看板
近所を散歩していたら、こんな看板が。
こういうの、好きである。
久しぶり(でもないか)に映画を見た。「ゼロの焦点」である。
おもしろかった。というのは、松本清張の原作がおもしろいからだ。もう30年以上も前になるのだが、かなり興奮して読んだ記憶がある。松本清張には、「霧の旗」など女性を主人公にした小説がかなりあるが、どれもおもしろい。
映画としてはどうかというと、あまり感心しない。舞台はまだ「戦後」の残る昭和32年。自分のことを言えば、小学校に入学した年である。この昭和32年の風景をとるために、韓国ロケまでするほど凝ったようだが、成功してない。
一番の問題は、主演の広末涼子である。演技はそこそこだとは思うが、あの幼児的な発音がいけない。あの甘ったれたしゃべり方である。物語の進行の中でだんだん強くなっていく女性を描いているのだが、あのしゃべり方ではだめだ。あのしゃべり方が可愛いくて仕方ないという人もいるのだろうが、女優としては失格である※。それにひきかえ共演の中谷美紀、木村多江の二人の存在感の強いこと。主役の存在感がまったく薄れてしまった。明らかにキャスティングの失敗である。
音楽の使い方も唐突で不自然だった。エンディングの中島みゆきの「愛だけを残せ」も、いい歌なのだろうが、この映画にはそぐわなかった。
※このこととは関係ないが、最近発音のおかしな俳優がたくさんいる。大物歌舞伎役者にもそんなのがいて気になって仕方ないのだが、タブーでもあるのかあまりマスコミはとりあげない。
行政刷新会議による仕分け作業が終了した。
お祭りのような雰囲気が無いわけではなかったが、全体として国家の予算の使われ方に国民(私自身を含む)が関心を持てたこと、実態がある程度明らかになったことは、とてもよかった。
研究予算や国立大学への運営交付金の見直し(独立行政法人化そのものの見直しならよい)など、ただちには賛成できないが、それでもそのあり方が議論の俎上に登ったのはとてもよいことである。ノーベル賞受賞者たちが、国の科学政策に対してはっきり発言したのも、これも仕分け作業の産物である。ただ、こういった場合に、話題になるのが理科系の研究ばかりであるのが残念である(ひがみでもある)。
将棋の第22期竜王戦は、渡辺明竜王が挑戦者の森内俊之九段(第18代永世名人資格者)を4勝0敗で退け竜王位を防衛した。これで渡辺明竜王は竜王戦6連覇。竜王戦は読売新聞の主催で最も賞金額の大きい棋戦である。
インターネットの竜王戦サイトで、棋譜を見ることができる。このサイトには丁寧な解説がついている。私の棋力では分からないことがたくさんあるのだが、それでも渡辺竜王の強さはわかる。
ただ、渡辺竜王は名人挑戦につながる順位戦ではまだB級1組。名人に挑戦できない。A級にあがってそのリーグの優勝してはじめて羽生善治名人に挑戦できる。それが楽しみなのだが、もう少し時間がかかりそうである。
ああ、こんなことをしている場合ではない。原稿が2つ・・・
「八分の六拍子と四分の三拍子はどう違うか」
音楽経験の乏しい学生にきちんと理解させるのはかなり難しい。
私は思い切って、次のように教える。
四分の四拍子や四分の三拍子は次のように書くだろう。
この分母になっている「4」は「四分音符」という意味だというのは知っているよね。
これは次のような意味なのだ。
では「八分の六拍子」とはどういう意味だろう。
四拍子や三拍子とは少しちがうのだ。
八分六拍子というのは、八分音符三個分つまり付点四分音符を1拍とする二拍子なのだ。
だから、本当は次のような意味なのだ。しかし、付点八分音符は整数であらわせないよね。だから次のように、それを細かく分けた八分音符を分母にして表すのだ。
だから、八分の六拍子は三拍子ではなく二拍子なのだ。
私がこの説明で悦にいっていると、学生は
かえってわからんようになった!
※上の音符の形を分母であらわすのは、数学的には間違っている。
後でまた補足する。
昨日、1年生の授業(ピアノの個別指導・1クラス4名)で、少し時間が余ったので次のような話をした。
たばこにだけは手を出さないほうがよいと思う。健康の問題もあるのだが、それよりも不自由きわまりないことだ。私は不始末でボヤを起こしたことがある。それ以来、恐怖症になった。火の始末が気になって、通勤途中で思い出して家に戻ったり、職場から帰宅してまた戻ったりしたこともある。
それよりももっと不自由なのは、自分が一番楽しいことをしている時、例えばコンサートで音楽を聴いているとき、クライマックスで頭の中にたばこが浮かんでくることだ。音楽を聴いていたいという気持ちを「吸いたい」という気持ちがじゃまするのだ。これはつまらない人生だ。私はやめるのに30年もかかった。
「一番楽しいことをしている時」の例は他にもあるのだが、さすがに学生には話せなかった。
「一億総歌手時代」時代と言われはじめて久しい。カラオケの普及で誰でもオーケストラもどき*の伴奏で歌が歌える。最近は、音源もデジタル化したのでテンポもピッチも自由自在であり、通信カラオケになってからは曲数も急増している。歌謡曲やポップスだけでなく、子どもの歌や大学の学歌や高校の校歌まであるというから驚く。
しかし、あまりにも簡単に伴奏が得られるために、演奏者が尊敬されなくなったのも問題である。最近NHKの「のど自慢」の裏話をきいた。のど自慢は素人が生のバンドをバックに歌える一生に一回あるかないかの機会である。ありがたい話なのだが、最近の出演者の中には伴奏するバンドの人にあいさつもしない人がいるそうだ。一言「よろしくお願いします」くらいは言えばすむのである。まあ、そのくらいならよいが、「2#上げて」というような注文を平気でする人もいるそうだ。まるで機械扱いである。さらには、鐘が一つか二つしか鳴らなかったことをバンドのせいにしてクレームを付けてくる出場者もいるそうだ。「カラオケの伴奏と違ったから」ということなら本末転倒である。
カラオケが自分で歌を歌って楽しむ人の急増させたことは間違いないが、それによって生演奏の価値がどんどん下がってきている。おそらくこれから音楽家という職業そのものが成り立たなくなりそうである。そして、だれもがこのことに気づいている。しかし具体的な策はない。ただただなりゆきに身を任せるしかないのか。家の近くにあるライブ喫茶で久々にプロの生演奏を聴きながらこんなことを考えていた。
※カラオケが誕生したころは、8トラックカセットテープで提供されていた。一つのテープに4曲入っていた。そしてそのテープには生演奏の伴奏(たいていはオーケストラ)が録音されていた(別に歌詞本というのがあって、その歌詞本を見ながら歌を歌っていた)。「カラオケ」の「カラ」は「歌が空」つまりカラオケは「歌が入っていないていないオーケストラ」の意味だったのである。
「世の中にギャンブルさえなければ自分の人生はもっと幸せだった」と思っている人はたくさんいるはずだ。ところが、そう思いながらもやめられないのがギャンブルである。いろいろな言い訳をつくってギャンブルに走る。
私は、今不幸せとは思っていないが、若い頃ギャンブルに手を出さなければもっと幸せだったと思う。お金もさることながら、一番の後悔は時間を無駄に過ごしたことである。
時間とお金を失うだけならまだよい。家を失い、友達を失い、家族を失い、最後は命まで失う人もいる。
ところが、もっと驚くことがA紙に載っていた。最近は行ったことがなかったので知らなかったのだが、パチンコ屋にATMが設置してあるそうである。そして、パチンコ屋はATM設置を所轄の警察署にも届け出て許可を得ているそうである。
最近はやったことがないが、かつての私の経験では、パチンコで運がなければ(たいていは運がない)10000円が40分程度で消える。ATMがそばにあれば、数時間のうちに何万というお金が飲まれる(パチンカー用語)ことになる。いくら自業自得とはいえ、これは悪質ではないか。
公営ギャンブルやパチンコは、一種のガス抜きのようなものかもしれない。これがなくなれば、違法な賭博場がはびこり暴力団の資金源になったりする可能性もある。しかし、現在のパチンコ屋はいくらなんでもあくどすぎるのではないか。規制が必要だと思う。
初等教育コースの1年生向けの授業で、音名、階名、調性判断の初歩的な内容を扱った。最初はCがファやソになることに戸惑う学生もいたが、だんだん理解できるようになってきた。そこで小テストをして確認したのだが、約半数は完璧に理解できていた。
まちがいのうちのほとんどが、調号の読み違いであった。例えば、1#の時に高音部譜表上で、第一間の音をF(ヘ)と答えるなどである。これは説明すれば、「ああ、しまった」ですむ。
少し深刻なのは、1#の調号の時に楽譜上のGとBの音の鍵盤上の位置を指摘させる問題で、CとEの鍵盤に印をつけた学生である。楽譜上ではしっかり階名は読めたのだが、鍵盤上ではあいかわらずCがドだったのである。
また、全体としては女子のほうが点数が悪い。女子は中途半端にドレミを習っているからだ。幼児期からドレミを音名として信じて疑わなかった十数年の歳月が、思考と感覚を不自由にしている。
亡くなった方にはお気の毒としか言いようがない。
ただ言いにくいことだが、重要な教訓がある。外国旅行をして、いくらそこでは合法的と言っても、日本の法律で非合法とされていることはしないほうがよい。他にもいろいろある。
事件や事故に巻き込まれることが絶対ないとはいえないが、妙な場所で巻き込まれることだけは避けたい。
ちょっとしたきっかけで、筆算による開平法というのが気になった。例えば、「ルート1376」を筆算で計算する方法である。今なら、エクセルなどを使えば、=1376^(1/2) で一発で答えが出る。それを筆算で解くのである。紙を出して、「ああっだった、こうだった」と思い出しながら解いてみたら何とか解くことができた。「副演算」というのが開平の鍵である。
(a+b)^2 = a^2 + b*(2a+b)
この b*(2a+1) が副演算の部分である。
と・・・夢中になっていたら母のことを思い出した。
9年前に亡くなった母(大正14年生)は、女学校卒業後、水路部(現在の海上保安庁海洋情報部)で数年間働いていた。そして、その仕事と言えば、毎日毎日計算ばかりしていたそうだ。海面の高さだとか、気象情報だとかの数値を統計的処理するための計算の一部をしていたのだろう。
例えば、100個くらいの素データがあって、その平均、標準偏差を出すにはどうしたらよいだろうか。今ならパソコンの表計算ソフトを使えば、その何万倍のデータがあっても一発で処理できる。しかし、コンピュータもない時代には100のデータを足し算したり、それぞれのデータを二乗して足し算してそれからまた開平してというような作業を繰り返さなければならない。私なら電卓を使っても1日くらいかかりそうだ。母は算盤と計算尺を使っていたというが、それでも大変なことだったろう。
母の仕事は、今でいえば表計算ソフトでそれぞれの行列の平均や標準偏差などを計算するような仕事ではなかったか(実際には現在は入力もすべて自動の大型コンピュータなのだろうが)。手計算なら、行列の数が大きければそれだけ時間がかかる。コンピュータなら一瞬のうちにできる仕事を何日もかけてやっていたのだろう。
母の自慢話によると、そこに就職するのは大変な競争率で、よほど優秀でなければ勤められなかったらしい。それだけ重要な仕事だったのだろう。社会全体から見れば、優秀な労働力の一定部分がこのような作業に振り向けられていたのである。
私は、実は表計算については MS-DOSの時代に Lotus-123 ではじめたのだが、まずその便利さに驚いた。研究所勤めの頃は、集計のために、エクセルや三四郎(一太郎との相性がよい)の画面を見ながら格闘していた。最近では、スプレッドシートを見るのも嫌である。
便利さは、ゆとりや幸せには結びつかない----ちょっと飛躍のある結論。
はっきり言って、京都はあまりすきじゃない。何故かと言われても困るのだが。
しかし、阪急の駅や電車の中の広告につられて、秋の嵐山・嵯峨野でも歩いてみるかという気になった。
武庫之荘から、阪急で十三・桂で乗り換えて嵐山まで1時間くらいで着く。
嵐山駅から、渡月橋を渡って桂川上流に向かって歩く。
水上では、「紅葉まつり」と称して歌舞が披露されているのだが、肝心の紅葉が今一。
だが、嵯峨野をずっと歩くのは気持ちがよかった。
もちろん、途中で一杯・・・
いい運動にはなった。
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