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大晦日

とうとう2009年も最後の日になった。あと16時間ほどすれば2010年である。それから、1年たったら2011年である。

1年を日数であらわすと、365日である。
時間であらわすと、8760時間
秒であらわすと、31,536,000秒
メガに直すと約31メガ秒
ついでに人生80年として、それを秒で表すと、2,522,880,000秒
ギガに直すと、およそ2.5ギガ秒ということになる。

今私が家で使っているコンピュータは2003年に買ったものである。ハードディスクは60ギガバイトはある。2.5ギガ秒の人生なんて、メモリスティックのようなものである。

また、脱線した。少し真面目に書こう(いつも不真面目に書いているという訳ではないのだが)。

今年は、自分にとって大きな出来事が3つあった。それを漢字で表すと次のようになる。 

完・動・落

とても幸せなことがあった。これが「完」である。来年3月になったら感謝を込めて発表したい。
「動」はもうおわかりですね。
「落」は支えてくれた人たちに申し訳ない(喜んでいる人もたくさんいる)ことなのだが、個人的には楽になったので悪くはない。

というわけで、あと16時間。みなさんも私も無事に新年を迎えられますように。

一年間たいへんお世話になりました。

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ハイ・ボール

ずっと焼酎ばかり飲んでいたのだが、夏頃からこり出したのがハイ・ボール。

ウイスキーのビンをとっておいたらこんなになった。
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BLACK NIKKA である。今はスーパーで880円で買える。実は、20代の頃に同じことをしていたのだが、その時より安い。昔は、酒類は、「特級」「一級」「二級」にランク付けされていたのだが、このBLACKは「一級」にランクされていた。ハイ・ボールならこのクラスで十分である。

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尼崎散歩(その2)

昨日の散歩は思い切って県外まで。
と言っても、尼崎市の東はもう大阪市である。
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府県境の神崎川にかかる神崎橋。

結局、そこからさらに3キロほど歩いて十三へ。
軽く一杯やって帰った。

と、のんびりと年末を楽しんでいるのだが、振り返るとやはり鉄砲の弾のように時間が過ぎてゆく。
冬休みはあと7日しか残っていない。今年はあと2日しか残っていない。今日はあと14時間しか残っていない。小遣いはあと2,372円しか残っていない。

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クロマッティック・ハーモニカ

「武庫之荘」駅の近くに、ライブハウスがある。
ステージもかなり立派な本格的なライブハウスである。
前もって予約しておけば、プログラムによっては、1ドリンク、1フードだけで聴ける(もちろん、私は1ドリンクではすまない)。

昨日は、「徳永延生クロマティックハーモニカ」で、演奏者は次のとおり。
徳永延生(ハーモニカ) 池田定男(ギター) 村松泰治(ベース)
私は、この世界のことは詳しくないのだが、3人の奏者とも関西では名の通った奏者であるらしい。

私はハーモニカと言うと、一調限定の複音ハーモニカやブルースハープ(調ごとに持ち替え)を思い出す。クロマティック・ハーモニカといのは、なんとなくおもちゃというイメージがあった。昨日はジャズ中心のプログラムで、クロマティック(スライド式)の演奏をライブで聴くのははじめてだったのだが、その表現力の豊かさに驚いてしまった。約2時間、たっぷり楽しむことができた。もちろん、徳永延生さんの技術によるところが大きいのだが。

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ワーイ

horse もらった!


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読書

酒にはつまみが必要だ。つまみを食うとメタボがひどくなる。
で、つまみのかわりに文庫や新書を買い込む(年のない本は新刊・価格は税別)。

橋元淳一郎『時間はどこで生まれるのか』(集英社新書・2006年・660円+税)
同『時間はなぜ取り戻せないのか』(PHPサイエンス・ワールド新書・800円+税)

年末になると、時間論が気になるのはなぜか。この2冊は物理学者の時間論だが十分に哲学的だ。相対性理論や素粒子論から見ると、絶対空間も絶対時間も存在しない。過去と未来は生命の意思によって生じる。わかったようで、まだ少しわからない。

長谷川櫂『決定版一億人の俳句入門』(講談社現代新書・720円)
別に俳句がつくりたいわけではない。ちょっと覗いてみて「第一章 俳句の音楽」に惹かれたのだ。斜めに読んだが、なかなか面白い。俳句・・・ちょっぴり気になることがある。

小出義雄『マラソンは毎日走っても完走できない』(角川SSC新書)
自慢じゃないが、私はフルマラソンは7回完走。来年は8度目の完走をめざす。ちゃんと読んでおこう。

内田樹『構造的日本論 こんな日本でよかったね』(文春文庫・629円)
12月14日に紹介した、おとなりの大学の先生の本。もとはブログ記事らしい。私のブログは雑誌の連載にはなったが、本にはならない。

宮台真司・福山哲郎『民主主義が一度もなかった国・日本』(幻冬舎新書・800円)
社会学者と民主党の国会議員の対談。帯の「09年8月30日、日本に革命が起こったことを国民は気づいていない」に惹かれて買った。しかし、「なんか違うんだよね」という感じ。

池上彰『知らないと恥をかく世界の大問題』(角川SSC新書・760円)
フリーになってから、よく露出するあの元NHKアナウンサーの本。私と同じ歳らしい。まあ、本当に恥かきそうだから買った。

松本清張『火と汐』(文春新書・1976年・505円)
先日書いた先日のテレビドラマで事件解決の決め手になった携帯電話が気になった。原作は1967年。もちろん携帯などあるはずもなく。答えは・・ぜひ読んでみてください。
ただ原作とドラマはだいぶちがう。ドラマでは、清水美砂が重要な人物の役をやっていたのだが、原作にはそんな人物そのものが登場しなかった。

算数オリンピック委員会編『算数オリンピックに挑戦』(講談社ブルーバックス・2008・1040円)
「こういう本にわざわざ金と時間と脳みそを使う人の気が知れない」と言われた(泣)。

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尼崎散歩

冬休み2日目
メタボが復活したのでトレーニング開始。まずは散歩から。

自宅から「道意線」という道を南へ行くと、1kmくらいでJR「立花」駅がある。Tachibana   

立花駅のまわりにはおもしろい場所もたくさんある。
これはまた次回に

さらに南に行くと、阪神「尼崎センタープール前」駅。

Centerpool

センタープルとは?

Kyotei

競艇場のことでした。

Yokan

「いい予感尼に来るたび狙うたび」

あまりセンスのいいコピーじゃない。
はずれそうな予感。

「センタープルー前」駅から阪神沿いに100メートルくらい西へ歩くと、ガード下に古い車両が置いてある。何のためかわからない。

Sharyo

さらに西へ進むと阪神「武庫川」駅。

Mukogawaeki

武庫川駅のホームは、橋の上。

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武庫川駅から、武庫川河川敷を北へ。

Mukogawazoi

対岸は西宮市である。

Jizoson

昭和32~3年頃、武庫川で水死した子どもたちがいて、このような事故がなくなることを願って建てられた地蔵尊。子どもたちのために手を合わせる。といっても、私と同じ歳ごろの子どもだったのか。

1000

ジョギングをする人のために、標識がある。スタート地点の武庫川駅から北へ1000m、ゴールの甲武橋(新幹線近く)から南へ4300mの地点。

Hankyua

「武庫川」駅から3500m付近の阪急の鉄橋付近で上にあがり、阪急線沿いを西へ。

Mukonosoeki_2

毎日利用する、阪急武庫之荘駅。

ついでに駅前風景。

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「ここは自転車置場です。尼崎市」と読むのだろう。これが日本人の知的水準である。

というわけで、約10km。2時間である。これを1時間するのがトレーニングの目標である。 

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冬休み

昨日は今年最後の授業だった。
夜は、キャンパスのクリスマス礼拝だった。ちょっとだけ傷ついた事があった。帰りに同僚と一杯飲んだので忘れた(事は忘れていないが、傷は忘れた)。

今日は、授業はないが大学の業務は午前中までらしい。あとは1月5日まで大学全体が冬休みである。国立大学では、12月28日までは一応出勤日だった。だから、授業がなくても休む場合にはちゃんと年休をとっていた。しかし、この大学では教員に「年休」という制度がないそうだ。要するに教員は研究や教育や雑用をちゃんとやっていれば、あとの時間をどこでどう過ごそうと自由だと言うわけである。私は、大学教員は授業があろうとなかろうと出勤するのが当たり前と思っていたので、なんとなく不思議だしうしろめたいような気もする。しかしせっかくなので今日から休むことにする。

12月24日-1月5日 13連休
大きな仕事も終わったので、久しぶりにゆったりした冬休みを過ごす。どこにも行かない。
ゆっくり読書をしたり、テレビをみたり、映画に行ったり、散歩(ジョギング)をしたり、将棋倶楽部24で将棋を指したり、飲んだり・・・・・・。

おそらく1月5日の夜には、アッという間の冬休みだったと思っていることだろう。もちろんそのように思う私が1月5日に存在しているという保証はない。

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車馬

門戸厄神駅近くで
Shaba

馬が通り抜けしようとするのだな。

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12月23日

今日は、12月23日である。昨日は12月22日だった。なぜ、昨日が12月22日だったかというと、昨日が12月21日だったらちょっと困るからである。例えば、昨日受け取った学生のレポートはどうなるのだろう。「先生、私は12月22日にレポートを提出しました」と言う学生に、私が「僕には12月22日はなかったのだ」と言うと、学生はどんな顔をするだろうか。

しかし、昨日は本当に12月22日だったのだろうか。「昨日をここに出して見せなさい」と言われると非常に困る。昨日どころか、「過去」そのものはどこにも存在しないからである。過去は、自分の記憶と記録の中にあるだけだ。

「時間とは何か」は哲学の重要なテーマらしい。哲学などどうでもよいのだが、毎年この時期になると一年の短さばかりが気になるのだ。その証拠に、私の過去のブログから引用してみる。

今年も、今日を入れてあと5日。あっという間の1年だった。本当は「あっ」という間に1年が終わるはずはないのだ。1年どころか1日だって終わらないのである。その証拠に、試してみればわかる。「あっ!」。まだ、12月27日なのである。

で は、なぜ過ぎ去った日々は「あっ」と言う間だったように感じるのかと言うと、少し難しい哲学的な考察を必要とするので、詳しいことはあえてか書かない(書 けない)が、過ぎ去った日々というのは、どこかに存在するものではなく、人間の脳味噌の中にしか残らないので、私のように小さく粗雑な脳味噌の中(脳味噌 は小さいに違いないのだが、頭はとてもでかくてキャップは3Lである。ついでに顔もでかい。でかい顔は時代劇の役者には向いている。その証拠に高橋英樹も 里見浩太朗もでかいが、木村拓哉は小さいのに時代劇にでている。子どもの頃からでかいツラするなと言われ続けてきたが、好んででかいツラをしているわけで はない。おっと脱線しそうである。カッコをつけて注釈をつけているうちに脱線するのは私の悪い癖である)には一年分の日々などはとても入りきらないのだ、 「あっ」くらいが精一杯なのだと妙に納得して喜んでいる師走である。1年が「あっ」と言う間の人は私だけで、ひょっとしたら「あっいっうっ」くらいの人も いるのかも知れない。

ところで、今年は2006年だが平成18年でもある。私は、今年が平成何年だということにななじむまでに、だいたい 夏から秋くらいまでかかる。つまり今年の場合だと10月くらいになってやっと、今年は平成18年だと言うことが違和感なく受け入れられる。つまり、夏あた りまでは、17年のような気がしていた訳である。おそらく、来年になっても19年という実感はあまりないだろう。

一つだけ思い当たる理由 は、教育関係の仕事のため、平成○○年度と言う方をすることが多いことである。来年になっても3月までは平成18年度である。それを引きずっているのかも 知れない。安倍首相は大学の9月入学制度を考えているようだ。そうなると、ますますややこしくなりそうだ。(2006年12月27日)

ここに2006年12月27日の記録はある。しかし、このようなことを書いた記憶はもうないし、ましてこの2006年12月27日はもうどこにもない。記憶にはないが、その「翌日」とされる日の記録もある。

今年も、今日を入れてあと4日。あっという間の1年だった。本当は「あっ」という間に1年が終わるはずはないのだ。1年どころか1日だって終わらないのである。その証拠に、試してみればわかる。「あっ!」。まだ、12月28日なのである。

なんだ、昨日と同じじゃないかと思われるかも知れない。しかしよく見ると2箇所ほど違うのである。この2箇所の違いなどと言うものは過ぎ去ってしまうと 「あっ」と言う間の違いに違いないのだが、今この瞬間を生きている私(ああ、なんと若者っぽい言葉だ!)には大きな違いがあるのだ。

あ と5日と思っていた時点からあと4日と思った今の時点までの1日は、ゴミのような1日かも知れないが、それでも確かに私の脳味噌の中に刻印されている(カ ントがそんなことを言ったかどうかは知らない)。しかし、あと3日と私が思う時点が確実にやってくるとは限らないのだ。

そうだ! 今この瞬間、一生懸命生きることが大切なのだ。わーい青春だ! 

・・とかなり強引に短絡して文章が終わるのは、もう書く時間がないからである。

今日は、9時30分から大学で会議である。午後は卒論の指導、3時ごろから研究室に来訪者がある。一応今日までが出勤日である。たぶん、明日も出て行かなければならないだろう。もちろん今日の午後がやってくるか、明日がやってくるはきわめて不確実である。(2006年12月28日)

なかなか、くだらない文である。しかし、哲学者が書いたって五十歩百歩である。

夏休みも、いかにそこに刺激的な体験が詰まっていようと、終わってしまえばアッという間であった。今年もアッという間に過ぎた。とすると、死の床で七〇年あるいは八〇年の一生を振り返ってもアッという間であった、と感ずるにちがいない。誰でも知っていることですが、人生の「客観的な長さ」は振り返ったときの実感にまったくそぐわないのです。(中島義道『時間を哲学する』講談社現代新書、1996)

そうなのだ。私は数年前には、マラソンを4時間ちょっとで走っていたのだ。世界のトップクラスの倍くらいの時間で走っていたのだ。しかし、走り終わってみると4時間なんてアッという間の出来事なのである。世界記録よりももっと短いのだ。そうだ、私は一瞬で42.195を走ったのだ。

前置きが長くなった。要するに今日は12月23日なのだ。12月23日は特別な日なのだ。なぜ特別な日かというと・・・どこかに書いたようなような気がして探したら、2003年のメッセージに書いていたので引用する。

03/12/23 (Tue)
今日は、公私ともにいろいろな意味のある日。
 
まず私。長女の○○回目の誕生日である。あの日のことは忘れない。大変だった。
 
一方今日は、天皇誕生日である。国民の祝日である。
にもかかわらず、日本人にとっては忌まわしい日でもある。
今から55年前1948(昭和23)年の今日、12月23日に東条英機元首相、広田弘毅元首相ら7名のA級戦犯が絞首刑になった。
日本が行ったあの戦争をどう評価するかは別にしても、7名に死刑判決を下した東京裁判だけはひどい。
勝者が敗者を裁いた野蛮な裁判としか言いようがない。
それにしても、どうして12月23日なのか。おそらくこの日が将来「天皇誕生日」になることは分かっていたはずだ。
アメリカの嫌がらせなのだろうか。
 
ちなみに、絞首刑が執行された巣鴨プリズンの跡地には、サンシャインビルが立っている。
55年前にそんなことがあったとは思えないくらいに、今日はにぎやかにクリスマスの音楽が鳴り響いているのだろう。

今日は引用ばかりである。この手抜きのくせは、子どものころから何も変わらない。

娘よ、○○歳の誕生日おめでとう。
同じ誕生日のマイミクののんべるさんもおめでとう。

関西学院大は今年最後の授業日である(国民の祝日などまったく無視)。そして夜には、学部のクリスマス礼拝である。聖歌隊のお手伝いをする。                

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携帯電話

昨日は、松本清張の誕生日で生誕100年にあたる日だった。それで、「火と汐」という特別番組をやっていた。主役の寺尾聰が好演だったし(お父さんと似てきたなあ)、ドラマとしても面白かった。

ただ、私はこの小説の原作を読んだことがなかった。このタイトルさえもはじめて聞いた(目にした)ような気がする。短編集の中にあるようだが、蔵書の中にはなかった。

このテレビドラマでは、原作を2009年の現在に移している(何年の原作かは知らない)。それで携帯電話が事件解決の重要な鍵になる(真犯人が処分したはずの被害者の携帯電話が発見される)。しかし、清張の原作には、携帯はなかったはずである。テレビドラマでは、一体原作の何を携帯電話に変えたのか。

ちょっとしたミステリーである。帰りに本屋で本を買おう。

※下の「魚拓」というゲーム、はまります。
 




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手帳

今日は12月21日である。当然のことながら明日は12月22日である。明日が1月1日だったらクリスマスがなくなるので少し困る。

というわけで、システム手帳の来年用のリフィルを買ってきた。

私は若い頃には、手帳というものを使う習慣がなかった。
記憶力に自信があったせいもあるのだが、手帳を使うほど書き留めておかなければならないことがなかった。

大学の仕事というのは、毎日・毎週・毎月同じように動く。それ以外は特別のことだけ記憶していればよい。特別のことと言えば、飲みに行く約束くらいである。電話番号だって、たいていは覚えていた(私はそもそも電話をするのが好きでない)。記憶力で十分間に合う範囲だった。

しかし、ある時期から、ポカをするようになった。記憶力が悪くなったことと、歳をとったせいで雑用が増えたためである。それで手帳を使うようになったのだが、それでも時々忘れる。手帳をきちんと見る習慣が今でも身についてないからである。手帳の使い方もうまくない。

手帳を上手に使うこと-毎年、年末に翌年の課題にしている。
カバーだけは、昨年末に立派なもの(私の持ち物にしては超高価)を買ったのだが。
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四国八十八箇所めぐり

クリスマス・シーズンだが、宗教違いの話題。

関西学院の聖和キャンパスへ来るには、阪急の西宮北口から今津線宝塚方面へ一駅の「門戸厄神」駅で降りて、約10分ほど歩く。この道の最後はかなりきつい坂を登る。

「門戸厄神」というのは、真言宗のお寺「東光寺」の別称である。仏教のことはよくわからないが、かなり格の高いお寺らしい。この東光寺が聖和キャンパスへ登る途中にある。聖和キャンパスのすぐ下に東光寺があると言ってもよい。この東光寺のそばに私の好きな場所がある。
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「四国八十八箇所めぐり・東光寺」という看板がある。

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中に入ると、弘法大師の像が建っている。そして写真右側に見えるような石像がズラーッとの並んでいる。この石像の数が八十八。つまりこの一つ一つに四国八十八のお寺の名前が付けられている。

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第一番札所の霊山寺(徳島県)である。
この石仏は釈迦如来像である。

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三十一番札所竹林寺(高知県)である。石像は釈迦如来。
高知市の五台山にある大きなお寺である。
「土佐の高知のはりまや橋で坊さんかんざし買うを見た」で有名な純信和尚さんのお寺である。

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第三十六番札所の青龍寺(高知県)である。
土佐市にあり、この近くにある高校出身の力士が、この寺の名前をとってしこ名にした。
石仏は波切不動明王。ちょっと似ている。
Asashouryu
かなり恐い顔だ。

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第五十番札所の繁多寺(愛媛県)。石像は薬師如来。
繁多寺は、通称「畑寺(はたでら)」とも言われ、私の最初の職場である松山東雲短期大学の近くにあった。

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第五十一番札所の石手寺(愛媛県)。
石手寺は、松山市の道後温泉近くにある大きなお寺である。
よく遊び(?)に行った。
石仏は釈迦如来。

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途中を全部はしょって第八十八番の大窪寺(香川県)に到着。
ここは薬師如来である。

急いでまわれば1分でまわれる。
一つひとつの石仏と向かい合い、赤い布に書いてある歌を読みながら2~3時間かけて回ってもよい。気持ちの落ち着く場所でもある。

私は、松山や高知が恋しくなったら行く。
無節操ですね。

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前と後

昨日の続き
ゴミためのような研究室
Mae2 Mae3 Mae1
旧吉田ゼミの皆様、懐かしいでしょ。

とりあえずゴミだけは棄てました。
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研究室が荒れている

また研究室が荒れてきたなくなってきた。
片付けをしなければならないのだが、雑務に追われてできない。

先日荒れ放題の研究室に学生がやってきて、研究室を見るなり
学生「先生はO型ですか?」
私「よくわかったね。なぜ?」
・・・・
学生「やさしいから」

答えに窮して、心にもないことを言ってしまったようだ。心やさしい学生である。

今日は、少しゆとりがある。研究室の片付けをしよう。

サイドバーの一番下にゲームをおいてみました。
やりすぎにご用心。

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いつもと同じ

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理由はありません。ただ、飲み過ぎただけです。

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喫煙は、あなたにとって肺がんの原因の一つとなります。

昨日、喫煙者と話す機会があって、久しぶりにたばこの箱を見た。
箱に、大きく次のように書いてあった。

喫煙は、あなたにとって肺がんの原因の一つとなります。

書きたくない作文を無理に書かされた大学生の作文のようだ。

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下流指向

内田樹『下流指向-学ばない子どもたち 働かない若者たち-』(講談社文庫・524円)

2007年に出版されてベスト・セラーになった本が文庫版で出ている。ゆとりができたので、ゆっくり読んだ。

実は、この著者の内田氏は、私と関係が深い(と勝手に思っているだけである。あちらは私のことを知ろうはずもない)。第一に、同い年(同学年)だということだ(違うところはこの方は東大出身であることだ。私と同い年で東大出身はとても珍しい。なぜ珍しいかは私と同い年の人なら誰もが知ってる)。第二はお隣の方だということだ。お隣というのには説明が必要である。内田氏の属する神戸女学院大学は、関西学院聖和キャンパス(聖和大学・聖和短期大学)と隣合わせになっている。しかも、キャンパスの間には通路があって、キャンパス間を自由に行き来できるようになっている(聖和キャンパスを通って、女学院に通っている人がいる。逆の人はあまり見たことがない)。
Turo

内田氏の教育論は、腑に落ちるものばかりなのだが、次の部分にその教育論が凝縮されている。

「何のために勉強するのか?」という問いを、教育者もメディアも、批評性のある問いだと思いこんでいます。現に、子どもからそういう問いをいきなりつきつけられると、多くの人は絶句してしまいます。教師を絶句させるほどラディカルでクリティカルな問いなんだ、これはある種の知性のあかしなのだと子どもたちは思いこんでいます。そして、あらゆる機会に「それが何のに立つんですか?」と問いかけ、満足のゆく答えが得られなければ、自信たっぷりに打ち棄ててしまう。しかし、この切れ味のよさそのものが子どもたちの成長を妨げているということは、当の子どもたち自身には決して自覚されません。

「何の訳に立つのか?」という問いを立てる人は、ことの有用無用についてのその人自身の価値観の正しさをすでに自明の前提にしています。有用であると「私」が決定したものは有用であり、無用であると「私」が決定したものは無用である。たしかに、歯切れはいい。では「私」が採用している有用性の測定の正しさは誰が担保してくれるのでしょうか。

「何のために勉強するのか?」「何のに立つのか?」
このような問いをしてくる大学生も増えてきた。内田氏は、このような大学生に対しては、「二十歳の学生の手持ちの価値の度量衡を持ってしては計量できなものが世の中に無限に存在します。彼はあえて言えば、愛用の三十センチの「ものさし」で世の中のすべてのものを計ろうとしている子どもに似ています」と批判する。

その通りである。ところが、一方では大学教育がこのような問いを発する学生を増長させているのである。ある大学の「学生による授業評価アンケート」には、「教員この授業の目的や目標を示しましたか」という項目がある。つまり自分の授業の目的や目標をあらかじめ明確に示すことが、大学教員の義務になってしまっているのである。そして、それを明確に示さない大学教師はだめな教師なのである。私は、いつも馬鹿げたことだと思っているし、そのことを主張してきたのだが、そのような主張も通じなくなってしまった。

「何のために勉強するのか?」という質問項目を考えた人の頭の中には、「「何のために勉強するか?」となぜ問うのか?」という問いがあってもよさそうなものだが、そういう発想はなさそうである。私なら、「「「「何のために勉強するか?」となぜ問うのか?」となぜ問うのか?」となぜ問うのか?」くらいまで問う。それ以上問わないのは、思考力が間に合わないせいもあるが、入れ子構造が自分自身でも把握できなくなってしまうからである。おっと脱線しそうだ。

内田氏が指摘しているような子どもや大学生は最近になって生まれたのではない。昔からそういう子ども大学生もいた。少数派だったのが、ある一定の数を越え、何らかの外的な理由(教育する側の問題)で一気に吹き出してきたのだ。内田氏はそのような子どもや学生がなぜ増えたのかについては明らかにしている。この分析がとてもおもしろい。しかし、教育する側の問題についてはまだ明確にされていない。

私は、教育学に大きな責任があると思っているのだが、内田氏のようにスパッとした文章で表すことができない。隔靴掻痒である。

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四文字熟語

住友声明(単なる変換ミスであって、創作ではありません)が募集した年末恒例の創作四文字熟語50編が発表されている。
その中で私が気にいっているのを五つ

一票両断
一咳触発
薬禍騒乱
一目遼戦
鍵盤指舞

見ただけですぐにわかる。
センスいいなあ、私も作ってみよう・・・・・・

美人薄命→美人百名
(昔つくった)

ウーン・ウーン

処女航海→処女後悔
風林火山→不倫母さん
人身一新→珍々湿疹
(これも昔発表して顰蹙をかった)

何も出てこなかった。
というわけで・・・・・

ごめんね

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言ってみたい

日曜日にも大学に出ることが多い。要領が悪いので、日曜日も出ていかなければならない。

大学への坂道を登っていると、上から顔見知りの学生が降りてきた。私の顔をみるなり、
「先生、日曜日も大学に来るんですか」
と言う。

次のように言いたいところである。
「ばかやろう、『来るんですか』とはなんだ。『お休みにも出て来られるのですね。私たちのためにありがとうございます』と言え。それに、大学教員は研究者でもあるんだ。研究者というのは24時間が研究なのだ」

ウー、言えない。
「うん、日曜日くらいは仕事しないとね・・・」
と、軟弱な答えをする自分に腹が立つ。

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のだめカンタービレ

最初に放送された時(2007年)には、きちんと見ることができなかった「のだめカンタービレ」が、関西テレビ(フジ系列)で昼間に再放送されている。これを録画して夜に見ている。これが、なかなか漫画的(原作が漫画だから)でおもしろいのである。それに主役の上野樹里がかわゆい。

実写なのに、時々見える漫画的な動きについ笑ってしまう。私は性格はひねくれてないので(?)、だいたいは制作者の意図通りに笑ってしまうのである。そして、全編にはめられたクラシック作品の切れ端も効果的である(つまみ食いはつまみ食いでうまいものである)。何度かここにも書いたが、主題曲の「7番」は、私は中学生の頃から好きだったのだ。タンタカタン、タンタカタン・・・・

なぜ、この時期に再放送か?
劇場版の映画が公開されるからなのだろう。「のだめカンタービレ最終楽章」
前編・後編に分かれているのが気に入らないが、見に行かなくっちゃ。

関西に来て、すっかりテレビにはまってしまった。放送局が多いせいもある。地上放送は全国ネットに、ローカル放送局。なんか地元のイベント、例えば吹奏楽やコーラスの演奏会などを、質の悪い画像で流している放送局もある。衛星はNHKとWOWWOWに無料のデジタル放送。おまけに、録画をするのにテープもいらず楽になった。見始めるとキリがない。昔は、アンチテレビ党員だったのに、すっかり変節してしまった。

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今どきの大学生

「大研究・日本の大学生・これが現実!」というタイトルに引かれて『週刊現代12/19』を買った。予想した通りである。例によって、今の大学生がどれだけひどいかという関係者の証言が続く。しかし、どの例もみな今にはじまったことではない。

「君たちを教えるのは本当に骨が折れるよ」とつぶやいたら、真顔で「どこの骨が折れたんですか?」と返された。

面白い!

いつの世にも、こういう面白い学生はいる。20年ほど前、イタリア旅行中に、ピサの斜塔を見て「ワー見て見て、あの塔傾いてる」と騒いだという女子学生の名前を私は知っている。

教育学部の授業で、「(小学校での授業中に)教室に蜂が入って来たら、あなたが教師だったらどうしますか?」と質問されて、「びっくりします」という学生がいると聞いたのは、10年以上も前の話だ。

経済学部の学生が不良債権を「債券」と書き、債券と書くべきところを「債権」と書く。こんな基本的なことを間違える学生が目立つようになりましたね。

漢字の間違えだって昔からあった。ある音楽専攻の学生は「滝廉太郎」の「廉」の字を忘れて書けなかった(その学生は、現在関西の某私立大学の教授になっているらしい)。まあいいじゃん。聞くは一時の恥、聞かざるは一生の恥、着飾るだけならサルでもできる。

そう言えば音楽関係では、「ハ調長」「ニ単調」の答案はどれだけ見てきたかわからない。女子学生が堂々と「体位法」と書いてきたこともある。もっとも「対位法」を「体位法」と間違えるのは困るが、その逆ならあまり意味が変わらないような気もする。

レポートの参考文献に Wikipedia を挙げるくらいは当たり前。それも、まるまる貼り付けて出してくる。

ウーン、便利な世の中になったものだ、などと感心していてはいけない。これは、きちんと教えてやらなければならない。Wikipedia はレポートを書くには蜜の味。しかし、Wikipedia の記事はだれが書いたのかもわからないし、出典も明らかにされていない場合が多い。間違いも多い。結局裏付けをとらなければならない。

Wikipedia に掲載されているということは、どこかで明らかになっているということである。逆に言えば、正しい情報なら必ず裏付けがとれるということである。裏付けを取るために調べなければならないことになるのだが、Wikipedia の一記事の裏付けを取るためには、ものすごい労力が必要になる。学生のレポートなら、「私の調べた範囲では、明らかにできなかった」と書いておくほうがかえって楽なのである。

この先生は、こう言ってぼやくより、「このレポートに書いてあることの裏付けをとりなさい。裏付けがとれたら、Sをあげよう」と助言したほうがよかった。もっとも「裏付けってどういうことですか」と聞かれそうだが。

マスコミにもよく登場する有名ゲストを講義に招き、話をしてもらったんです。その後、ある学生が「どうやってあの有名人を呼んだのですが」と聞いてきたので、「僕の友人だから来てくれたんだ」と答えたら、「フ~ン、先生の自慢のためですか」と言い放った。思わず怒りがこみあげました。

まあ、このくらいのことに怒っていたら、堪忍袋がどれだけ大きくても間に合わない。「そうだ、すごい人を友人に持っているだろう。今度は総理大臣を呼んで来よう」とでも言っておけばよいのだ。

あの大学紛争時、学生は大学教員に対してどれだけ無礼な振る舞いをしたか。どの時代も大学生というのは無礼なのだ。私などはその代表的存在だった。この先生だって、本人に自覚がないだけで、一つや二つの無礼な振る舞いをしているはずだ。まず、我が身を振り返ったほうがよい。

と書いてきたが、かくいう私も一部の大学生には怒っている。しかし、怒っても何もはじまらない。現実は現実なのだから、そこを出発点にする以外にない(と今日はまじめ)。

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師走

気がつけば、もう12月だ(「気がつけば」というのは文字数をかせぐために入れただけで、実は6日前に気がついていたのだ)。

今年は猛烈なはやさで一年が過ぎたような気がする。昨年も同じように思った。一昨年もそう思った。その前の年も。毎年ブログにそんなことを書いてきた。ということは、一年がだんだん短くなっているということなのか。

時間がたつのがはやいわりに、いろいろなことがあった。まず社会に目を転じると、オバマが大統領に就任した(私が目を転じなくても、オバマは大統領に就任したであろう。これは唯物論的世界にもとづいている)。日本では政権交代があり、わたしもちょっとだけ政権交代に貢献した。相変わらず不景気が続いた。たくさんの凶悪事件があった。だが、幸せな出来事もたくさんあった。何組かは知らないが結婚した人もいたはずだ。兼続さんとお船さんが結婚したことは私でも知っている。お船さんは再婚だったと聞いている。40年に1回とかいう日食があった。もちろん28日に1回という満月の日もあった。12月1日が満月だった。次は12月29日である。

個人的にもいろいろなことがあった。4月から新しい職場に移った。ある選挙で落選した(別に立候補したわけではないのだが、やっぱりこれは落選と言うのだろう)。皆さんのおかげで前から念じ願っていた念願がかなった。新しい飲み屋も見つけた。すでに行きつけの店が10軒ほどできた。毎日歯を磨き顔を洗い風呂に入りトイレに入った。歯磨きを忘れた日はあるがトイレを忘れた日はない。

不思議なことなのだが、時間がたつのがはやいのに少し前のことはすぐに忘れてしまう。よく考えると私はこの3月まで弘前にいたのである。弘前時代のことが遠い昔のことのようだ。弘前市学園町にある大学の宿舎に住んでいたこと、「日比谷センター」という似つかわしくない名の建物の中にある酒場で毎日飲んでいたこと、雪の中をあちこちを走り回っていたこと、岩木山の頂上まで自宅から歩いて登ったことなどは、つい昨日のことのように覚えている。しかしどんな仕事をしたかということは何も思い出せないのだ。ひょっとしたら私は仕事をしなかったのではないかと思えるほどなのだ。いや、実はこちらに来てからも、仕事のことは何も覚えていないのである。いやなことはすぐ忘れてしまう、というより忘れたいのである。今日やるべき仕事も忘れたいほどである。

というわけで、今年も心安らかに一年を終えることができそうである。

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横着

「吉田は横着な奴だ」。
この言葉を聞くと、吉田にどのようなイメージを抱くのだろうか。

私は九州の育ちだから、「横着」とは「生意気」「不遜」「傲岸」という意味で使う。つまり、若輩者の礼を欠いた言行や人柄をいう。中国地方、四国地方でもだいたいこのような意味で通じてきたような気がする。

標準語では少し意味がちがうようだ。「横着」には「手抜き」というような意味がある。goo辞書では「すべきことを怠けてしないこと。怠けること。 「―を決め込む」「―して夕食を出前ですま.す」」とされている。東京に住んでから「横着」という言葉で話しが通じないことがあった。

ところで、松本清張の若いころの小説を読んでいるとこの「横着」という言葉が何度も出てくる。そして清張が使う場合、物語の文脈からして前者の意味なのだ。さすがは九州人である。なんとなくうれしくなってくる。

では、「吉田は横着な奴だ」はどうか。
私を知っている人なら、東京の人からも九州の人からも納得されてしまいそうである
ただし、九州弁で「横着」と言われるほど、若くはなくなった(泣)

※もっとも、「不遜」「傲岸」ということなら、私の同業者に人材は事欠かない。ほれ、そこのおばさん、そっちのおじさん、そっちのにいちゃん、それにあんた、そうそうあんたですよ・・・・・

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小学唱歌集とクリスマス

巷間では、クリスマスの音楽が聞こえてくるようになった。

明治14(1881)年~17(1884)年に発行された『小学唱歌集』(初編-第三編)と讃美歌との関係については安田寛氏の研究『唱歌と讃美歌』(音楽之友社、1993)が知られているが、その旋律が現在でもクリスマス賛美歌として歌われている曲が2曲ある。

一つは「雨露」(初編第二十九)。原曲はシチリア民謡であり、日本では「いざうたえ」の歌詞で歌われている(讃美歌21-260、日本聖公会聖歌集 82)。小学唱歌集の歌詞は次の通りである。

雨露におほみやはあれはてにけり
みめぐみに民草はうるほいにけり
かくてこそ今の世もかまどのけぶり
み空にもあまるまでたちみちぬらめ

飢えこごえなきまどふ民もやあると
身にかへてかしこくもおもほたあまり
あられうつ冬の夜にぬぎたまはせる
大御衣(おほみそ)のあつきその御こころあはれ

民の家のかまどから煙が出ていないのを見て年貢を減じることにしたという、仁徳天皇にまつわる「かまどのけむり」(明治時代は史実として教えられた)を題材にした歌詞である。
芸大図書館の「音楽取調掛時代各種資料」の中には、この曲の指導法まで残っている。

もう一つは「栄ゆく御代」(第二編第四十五・初編からの通し番号)である。原曲はクリスマスの代表曲ともいえる Adeste Fidelesである(讃美歌21-259「いそぎ来たれ、主にある民」、日本聖公会聖歌集 72「み使いの、主なるおおきみ」)。唱歌集の歌詞は次の通りである。

さかゆく御代に生まれしも
思へば神のめぐみなり
いざや児等神の恵を
ゆめなわすそゆめなわすれそ
ゆめなわすれそときのまも

恵も深きかみがきの
みまへのさかきとりもちて
ちはやぶるかみの御前に
うたひたまはしうたいたまはし
うたいたまはしよもすがら

神の恵みを一時もわすれてはならない。
もちろんこの神はキリスト教でいうところの「神」ではない。かつてある総理大臣が言った「日本は天皇を中心とする神の国」の「神」である。結局、代々続いてきた天皇を讃美する歌なのである。ただ、そういう解釈をしないならば、讃美歌として歌ってもそのまま通用しそうである。

クリスマスの讃美歌の旋律で天皇を讃美する。何か恐ろしい話である。

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問題行動調査

11月30日、文部科学省から、「平成20年度「児童生徒の問題行動等生徒指導上の諸問題に関する調査結果(暴力行為、いじめ等)」が公表された。調査結果の主な特徴は次のようにまとめられている。

1)小・中・高等学校における、暴力行為の発生件数は約6万件と3年連続で増加しており、小・中学校においては、過去最高の件数に上ること。
2)小・中・高・特別支援学校における、いじめの認知件数は約8万5千件と、前年度(約10万1千件)より約1万6千件減少(約16%減)していること。
3)小・中・高等学校において自殺した児童生徒は136人(うち、自殺した児童生徒が置かれていた状況として「いじめの問題」があったケースは3人)であること。

この調査結果は、各学校を通じて教育委員会に届けられたものである。したがって「増加した」は「顕在化した」と見ることもできるし、「減少した」を「潜在化した」と見ることもできる。小・中・高等学校の現場の感覚はどうなのか。

なお、詳細も文部科学省のホームページで公表されている。じっくり検討してみたい。

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ツリー点灯

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アドヴェントに入った。クリスマスの4週前の日曜日からクリスマスまでの期間で、「待降節」「降臨節」ともいう。キリストの降誕を待ち望む節、要するにクリスマスに備える節である。
というわけで、聖和キャンパスでも昨夜アドベントの礼拝が行われ、大きなツリーにも灯が点った。
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これは聖和キャンパスのツリーだが、近くの上ヶ原キャンパスや三田キャンパスでも同時に点灯されたそうだ。これから、キャンパスは一気にクリスマス・モードになる(かしらん)。
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