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愛国心・立国心

『現代教育科学』1月号の特集は《「愛国心教育」教師に問われる責任》。年末から気になっていたのだが、冬休みに研究室に置いてきたために読めなかった。

そのうち四本の論文を読んだ。
■提言・「愛国心教育」教師に問われる責任
・「愛国心」ある国民の育成が教師の職責と使命・・・貝塚茂樹
・「自分の身に国を引き受ける」ことを教える・・・江間史明
・通常の「職務」として粛々として教えるべし・・・安藤豊
■戦後教育の中で「愛国心教育」が避けられた理由
・「放棄」の思想-「立国心」教育の必要性-・・・吉永潤

4人の著者は、かつての同僚あるいは研究仲間である(もう10年ほどお会いしていない)。志は相当違っては来たが、お名前が並ぶと懐かしさがこみあげてくる。たぶん年のせいだろう。お元気で何よりである。

このうちでは江間氏と吉永氏の論文が興味深い。

江間氏の論文についてはコメントしたいところが多々あるが、十分な材料を持ち合わせていない。ただ、印象だけを言えば、新教育基本法にもとづく現在の学校教育は、「国を引き受ける」態度を育てるのではなく、児童生徒にも教師にも「客分意識」ばかりを拡大する方向に動いているとしか思えない。

吉永氏は愛国心を「文化的愛国心」と「政治的愛国心」とに区別し、「政治的愛国心」を「立国心」と呼ぶ。そして「立国心の育成は、愛国心の育成とは明らかに別種・別次元の教育的働きかけを必要とする」と主張する。そして立国心教育について次のように言う。

立国とは(1)自国と他国の利害・主張の一致可能性が未知数という状況の中で、(2)自国の利害・主張の一方的な追求によっては達成できず、(3)またその一方的な放棄によっても達成することができない、という課題である(原文は丸数字)。

まず、学習者に、このような課題の困難性を直視させることが、立国心教育の第一歩である。しかし、戦後教育は、一貫して「放棄」の思想を推奨し、立国の課題に学習者を直面させることを回避し続けてきた。この問題姓に、多くの人が気づくべきである。

吉永氏は、「放棄」を、現民主党政権の外交政策を例にして、「日本の外交が他国(この場合、中国)の利益や主張と衝突しそうなファクターを、みずから先に次々と「放棄」すること」という意味で使っている。

私は基本的には吉永氏の主張に賛成する。しかし、なぜ愛国心教育の文脈の中で語られるのか。氏自身が「別種・別時限の教育的働きかけ」と述べているように、このような教育は「心」の教育ではなく、理解させるべき明確な内容の伴う「政治教育」でなければならないと私は考える。そして、政治教育としていえば、歴史の一局面において、「放棄」することも国家の選択肢の一つに含まれることも教える必要がある(この場合、「放棄」は吉永氏の言うような「思想」ではなく、「戦略」である。現民主党政権が、戦略的な見通しをもって「放棄」を選択しているようにも思えないが・・・)。実際に、「放棄」によって現在の日本がとりあえずは「平和」な状態で存在していることも事実である。もちろん、「放棄」を続けていくことが我が国が選択すべき唯一の道だと決めつけることには反対である。

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