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醜い老人

昨日はテレビドラマ「凍れる牙~女刑事音道貴子」を観る。乃南アサの直木賞作品をテレビドラマ化したものである。なかなか面白かった。ドラマの流れとは関係ない話し。

ドラマの中で、木村佳乃演じる主人公が、警察犬協会の幹部から話しを聞く場面がある。警察庁からの天下りらしいその幹部を演じるのは津川雅彦。そばをすすりながら、話しをするのだが、その姿の見苦しいこと見苦しいこと。津川雅彦がうまいのだが、あそこまで見苦しく演じなくてもよいのにと思うほど、見苦しい。まさに老醜という言葉ぴったりである。ドラマを観たほとんどの人が「ああはなりたくない」と思ったことだろう。

老醜というのは誰にでもやってくる。肉体的な老醜もあれば精神的な老醜もある。それよりも一番見苦しいのは、このこのドラマの協会幹部のような振る舞いの醜さである。そしてやっかいなことに、この手の老醜というのは本人には自覚できないらしい。

どの世界にも老醜をさらしている人はいる。私の周りにもいる。もちろん本人に自覚はないだろう。そしてこれは他人事ではない。私にも生きていれば必ずやってくる(すでにやってきているのかも知れない)。引き際は大切である。

今年還暦である。普通なら来年3月で強制退職となるところだが、今の職場は勤めようと思えば2019年3月まで勤められるそうだ。もちろんそこまやる気はない。引き際を自分で決めろと言われているようなものだ。

中曽根さんやノムさんにはなれないし、なる気もない。引き際は人生の難問であるのだが、時をすぎるとこの難問を解く時期を逸して、老醜をさらすことになる。いつまでに難問を解けばよいのか。これも難問である。

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なにもなし

昨日は、午前中小会議、あとはシラバス入力しておわり。
でも疲れたので7時頃に就寝。

なにも書くことがない。

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雑用

なんとか成績を付け終わり無事提出。大変だった。なぜ大変だったかというと、少しサービスが過ぎて、100点がたくさん出てしまったこと。しかしこのくらいサービスしないと今度は、欠点が大量に出てしまう。この兼ね合いがたいへん難しい。学生の意欲、能力の見極めができていないからこんなことになる。修行が足りぬ。

今日は、新年度のシラバス入力の締め切りである。まあ、新学部発足の最初の4年間は設置申請のさいに文部科学省に提出したシラバス通りに入力するだけだから、すべてコピペですむ。だからシラバス入力は本当に雑用である。

シラバスをつくるのは大学の既定の方針だからもちろん入力する。しかし、個人的にはこのシラバスほどくだらないものはないと私は思っている。1年も前にどんな学生が受講するのか(教員は学生を選べない)、何人受講するのかもわからないうちに、15回分の授業内容を提示するのである。その通りに行くはずもない。私自身の研究や学習が進んだり、人生観や教育観が変わって、授業の内容や進め方を変えたくなることがある。そうでなければ私自身が楽しくない。教員が自分で楽しくない授業を受ける学生が楽しいわけはない(教員が楽しくても学生が楽しくない授業はたくさんあるが、その逆はない)。

もちろん、大学の授業がすべて選択科目で、あるいは必修科目でも同じ科目が複数開講されていて学生が教員を選べるようになっいて、受講生の数によって教員が評価され、それによって教員の待遇も決まるようなシステムになっているのなら、このシラバスが大いに意味を持つ。教員は自分の授業がどれだけ楽しくて役に立つものかをシラバスで宣伝することになるだろう。シラバスが「契約書」としての意味をもつ。しかし、そんな大学が本当によい大学と言えるか? 

日本の大学がそんなものだったら、私ははじめから大学教員なんかなっていない。私は器用(それに「貧乏」はつくが)で、他人が思っているほど頭は悪くない(少しは悪い)ので何をしても食ってはいけたはずだ。

ここまで書いて思い当たるのだが、考えてみると私はこれまで「こんな仕事いつでもやめてやる!」と思いながら生きてきたような気がする。私の身近にいる人は私がそう言って叫ぶのを一度は聞いたことがあるはずだ。そう思いながらとうとう還暦の年を迎えてしまった。

今更、「こんな仕事いつでもやめてやる」と言っても迫力はない(リスクがほどんどないから)。だから言わない。そのかわり大学が我慢が出来ないほど不快なものになったら静かに身を引くことにする。・・・と今日も話しがあらぬ方向に飛んでしまった。

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成績

今日は成績提出の締め切り日。

「明日できることは今日はやらない」を座右銘としてきたら、昨日は明日だった日が今日は今日になってしまった。今日は明日だと思っている明日は、明日になったら今日になっていることだろう。明日に明日だと思っている日は、今日は明後日だと思っているのだが明後日になったら・・・・と遊んでいる場合ではない。

そいうわけで、締め切りまで時間がないので、今日はこれでおしまい。皆さんも今日1日よい日でありますように。

※この「今日は」は「今日」のことについて述べているのではない。今日がこれでおしまいだったら、大変なことだ。「今日のブログの文章」がこれでおしまいという暗意である。しかし「おしまい」といいながらまだ書いていては、「最後に一言」と言っておいて延々とスピーチを続けるおえらいさんや、終わりそうでなかなか終わらない大学の先生の講義みたいになるので、本当にこれでおしまい。

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中曽根元首相

昨日は一日家で仕事(雑用)。職場との連絡もメールですませる。Web-Mailで職場のアドレスも使えるので何の問題もおこらない。

今日は大学に出て採点などの重要な用。午後は小会議。会議は1時間足らずで終了。気になっていた新聞記事を読む。

本日の朝日新聞朝刊に《インタビュー・私の「日韓」》という記事があり、中曽根康弘元首相と韓国の金泳三(キム・ヨンサム)元大統領が答えている。

中曽根元首相と言えば、在任中はなんとなく超タカ派というイメージを持っていた。それだけ私がマスコミの論調に流されていたせいかも知れない。人事院の給与値上げの勧告を実施しなかった憎い総理という思い出もある。

しかし、このインタビューを読んでみると、そのイメージがかなり間違っていたことに気づく。例えば、首相に就任してすぐ訪問した国は韓国であった。65年の日韓国交正常化後に、首相がはじめて韓国公式訪問したのが、この83年の訪問である。

首脳会談で中曽根首相は「我が国が多大な苦難をもたらした」ということを公式に表明した。そのときに気持ちをインタビューでは次のように言う。「私は民族主義者だから、韓国の民族主義も理解していた。日本があれだけのことをやった以上、一度は謝らなければならない。総理大臣が『過ち』と述べて謝る。それが礼儀だという意識をもち、自分で考えたのです」と述べる。

また現在の鳩山政権が法案を提出しようとしている永住外国人に対する地方参政権問題では、「僕は原則として賛成。既成事実にこだわりすぎず、対局から見て日本の前途を開拓する立場ですすまなければ。政治家の器量が問われる。条件を厳しくしても、だれかが踏み切らないといけない」と答える。

さらに竹島問題では、「当時私の派閥の長だった河野一郎さんが竹島問題はそのままにしておくのは賢明だ、触らないことが解決だ、と話し合ったと聞いている。政治的に熟するまではそんな知恵が必要かもしれない」という。

読んでみると、きわめて柔軟な発想をしていることがわかる。靖国神社問題でも、一度は参拝をするが、日中関係への配慮からかその後は参拝していない(中国の親日派への配慮とも言われている)。

もちろん私は中曽根氏の考えのすべてに賛成しているわけではない。なんといっても三公社を民営化したのはこの人である。現在でも改憲論・核武装論者でもある。しかし、アメリカに対しては現実主義者になるが、アジア諸国に対しては国家の正義をぶち上げる原理主義になる多くの保守政治家に比べれば、非常にバランスのとれた現実主義者であることがよくわかる。もう91歳だそうだが、まだまだ日本の政治に必要な人である。

(補足)中曽根さんは、首相になる前から「政界の風見鶏」という異名があった。「風見鶏」は「現実主義者」と同じ意味なのかも知れない。

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おとうと

昨日は午前中少し寝たら、少し元気になったので映画の試写会に出かけた。映画について書くのは苦手だが(何について書くのも得意とは言えない。音楽について書くのはもっと苦手である)・・・

山田洋次監督、吉永小百合主演「おとうと」(松竹)

山田監督だし、主演が吉永小百合だから当たり外れはない。笑福亭鶴瓶の演技はわざとらしいが、それがまた役にぴったりはまっている。

誰でも身内に一人二人の厄介者を抱えている。そんな厄介者が家族の小さな幸せを壊したり脅かしたりする。そんな厄介者を際だたせた物語である(寅さんの逆と考えらよい)。幸田文の原作らしいが読んだことがない(ちなみに幸田文は幸田露伴の娘である。また明治期の洋楽受容史に登場する幸田延は露伴の妹である・・・また脱線した)。

例によって、笑いと涙をさそう山田流演出である。私は、この種の映画を観る時には、フィクションと思ってこの演出に埋没することにしている。大いに笑い泣いた。

しかし、後味がよくない。以前から厄介者である弟が、姉の娘の結婚式に突然やってきて酒に酔って結婚式をぶちこわす。次はその弟にお金を貸したという女がやってきて、姉は130万の借金を肩代わりしてやる。一度は姉弟の縁を切るが、姉は行方不明になった弟のことを心配し、行き倒れになった弟の最期を優しく看取る。なぜここまでやるか。やらなければならないのか(弟は寅さんと似ているが、寅さんに対するようには共感できなかった。腹立たしいだけだ)。

もちろん姉弟にはそれなりの歴史があったはずだが、それが映画の場面からは見えてこない。ともに50歳を越えたところから物語がはじまるからだ。姉の弟に対するうしろめたさを暗示させるような言葉が出てくるが、説得力がない(これを映像で描くのは大変だろう)。説得力がないから、映画を観た私には姉の優しさが押しつけがましく感じる。これが後味の悪さかもしれない。

とはいうものの、家族についていろいろなことを考えさせられる。観ておいて悪い映画ではない。それに控えめだが、冨田勲の音楽がよい。すべて電子音で生の音はまったく使って使っていなかったようだが。吉永小百合はいつもよい。

一般公開は1月30日(土)からである。

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夜は「龍馬伝」を観る。第1回目のようにおもしくない。龍馬がスーパーマンになっているからだろうか。

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昼夜逆転

目がさめたら5時だった。外は暗い。朝だと思ったら、夕方5時だった。

昼夜が逆転してしまった。今日は出かけたいのだが、体がだるい。

「やる気は寝て待て」という言葉があるそうだ。寝る。

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耳で考える

体調が悪くて、昨日は夜の7時台に床に入ったのだが、今度は早く目が覚めて眠れない。水平思考(横になって考えるだけ)をしても眠れないので、結局水平読書をはじめた。年末に買った本を読んだ。

養老孟司・久石譲『耳で考える-脳は名曲を欲する-』(角川ONEテーマ21・705円)

作曲家の久石さんと養老さんの対談である。久石さんが音楽について自分の体験談を話し、それを養老さんが引き取って解剖学や脳科学や年の功(まあ、博識ですな)で集めた知見を使って分析したり説明したりという具合に対談がすすんでいく。

例えば、映像に音楽をつける仕事について久石さんがいう。

厳密に映像に合わせると、間違いなく音楽のほうが早く感じるんですよ。ぴったり合わせると、映像より先に音楽が聞こえてくるという現象が起きる。

僕は経験則で、3コマか4コマ、場合によっては5コマ、音楽を遅らせたりしてきました。そうすると、映像と音楽がちょうど合う、違和感なくシンクロするんです(略)。

それを養老さんが引き取って説明する。

それは意識の研究者が指摘しています。視覚と聴覚は処理時間がズレる。何の問題かというと、おそらくシナプスの数です。

だいたいこんな感じである。結論も何もない。これで本になり、それが売れる(そのうちの1冊は私が買った)のだからうらやましいといえばうらやましい。

全体を読み終わって感じたのは、久石さんはいい人だなあっていうことだ(それでは養老さんはどうかっていうと、とくにないがあえて言えば「おじいさんだなあ」ということだ。「おじいさんだなあ」と感じるのは1937年生まれだから当たり前のことで、当たり前のことを本文に書いてもしかたないので、括弧にくくることにした。→括弧が長くなるのは私の悪い癖だというのはもう何度書いたことか)。

※なぜか「いい」が消失していた。

いい人という言い方は抽象的でよくわからないかもしれない。あえてもうすこし説明すれば、あの久石さんが映画やテレビドラマにつけている音楽そのままという感じである(「坂の上の雲」はよかった)。もちろん本からの印象だけで、直接会ってお話ししたことはないので実際の所はわからないが、たぶん会って話しても同じ印象ではないだろうか。

私の知り合いには作曲家とか大学の作曲の先生とか大学の作曲を出たという人がかなりいる(当たり前だ)が、だいたいは皆さんいい人ばかりで、人柄がそのまま作品になっているような人が多い。そう考えると、どうも私の業界の人は悪人が多いようど気がする。もちろん何度も書いているとおり、私も悪人である。

と話しがあらぬ方向にすすんでいく。脳みそが混乱しているようだ(いつもだが)。もうすぐ、朝の8時だ。おやすみなさい。

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国楽

ちょっぴり調子が悪い(脳みそはいつも調子が悪いが、今日は珍しく体調も悪い)。

大学図書館の参考図書コーナーには、音楽事典類の中に音楽之友社や平凡社の音楽事典、The New Grove MGGと並んで『国楽大事典』という事典が置いてある。取り出してみると韓国の事典である。前から気になっていた。

先日の共同セミナーの際に、韓国音楽教育学会会長のミン・キョンフン会長に質問してみた。

韓国では、音楽科のカリキュラムの中にも「国楽」という言葉がある。この「国楽」を韓国の人たちはどのような意味で使っているのかを尋ねた。それは、英語だと、"Korean Traditional Music" になるそうだ。「韓国の伝統音楽」のことを「国楽」と呼んでいるのである。つまり、韓国の「国楽」は日本の学習指導要領で言う「我が国の伝統音楽」と同じような意味ということになる。

日本では「国楽」という言葉は現在は使われない。「国楽」という概念が生まれたのは明治期であり、伊澤修二らがその創成を目指したのが「国楽」であった。したがってそれは、必ずしも日本の伝統音楽を意味するものではなかった。「国楽」とは "National Music" 、つまり国民が国家の一員であることを自覚できるような音楽が「国楽」であったわけである。そしてその国楽を伊澤らは日本の伝統音楽の中に求めようとはしなかったのである。伝統音楽には「国楽」とすべきものが存在しないという認識があったからである(これは正しい認識である)。

唱歌教育をはじめるために1879年に創設された音楽取調掛の事業方針の一つは次のとおりであった。

将来国楽を創成する人物を養成する。

人材を育成を通してこれから創成するものが国楽だったのである。
では、伊澤らがめざした「国楽」は創成されたのか?
それはうやむやのまま(悪いことではない)、「国楽」という言葉が死語となり(これも悪いことではない)、現在では学習指導要領で「我が国や郷土の伝統音楽の尊重」が強調されている(悪いことではない)。

我が国の伝統音楽を尊重することが国家主義(ナショナリズム)と結びつくのではないかと危惧する人がいる。そういう質問を受けることがある。たしかに伝統音楽を意図的に「国家」や「愛国心」と結びつけようとする人もいるかもしれない。しかし、伝統音楽のあり方は多様である。そして伝統音楽の多様性を追求すればするほど、伝統音楽は国家主義からは(「残念」ながら)遠ざかっていく。したがって、伝統音楽の学習によって愛国心が育つことなど期待しないほうがよいし、また危惧することもない。伊澤らはこのことを130年前に喝破していたのである。つまり、日本では「国楽」と「伝統音楽」は対立する。

自分の経験で言えば、雅楽や民謡を聴いた時よりも、スコットランド生まれの「蛍の光」を歌ったり聴いたりしている時のほうが「国」を意識する。卒業式で愛国心を育てるなら、「君が代」よりも「蛍の光」のほうがよほどましだと思う(日本全国の小、中、校のすべての卒業式で、子どもたちが「蛍の光」の歌詞の意味をしっかり理解し、それを心を一つにして歌うような事態は恐ろしいが)。

右翼の街宣車が大音量で垂れ流していく音楽。あれは日本の伝統音楽からは最も遠いところにある。

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上の文はかなり短絡している。文と文の間に証拠資料を入れていけばかなりの論文になると思うが、やる気が起こらない。

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会議

昨日は年度最後の授業(試験)だった。あとは、1科目成績を出すだけだ。他は出した。
今日は会議もないので、大学には行かないつもりである。あくまでつもりであって、つもりがつもりつもるといつのまにか行かなければならなくこともあるので、行く覚悟だけはしておくつもり(大学に行くくらいでそんな覚悟をする必要もない)。今日大学でやろうと思っていた仕事の一つも朝早く起きて済ませてしまった。

19日のブログに次のように書いた。
「昨日は、学内の委員会に出席。議論が盛り上がった」

もう一つ良かったことがある。会議が早く終わったことである。この会議は4時から始まったのだが、6時30分に終わった。実は司会者は「6時に終わる」という設定をしていたのだが(大学の会議では珍しい。よい司会者である)。少しだけのびた。それでも「6時に終わる」と決めていたからこそ、6時30分に終わったのだ。

大学の会議は総じて長い。教授会などはほとんど時間設定がされていない。前の大学も長かった(それでも、私がいた大部分の期間に学部長をされていた方は気の短い方だったのか、比較的短い時間で会議が終わっていた)。それ以上に高知大時代はひどかった。ほとんどエンドレスと言ってよかった(「吉田がエンドレスにしていた」という噂もある)。

そもそも2時間を過ぎる会議などほとんど無意味である。建設的な意見が出て長引く場合もあるが、たいていはつまらない理由で長引く(今の大学ではありません。一般論です)。
1 報告者が準備不足で行き当たりばったりな報告をする。
2 報告の文章ができているのに説明をする。「内容をかいつまんで報告します」という言いながら、その文章を読むよりはるかに長い時間をかけて説明する人がいる(組合関係に多い)。
3 意見ではなく、事実確認の段階で紛糾する。
4 あとで事務方に確認すればすむようなことを質問する(自分の勉強不足!)。
5 原案がない。「どうしましょうか?」という提案をする。
6 多数決を回避しようとする(全員が合意するなどありえないことなのだが)。
7 会議の時間が長いことが民主主義だと思っている人がいる。

弘前大学に赴任して半年後にある委員会の委員になった。その時の第1回目の会議が長かった。5時40分にはじまった会議が8時くらいになっていた。上の1~7の条件をほぼ満たしている。エンドレスかと思われた。たまらなくなって、私は次のような発言をした(はっきりとは覚えていないのだが趣旨はそんな感じである)。

「この会議はいつ終わるのでしょうか。会議がこんなに長くなると思考力も低下します。それに私は、この時間になるとアルコールが切れてイライラします。こんな会議は非人間的なうえ無駄です。せめて終わる時間は決めて、その時間になったらさっと終わるようにしたらいかがでしょうか」

これ以来、「アルコールが切れてイライラします」を切り札にするようになった。先日の会議でも、6時15分くらいにこれを言った(そのために2次会が開催されることになった)。私が責任者であったり司会をしたりする会議は、基本的に決めた時間通りに終わる。例えば、某学会の理事会や総会では、少しくらい紛糾してもエンドレスになることはなかった。もちろん事務局がしっかり準備をしてくれているからだ。

会議とスピーチと○○ー○の丈は短いほど良い。

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HPデザイン

昨日は、夕方に門戸厄神の境内を通って帰った。駅までずっと露店が並んでいた。おでん、お好み焼き、焼きそば、○○名物△△焼き・・・など、同じ種類のものが多い。そして人出の割に店で買っている人がいない。こんな店で商売が成り立っているのだろうかと妙な心配をしてしまった。

ホームページを一つデザインすることになった。私は、HPビルダーのようなソフトを使うのは嫌いなので、テキストエディタでタグを自分で書いて作成する。まず<html></html>から書き始めるのである。一つタグを書いては、IEとFirefoxで確認するという手法をとる。HPビルダーなどで作ってしまうと、あとで更新したときに書式に統一性がなくなるからだ。そして何といっても、「ソース」が美しくなければ。まあ、ソースは下着のようなもので、「下着もきれいに」という訳である(私のHP、それ自体はきれいではないけど、下着は結構きれいでしょう)。

ソースを美しするためには、スタイルシートも自分で書いてしまうのが一番よい。ただ、久しぶりなので忘れてしまった。思い出し出し復習しながら作成することにする。規則を思い出しながら、タグを書いて、一回一回確認する作業は結構楽しい作業なのである。

そう言えば昨日、私のブログを見た人からメールが来た。
「吉田先生は、本当にマメですね。尊敬します」
私はマメは好きだが、マメではない。「無精」という言葉は私のためにあると思っているのだ。私と長年つきあってきた人や、私の研究室や服装を見た人はおそらく同意するだろう。インターネットとかブログの話しになると性格が変わるのかも知れない。しかし、車の運転をすると性格が変わる人よりましだと思っている。


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厄除け

昨日は、学内の委員会に出席。議論が盛り上がった。議論の続きを西宮北口で行った。500先生、下無先生、PEAK先生と私の4人でさらに盛り上がった。

18日、19日は聖和キャンパスのすぐ下にある門戸厄神(東光寺)の厄除け大祭である。駅から寺まで、すごい人出である。出店もたくさんあり。交通規制までしている。

私は「厄」などは信じない。ただ、信じる人は信じたらよい。信じる人はちょっとした不幸でも厄だと思うだろうし、何よりもお寺や神社にとって好ましい。信じない人は大きな不幸があってもそれが厄だとは思わない。結局、厄を信じる人に厄はやってくる。これは揺るがすことのできない絶対的な真理である。

しかし、キリスト教を信じなくてもクリスマスを祝う人がたくさんいるのと同じように、厄を信じない人でも厄除けだけはする人がいるかも知れない。厄除けをしないことによるリスクは大きいが、厄除けをすることによるリスクはほとんどない(何千円かの料金ですむ)。だから、厄を信じない人が増えても神社やお寺は少しも困らないだろう。

今日は帰りに境内を通ってみよう。リスクは何一つないし、料金もいらない。

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ボランティア

昨日は、西宮で開かれた「みんなでつくるコンサート」というイベントでボランティアをした。障害児学校や障害者施設、障害者団体やボランティア団体が集まってつくる音楽会である。

もちろん音楽関係者としてボランティアをしたのではない。こちらでは顔も名前も知られていない。一市民として、舞台監督の指示に従って、ステージにイスを出したりまた引っ込めたりという作業を4時間ほど手伝った。全体がしっかりマニュアル化されていてとても楽だった。そしていい音楽会だった。

なぜ、ボランティアなどする気になったのか。それには私なりの理由がある。言葉では言い表しにくい。無理に言うと誤解される可能性がある。実は大きな社会的テーマであるような気もする。もう少し考えがまとまったら書く。

実は「私なりの理由がある」というは真っ赤な嘘である。最初から理由があったのではなく、あとからその理由を考えたのだ。私の行動はたいていそのようなものである。はっきりとその目的を自覚して行動を起こしたことなどはほとんどない。みなさんも、似たようなものだと思うのだが、違うのだろうか。

また「考えがまとまったら書く」という言い方はこれまでもしてきたが、ちゃんと書いたためしがない。永遠にまとまらないかも知れない。書いたら袋だたきに会うかも知れない。

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震災から15年

あの阪神淡路大震災から15年。こちらに来ると、自身、家族、友人が被害に会ったという人の話しを聞くことが多い。

今日は1日ボランティアに参加する。

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音楽の言葉

初めに言(ことば)があった。言は神と共にあった。言は神であった。この言は、始めに神と共にあった。万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった。言のうちに命があった。命は人間を照らす光であった。光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった。(ヨハネによる福音書、新共同訳)

韓国ではホテルの一室で毎晩研究会?を重ねた。その一つのテーマが「言葉」である。その続きを昨晩から考えていたら眠れなくなった(考えている時には考えているが、考えていない時には考えていない)。一度は棄てた研究テーマだが、現在の研究が一区切りできたので、脳みそが続く限り考えてみようと思っている(続かなければ考えてみようとも思わないだろう)。

はじめに言葉があった。・・・・すべての音楽は言葉によって成った。成った音楽で言葉によらずに成った音楽は何ひとつなかった。

ハイチで大地震。貧しい国で天災がおこると被害も悲惨である。
今日は、ひさびさにゆっくりできる日。センター試験の監督にも当たらなかった。

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前の勤務先からこんな文書(他1)が送られてきた。そして次のような事務方の文書が添えられていた。

「平成21年3月31日付けの辞職の発令通知書及び退職手当決定通知書の送付について、本来、発令直後に送付するべきところでしたが、手違いにより大変おそくなりましたことをお詫び申し上げます」

3月31日に辞職承認の辞令がもらえなかったので気にはしていたのだが。まあ、私も事務方には大変迷惑をかけたので、お互いさまである。ただ、国立大学の事務はあまりにも忙しすぎるのではないだろうか。見ていると、くだらない仕事が多すぎるようだった。

話しは変わって、民主党の小沢幹事長をめぐる疑惑。私は、本人の逮捕まで行くのではないかと見ている。確かに検察の政略捜査という面は見え隠れする。しかし、政治家はこのような隙をつくってはいけない。こうなったら小沢幹事長自身が潔く身を引くのが一番良い。それでも自民党が政権に返り咲くことはないだろう。

隙と言えば、研究者も隙をつくらないように気をつけなければならない。
例えば次のような隙である。

(1)誤字・脱字が多い。
(2)引用や出典が不正確。
(3)思いこみによる事実誤認。
(4)締め切りを守らない。
(5)書いていることと行いが違う (「授業研究専門家の授業がひどい」「道徳教育研究者が不道徳」など)。
(6)わがまま、自分勝手、無礼、傲慢(いばるいばる)。

まだまだあるが、「おまえだろう!」と言われそうなのでやめる。気をつけなくっちゃね。

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おえー

Nomisugita

もう一生飲まん!

と、朝は思うのだが・・・・・・・・・・・・・

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魁皇

昨日の大学の礼拝では、阪神淡路大震災の話しがあった。関学では15人の学生と1人の職員が犠牲になった。震災後の追悼礼拝での同じ学生のお別れの言葉が 紹介された。涙なしには聞くことができなかった。震災を忘れてはいけないし、またその時の気持ちも忘れてはいけないと思った。月並みだが、それ以外に言いようがない。

大相撲で魁皇が幕内通算808勝で、千代の富士の記録を抜いた。
この人は、福岡県直方市出身。私が出た中学校と同じ中学校である。

直方では連日花火が上がっているという。もうしばらく相撲をとってほしいという気持ちと、「お疲れさん、もう休んでください」という気持ちが両方ある。本人は大関陥落まではとり続けるつもりだろう。

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ハングル

日本に帰っても文字がハングルに見える。例えば・・・
人→S、Zz
大→ch
己→L、R
口→M
亡→ON
フ→K、G
ヲ→K
E→T
丁→U
卜→A
H→E
O→母音

요시다 타카시 (ヨシダタカシ)

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韓国のキリスト教

昨日、ソウルから戻った。

仁川国際空港は非常に大きな空港である。そして空港内もとてもにぎやかである。さすがに国際的なハブ空港である。日本の地方都市からの発着便も多いので、外国旅行にはこの空港を利用するのが便利である。

それに比較すると関西国際空港は閑散としている。こういう旅行をしてみると、日本の航空行政のでたらめさがよくわかる。結局、見通しのない空港建設を続けた来たということにつきる。ただ、関空へのアクセスは思ったほど悪くはない。成田よりもはるかにましである。使い方によってはもっと便利になる。ただ、伊丹と神戸をどうするかが問題である。
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韓日音楽教育セミナーは1月9日(土)と10日(日)に開催されたが、10(日)午前中には韓国側の出席者が少なかった。これには明確な理由がある。

韓国にはキリスト教の信者が多く、人口の約25%を占めるそうだ。その人たちにとって日曜日に教会に行くことは当然のことである。さらに、音楽関係者は教会では奏楽や聖歌隊の指導なのどどの奉仕もしている。どうしてもはずすことができない。

今回、セミナーの日程に10日(日)が含まれたのは、日本側へ配慮してくれたからだ(日本は三連休で翌日も休日なので非常に参加しやすく、ありがたかった)。しかし、毎週行われる教会の礼拝と一年に数度の学会行事を比較(比較という意識はないかも知れない)して、教会を優先させるということが、日本の習慣で生きている私にはどうしても信じられない。文化の違いと言ってしまえばそれっきりであるが。

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韓日合同音楽教育セミナー

韓日音楽教育セミナーが無事に終わり、ホテルに戻ってきた。
今回は、学会としても成果があったし、個人的にも新しい発見ができた。
韓国側の行き届いた配慮もあって、2日間気持ちよく過ごすことができた。

今日は今からおいしいものを食べて、明日同じ経路で帰国する。

Img_1310

開会式であいさつ

Min

韓国音楽教育学会 ミン・キョンフン会長と

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ソウル

昨日は関西空港・インチョン経由でソウル入り。パソコンが不調。ブログの更新が難しいかもしれない。

と書いたあと、原稿などを手直ししていたら、だんだんパソコンがサクサクしてきた。

インチョンには関空から1時間半で着いた。国内旅行のようなものである。ただ、ソウルは寒い。そして道が凍りついていてすべりやすい。まあ、寒さと道の滑りやすさには慣れているので、なんのことはない。

今日、明日と合同セミナーである。ちょっとだけ緊張している。だが、学会の国際交流委員長のF先生が一人でなにもかもやってくださったので、何の心配もない。

実は、韓国では電源のコンセントの企画が違うことを忘れていたのだ。部屋でパソコンが使えないと悩んでいたら、F先生が変換用のコネクターの予備を持っていて貸してくれた。もうこの先生には一生頭があがらない。

Photo

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マグネシウム文明論

障害者自立支援法めぐる訴訟で原告と国が法律を廃止することで合意。これは、政権交代の産物である。

3日から始まったNHKの大河ドラマ「龍馬伝」。昨日やっと1回目のビデオを観た。一言でいうと、

まっこと、良かったぜよ!

不覚にも涙が出てしまった。1年間の楽しみができた。

さて、昨日した紹介した本。
矢部孝・山路達也『マグネシウム文明論 -石油に代わる新エネルギー資源-』(PHP新書・720円+税)

矢部氏の話しをきいてライターの山路氏が書くという形式である。とてもわかりやすかったので、アッという間に読んでしまった(アッという間というのは読んだあとからの感想であって、本当にアッという間に読まれてしまっては、著者も張り合いがない)。

簡単に言えば、海水からマグネシウムを取り出し、太陽光からつくったレーザーで精錬して燃料として利用し、さらにそれによって生じた酸化マグネシウムを精錬するという「マグネシウム循環社会」を展望するというものであった。

これが実現すれば、いずれはやってくる石油の枯渇にも対応できるし、CO2の25%削減も夢のような話しではなくなると言う。そして読んでいると、それが実現しそうだと思えてくる。矢部氏は実現にむけて大学発のベンチャー企業を起こしている。今後をしっかり見守って行こうと思う。

また、「あとがき」もよかった。次のようなくだりがある。

新しいアイデアというものは、最初観た目はあまりよくありません。ですので、最初の研究は、けなそうと思うとネタはつきません。ところが、物まねの研究ですと、十分に多数の人の改良が加えられているので、きちんと整っています。

私たち学者が研究を発表する時、日本をリードしていると自負している大御所は、若い学者に意地悪な質問を浴びせ、それに答えられないことをほかの人に見せつけることで、自分が偉いということをアピールします。本人はその場ですむことですが、若い学者にとってのショックは大きく、その人の芽を摘んでしまいます。

どの世界も同じだ。同業者のみなさん。お互いに気をつけましょうね。

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いろいろ

授業再開。無事(?)に1日が終わった。

夜は、高校時代の同級生とくさ、十三で飲んだとよ。いっしょやったんは、M君とY君たい。M君はくさ、野球部のキャプテンばしよんなさったとよ。Y君は中学校からの同窓で、今はO大で働きよんしゃる。楽しかったばい。

大学から十三に行くまでの乗り換え駅の西宮北口駅の駅中の本屋で時間調整をする。時間調整をしているうちに本を購入してしまう。

『将棋世界』2月号(750円税込み)
米長会長が嫌いなのでこの雑誌は買わないことにしたのだが、渡辺竜王がブログで宣伝していたので、ついつい買ってしまった。

養老孟司・久石譲『耳で考える -脳は名曲を欲する』(角川Oneテーマ21 705円+税)
昨年本屋に並んだ頃から気になっていたのだが、なぜか手が出なかった。本の著者紹介で久石さんが同い年であることにはじめて気づいた。

内田樹『日本辺境論』(新潮新書・740円+税)
おとなりの先生の本。この先生の本はかなり読んだので、すらすら頭に入るようになってきた。ナナメヨミであっという間に読み終えた。

岡田尊司『アスペルガー症候群』(幻冬舎新書・800円+税)
アス君らしいのは、大学生にもいそうだ。はずかしいことだが、この分野のことを私は何も知らない。新聞で大きく宣伝されているので、入門書のつもりで読んでみることにする。

矢部孝・山路達也『マグネシウム文明論 -石油に代わる新エネルギー資源-』(PHP新書・720円+税)
ほとんど関心のない分野なのだが、著者の名前につられて買った。
矢部孝氏について次のような紹介がある。
「大阪大学助教授、群馬大学教授などを経て東京工業大学教授、工学博士。国際計算力学会連合理事、国際数値流体力学連合理事・・・・・・・・英国王立研究所創立二百周年記念講演を行った」
すごい研究者らしい。なぜこの名につられるかと言うと、この方は私の中学校・高校時代の一年先輩である。そして中学校では吹奏楽部の先輩で、私はこの方にトロンボーンを教えてもらったのだ。秀才の上、ハンサムなので私と同級の女子がよく騒いでいた(くやしかった)。同じ「孝」でもえらい違いだった。もう40年以上もお会いしていないし、お会いすることもないだろう。本は読んでみる。分からないかもしれないが。

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愛国心・立国心

『現代教育科学』1月号の特集は《「愛国心教育」教師に問われる責任》。年末から気になっていたのだが、冬休みに研究室に置いてきたために読めなかった。

そのうち四本の論文を読んだ。
■提言・「愛国心教育」教師に問われる責任
・「愛国心」ある国民の育成が教師の職責と使命・・・貝塚茂樹
・「自分の身に国を引き受ける」ことを教える・・・江間史明
・通常の「職務」として粛々として教えるべし・・・安藤豊
■戦後教育の中で「愛国心教育」が避けられた理由
・「放棄」の思想-「立国心」教育の必要性-・・・吉永潤

4人の著者は、かつての同僚あるいは研究仲間である(もう10年ほどお会いしていない)。志は相当違っては来たが、お名前が並ぶと懐かしさがこみあげてくる。たぶん年のせいだろう。お元気で何よりである。

このうちでは江間氏と吉永氏の論文が興味深い。

江間氏の論文についてはコメントしたいところが多々あるが、十分な材料を持ち合わせていない。ただ、印象だけを言えば、新教育基本法にもとづく現在の学校教育は、「国を引き受ける」態度を育てるのではなく、児童生徒にも教師にも「客分意識」ばかりを拡大する方向に動いているとしか思えない。

吉永氏は愛国心を「文化的愛国心」と「政治的愛国心」とに区別し、「政治的愛国心」を「立国心」と呼ぶ。そして「立国心の育成は、愛国心の育成とは明らかに別種・別次元の教育的働きかけを必要とする」と主張する。そして立国心教育について次のように言う。

立国とは(1)自国と他国の利害・主張の一致可能性が未知数という状況の中で、(2)自国の利害・主張の一方的な追求によっては達成できず、(3)またその一方的な放棄によっても達成することができない、という課題である(原文は丸数字)。

まず、学習者に、このような課題の困難性を直視させることが、立国心教育の第一歩である。しかし、戦後教育は、一貫して「放棄」の思想を推奨し、立国の課題に学習者を直面させることを回避し続けてきた。この問題姓に、多くの人が気づくべきである。

吉永氏は、「放棄」を、現民主党政権の外交政策を例にして、「日本の外交が他国(この場合、中国)の利益や主張と衝突しそうなファクターを、みずから先に次々と「放棄」すること」という意味で使っている。

私は基本的には吉永氏の主張に賛成する。しかし、なぜ愛国心教育の文脈の中で語られるのか。氏自身が「別種・別時限の教育的働きかけ」と述べているように、このような教育は「心」の教育ではなく、理解させるべき明確な内容の伴う「政治教育」でなければならないと私は考える。そして、政治教育としていえば、歴史の一局面において、「放棄」することも国家の選択肢の一つに含まれることも教える必要がある(この場合、「放棄」は吉永氏の言うような「思想」ではなく、「戦略」である。現民主党政権が、戦略的な見通しをもって「放棄」を選択しているようにも思えないが・・・)。実際に、「放棄」によって現在の日本がとりあえずは「平和」な状態で存在していることも事実である。もちろん、「放棄」を続けていくことが我が国が選択すべき唯一の道だと決めつけることには反対である。

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疲れた

昨日は、長時間議論をして、なまっていた脳みそを急に使った。疲れた。

それから、昨年から気になっていた『現代教育科学』1月号の特集記事をざあっと眺めた。かつての仲間がずらりと顔を並べていた。後で、少し批評を書く。

今週の予定
5日(火) 大学で1月の授業の準備、韓日合同音楽教育セミナーの準備、その他雑用
6日(水) 授業再開 夜は高校同窓のキャプテンM君たちと飲み
7日(木) 通常に授業
8日(金) 奏楽当番(結構負担になってきた)。授業。夕方から関空・仁川経由でソウルへ(11日に帰国)。

※関学の近くに「仁川(にがわ)」という駅があるが、無関係。この「仁川」は仁川(インチョン)空港のこと。念のため←ダレガマチガウカ!

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始動

昨晩は、三宮で仲間うちの新年会。こうやって飲むのは関西にきてはじめてである。
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話題は昔の失敗談ばかり(決して書けません)。
楽しかった。

Nomisugita

というわけで体も脳みそもなまってきたので、冬休みをはやめに切り上げて今日から始動する。午後から大学へ(昨年までは、4日に始動していたので普段どおりともいえる)。

 

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NHK 歴史ドラマ

新年も3日目である。冬休み11日目。あと残りは今日を入れて三日
本当にダラダラと過ごしている。もうダラダラ暮らすのには飽きてきた。やることもなくなってきたので明日から大学に出て仕事をしよう。私は家では仕事ができないシステムになっている。

NHKの二つの歴史ドラマが話題になっている。一つは、スペシャル・ドラマと銘打つ「坂の上の雲」、そしてもう一つは大河ドラマの「龍馬伝」である。「坂の上の雲」はすでに5回の放送があり、続きは今年の年末になるようだ。

私は、これらのドラマの出発点となる松山でも高知でも暮らしたことがあるので大いに関心がある。「坂の上の雲」では「・・・ぞなもし」が飛び交っている。「龍馬伝」では「・・・ぜよ」が飛び交うことになるだろう。

「坂の上の雲」は司馬遼太郎の小説(文庫本で18巻)を原作としている。原作では日露戦争を頂点とする明治期の上り坂の日本が肯定的に描かれている。テレビ・ドラマでは、ほぼこの原作に沿って、豪華な俳優陣、そして久石譲のすばらしい音楽もあって、小説以上にこの時代が明るく描かれている。はやく続きが観たい。

もちろん「坂の上の雲」のドラマ化に懸念する声もある。例えば、A誌は原作が明治の日本が朝鮮半島を併合した過程をも肯定的に描いていることを指摘し、このドラマを政治的に利用する人々が出てくることに対する警戒を呼びかけている。

私は、ドラマをおおいに楽しみたい。もちろん、このドラマを自分の明治時代像とするつもりはない。逆にこのドラマに対する警戒心ももっていない。ただ利用しよとする人が出てくるだろうなあとは思う。浅はかな政治家とか、校長先生とか(朝礼の素材になりそうなエピソードはたくさんある)。

私は「作品」として楽しもうと思っている。

歴史→加工→司馬の作品→加工→テレビ作品

○司馬は「歴史」という素材をどう加工したのか。
○テレビドラマのスタッフやキャストは「司馬作品」をどう加工したのか。

この加工を楽しむのである。もちろん加工された登場人物に大いに共感もする。敵意も抱く。「龍馬伝」(下敷きにする原作はないそうである。歴史を一気にテレビドラマに加工する)も同じである。福山の龍馬はまだピンと来ないが、福山起用も歴史の加工の一つである。

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筆の虎

口の虎は身を食む
口の虎身を食み、舌の剣命を断つ

「虎」に関係することわざを調べると結構ある。
上の二つは「言葉には十分気をつけなければならない」という意味がある。
私にとっては、「筆の虎身を食む」ということもできる。
(ついでに「大虎命を絶つ」も加えよう)

実は、今年もブログを続けるかどうか悩んだ。私だって少しは恐いと思うことがあるのだ。三流でも一応は物書き(研究者)のはしくれという自覚を持っているからだ。

多くの人がこのブログを読んでいる。読みたくなくても検索でヒットしてこのページにくる人もいる(アクセスログを調べればすぐわかる。そのような訪問者が最近非常に多い※※)。少なくとも三流以下ではない研究者が私のブログを読めば、すぐ次のようなことを看破するはずである。

(1)吉田は勉強不足である。
(2)吉田は知ったかぶりをする。
(3)吉田には思考力が欠けている。
(4)吉田には文章のセンスがない(ついでに音楽的センスもない)。
(5)吉田は悪人である。
(6)吉田は大酒飲みである。
(7)吉田はひねくれたりおちゃらけたりすることで上の欠点をごまかしている。

過去のブログを時々読み返すと、穴があったら入りたいほど恥ずかしいと思うことがある。本を1冊でも読めば、その時点で自分の考えは大きく変わる(たいていは、一番あとで読んだ本の著者の影響を強く受ける。今の私の音楽観は、二ノ宮和子に近い。古本屋で買った『のだめカンタービレ』を、昨日数巻まとめて読んだからである)。

同業者にブログをもっている人が少ない理由の一つは、時間がないことであろう。私も、このブログを書く時間を論文を書くに時間に費やせば、どれくらい業績があがっていただろうかと思うことがある(たぶんブログを書いてなくてもあがっていないと思うが)。しかし、同業者がブログを書かないのは、それ以上に研究者としての欠点が看破されるのを恐れてではないだろうか(不必要な隙をつくらないようにするのは研究者の要件の一つである)。

しかし、それでもブログを続けようと思う。次のような簡単な理由からである。

実は私は私というものが少しもわかっていない。私がどのような思想をもっているのかもわからない(最近はとくにわからなくなった)。何を人に伝えたいのかもわからない。しかし、とにかく文に書くことによって、他人(不特定多数)に何かを伝えようとすることによって、それが少しだけ見えてくる。そして私という人間も見えてくる。

繰り返す。

(1)吉田は勉強不足である。
(2)吉田は知ったかぶりをする。
(3)吉田には思考力が欠けている。
(4)吉田には文章のセンスがない(ついでに音楽的センスもない)。
(5)吉田は悪人である。
他人が私のブログを読むと、私のことを上のように思うだろう。他人がこのように思うだろうと思うことによって私は私自身を少しだけ自覚する。本当は、このブログを読んだ人が思うほど勉強不足ではないし、知ったかぶりをしているわけではないし、思考力が欠けているわけではないし、文章のセンスがないわけではないし、悪人であるわけでもないとも思う。しかし、少しだけそうだと自覚する。「少しだけ」というのはうぬぼれかもしれない。しかし、全く自覚しないよりも「少しだけ」でも自覚するほうがましである。

というわけで、今年もくだらないこと(私にとってはそれなりに意味があること)を書き続けよう。平たい言葉で言えばこれを「自己満足」という。

※あとで気がついた。「今年もブログを続けるどうか悩んだ」という文は二義的である。
「続けるかどうか悩んだ」とも読めるし「今年も悩んだ」とも読める。「今年も悩んだ」なら、「ブログを続けるかどうか、今年も悩んだ」とすればよい。「続けるかどうか悩んだ」のなら、
「ブ ログを今年も続けるかどうか悩んだ」とすればよい。しかし、よく考えると両方の意味がある。詳しく言えば次のとおりである。「毎年新年にはブログを続けるかどうか悩む。今年も新年を迎えて悩んだ」。それなら「ブログを続けるかどうか、今年も悩んだ」と同じではないかと思われるかもしれない。しかし微妙にちがうのだ。「今年も悩んだ」が「新年を迎えて悩んだ」と同義なのは、現在が新年の1月2日であるからなのだ。例えば、6月15日に「今年も悩んだ」と書けば意味が異なってくる(では、その意味が転換するのは何月何日頃かかといわれると非常に困る)。このように、言葉はその言葉が使われる状況によって意味まで異なってくるのであり、これを統語論、意味論に対する語用論的な云々・・・・・というふうに思考が拡散するのが私の悪い癖だということが自覚できるのである。

※※Google や Yahoo!なら、どのような検索語がヒットして私のブログにたどりついたかが、アクセスログからわかる。たとえば「のだめカンタービレ」を書いた日には「のだめ」「上野樹里」でヒットして来た人が多かった。ときたま「吉田孝+逮捕」でヒットして来る人もいた。「吉田孝」という人間のブログの記事に「逮捕」という言葉があれば当然ヒットする。しかし、「吉田孝+逮捕」で検索する人って一体・・・

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謹賀新年

あけましておめでとうございます。

今年は庚寅、とうとう一周しました。あっという間の一周でしたが、多くのかたとめぐりあい、ご迷惑をおかけしました。たいへんお世話になりました。

次の一周(一周は無理だと思いますが。たぶん、おそらく、きっと・・絶対)もよろしくお願い申し上げます。

2010年 元旦 
吉田孝

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