と言うが、勝った方にも、負けた方にも何十万という死者が出ている。この死者の一人一人に精神があり人生があったはずである。この死者の一人一人にとって「勝った」「負けた」は何の意味もない。

もちろん、この映画はこのような見方をしてはいけないのだ。この映画のおもしろさを評価する時に、兵卒一人一人の精神や人生を考えるのは、この映画を観るルール(解釈コード)に反している。例えば、ステーキの旨さを評価するときに、ステーキになった牛の命や心を問題にするのはルール違反である。それと同じである。一人一人の兵卒には精神や人生などはないことにするのがこの映画を観るルールなのである。映画の中の戦いはゲームなのである。だから、この映画が人命を軽視している、この映画を観て楽しむことができる人は冷酷だなどと非難するのは、まったくお門違いである。この映画を楽しむ人が、好戦的な人とも限らない。いっしょに映画を観た人は普段は私以上に平和主義者であるが、私以上にこの映画を楽しんでいた。ほとんどの人は映画の中の戦いと現実の戦争とをきちんと区分けできるのである。

しかし、それでもこの映画を楽しんでしまうことには、後ろめたさが残る。何故か?

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どうぶつしょうぎ

「どうぶつしょうぎ」のことが話題になっている。
将棋の女流棋士の北尾まどかさんが考案したそうだ。

将棋に比べると非常に簡単だが、実際にゲームをすると奥が深いらしい。
渡辺明竜王もブログで紹介している。

子どもが手軽に楽しめるゲームになるとよいのだが。
私も注文したところである。

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焦点

あるところで、「焦点をあてる」という文が問題になった。

もちろん、写真を撮っている場面について語っているわけではない。話題(研究・学習でもよい)の範囲が広すぎるので、その範囲を狭めることを言っているのである。それを写真を撮る場面になぞらえる比喩表現(擬物表現)の一種である。

しかし、写真を撮る場合に、「○○焦点をあてる」と言うだろうか。写真を撮る場合には、「○○に焦点を絞る」「○○に焦点合わせる」である。つまりファインダーに見える全体の中のある1点がもっともくっきりと写るようにレンズを調整するのである。この場合に「焦点をあてる」と言うのは少し無理がある。

ただ、「焦点を当てる」と聞いてもほとんど違和感がないのは、もともと比喩的な表現であったものが当たり前のように使われることによって、比喩的表現の前提となる「擬物性」が意識できなくなるからである。例えば「的を射た発言」は、発言の的確さを「弓で的を射た」と比喩しているのだが、この表現に慣れた私たちは実際に矢が的に当たった場面を想像することを省略する。だからそれが「的を得た発言」と誤用されてもなんら違和感を感じなくなるわけだ(的を持ち帰る場面を想像すれば誤用だということに気づくはずなのだが)。

「焦点をあてる」は私も無意識で使って来た。そして、私の場合ひどいことに「焦点をあてて」を使うときは、かえって焦点をぼかしている場合が多い。つまり、自分が何について何を主張したいのを明確に書く自信がない場合に、「焦点をあてる」などというこけおどしの言い回しをしてしまうのだ。

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フォーク・ギター

石川鷹彦というギタリストをご存じだろうか。最近では、さだまさしのステージで後ろでリード・ギターを弾いている。60年代から70年代にかけてヒットした多くのフォークの名曲の伴奏・アレンジに関わってきた人である。

NHK教育の「趣味悠々」という番組で、この人が講師をしている。
もう一度はじめよう フォークギター再入門
番組を見ていたら、何となく自分でも弾けそうになってきた。ギターを出そうとして、ギターを弘前で処分したことに気がついた。ピッチの合いにくいギターだったので、頭に来て学生にやってしまったのだ。それで無性に弾きたくなったので、梅田の石橋楽器でYAMAHAのLL○○とピックを買ってきた。

♪つかみかけた、熱い腕を、ふりほどいて、君は出て行く♪

ギターは新品だが、腕は錆び付いていた。
Folk_2  

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