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いろいろ

今東京にいる。これで2月は3回目の上京である。忘れないうちにいろいろ書いておきたい。

昨日は新幹線で出てきたが、ほとんど寝ていて途中を覚えていない。東京で娘と会って少し飲みながら話す。少しおとなになった。おそすぎるのだが。

一昨日は浅田真央選手が銀メダル。まあ、しかたがないかなあ。これからまた4年間、青春をスケートにかけるのか、新しい道を見つけるのか。それは浅田選手が決めることだ。ソチをめざすようだが、私が助言できる立場なら、スケートから離れてみることをすすめる。

女子のスピードスケートのパシュートは銀メダル。100分の2秒差なんて、「アッ」という間よりも短い時間である。しかし、このわずかの差を埋めるのに、「アッ」という間の人の人生よりもっと長い時間かかるかもしれない。いや永久に埋めることのできない差なのかもしれない。オリンピックは100年に25回しかないのだ。

今朝は、ホテルのテレビ(BS3)でNHK交響楽団の演奏会を見る。ベートーヴェンのヴァイオリン協奏曲(私は勝手に「ティムパニ協奏曲」と呼んでいる)を堀米ゆず子さんが独奏していた。堀米さんもいつのまにかすっかりおばさん(失礼!)になっていた(自分の年を考えれば当然なのだが)。しかし、とても若々しい演奏だった。言い換えれば、荒い演奏であった(もっと言い換えれば「粗い」ということになるのだが、「荒い」と「粗い」ではニュアンスがだいぶ違うということに今気がついた。一応「荒い」ということにしておこう。コンサート・マスターが「俺のほうが上だぞ」というような顔をしているように見えたのは気のせいだろう)。しかし、ベートーヴェンの曲は荒さがあまり気にならない(堀米さんの演奏ではないが、リズムが1泊ずれても、ピッチが1/4音くらいずれても気にならない演奏がいくらでもでている)。

今日は、今から会議に出る。けっこう重要な会議なのである。

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走る意味

スポーツの話しばかりで恐縮である。

ランニングからだいぶ遠ざかっている。走りたいとは思うのだが、足が一歩でない。そこで、本でも読んで、気持ちだけも走ってみる。

金哲彦『はしる意味・命を救うランニング』(講談社現代新書・800円)

明日東京で会議。午前中からの会議なので今日から上京する。

金哲彦さんは、在日朝鮮人(この「朝鮮」は北朝鮮でも韓国でもなく、戦前から続いていた国籍。後に韓国籍)。早稲田大学出身で大学時代は箱根駅伝で活躍した。また社会人としてはリクルートの選手、コーチ、監督をつとめ、現在は市民ランナーの指導や解説にあたっている。私は、2003年のサロマウルトラ100キロマラソン(完走したんですよ)の時に、ゲストランナーとして挨拶されたのを覚えている。

金さんはいう。

体力があって時間があれば、誰でもいくらでも、速く走ったり遅く走ったり、走りながら大地を踏みしめて空気の匂いをかぎ、景色を眺めたりすることでしょう。走るということは、そんな人間の根源的な生きるという欲求を満たし、深い喜びをえられる行為なのです。

この言葉は実感できる。この言葉が実感できる自分がとてもうれしい。

しかし、この本からは日本のスポーツ界のいろいろな問題も見えてくる。金さんはそれを決して批判がましく書かないのだが、事実だとすればずいぶんひどい話だ。

例えば、早稲田大学の監督として有名だった故中村清監督は、金さんに国籍上の問題で干渉し、それを金さんが受け入れなかったことで、金さんを一線級の選手からはずし、相手にもしなくなったそうだ。金さんはそれでも「中村監督を尊敬している」というのだが、ずいぶんひどい話しである。

私は、この中村監督が生前にテレビのインタビューに答えたり、学生選手に話しをしているのをテレビで観た記憶があるのだが、ずいぶん横暴な人だなあという印象をもった記憶がある。そのときの印象は、金さんの言葉でも裏付けられた。

この本には、金さんの前にリクルートの監督であった小出義雄さんや選手であった高橋尚子さんのことも出てくる。こういうことがあったのかとは思うが、あまり後味のよい話しではない。

ただ金さんは、とても忍耐強く、そして強い意志をもった人だということがよくわかる。わたしももう一度フルマラソンを走りたい。そしてどこかで金さんにまたお目にかかりたい。

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負け犬根性(その2)

石原知事がまた○○なことを。本日「朝日」の朝刊

 「銅(メダル)を取って狂喜する、こんな馬鹿な国はないよ」。東京都の石原慎太郎知事は25日、バンクーバー五輪の日本選手の活躍に対する国内の反応について、報道陣にこう述べた。


 同日あった東京マラソン(28日開催)の関連式典のあいさつでも同五輪に触れ、「国家という重いものを背負わない人間が速く走れるわけがない、高く跳べるわけない。いい成績を出せるわけがない」と話した。

そうか、日本は馬鹿な国なんだ。石原知事はかつては自分に反対する「人間」を馬鹿よばわりしていたが、「国」を馬鹿よばわりしはじめたか。あるいは、銅で喜ぶ人間は国民じゃないといいたいのかな。

「国家という重いものを背負わない人間が速く走れるわけがない、高く跳べるわけない。いい成績を出せるわけがない」

こういう言葉をきくと、走れなくてもいいんじゃない・・、跳べなくてもいいんじゃない・・、いい成績だせなくてもいいじゃない・・、と思ってしまう。銅メダルで驚喜する人が多数派である国の国民でよかったと、胸をなでおろすのである。

負け犬根性は国を救う。

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関西学院大学教育学会

関西学院大学の教育学部の教員で組織する学会である。教育学部の発足と同時にこの学会も発足し、教員は会費を給与から天引きされている。国立大学等でいうところの学部紀要にあたるものは、この学会の学会誌として発行される。

学会だから当然研究大会もある。昨日は学会の研究大会にあたる「2009年度研究会」が開催された。記念すべき第1回大会だった。教育学会といっても狭い意味での「教育学」の学会ではない。教育学部にはいろいろな研究分野の教員がいるので、学会発表の内容も当然「何でもあり」になる。

6人の会員が発表があった。どの発表も分野の異なる会員にもわかりやすい発表だった。また、発表に対しても鋭い質問や意見があった。とても楽しかった(二次会もあったのだが、もっと楽しかった)。

大学教員は、教育者の集団でもあると同時に研究者の集団でもある。教授会など学内の諸会議では教育者としての議論はするが、研究者としての議論をすることがほとんどない。だから、おなじ職場で働く同僚でも、研究者としての顔はなかなか見えてこない。そのような意味で、こういった研究交流の場はとても重要である。

次は私も発表しよう・・・・と全員が思ったとしたら、それはそれで大変なことになるのだが。

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22日に東京で学会の任期最後の役員会があった。最後ということで、学会の事務局の方々から花束をいただいた(花束をもらったのは何十年ぶりだろう)。本来ならこちらがお礼をしなければならないのに。とても恐縮している。

新幹線で戻ったのだが、下は写真は23日夜の写真である。
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メーリング・リスト

メーリング・リスト(以下ML)はとても便利だ。私もいくつかのMLに参加している。

最近、学内のとあるグループのMLの管理をすることになった。管理をするのははじめてである。リストにアドレスを登録したり、アドレスを削除したりする。

管理者には、いろいろなことがわかる。例えば、登録者の中に自分のMLを転送設定している人がいる。転送先アドレスにトラブルがあったりすると、管理者のところにメールの不達通知が戻ってくる。その他、いろいろなトラブルに対処しなければならない。

MLは便利だが、逆に使い方を誤るとやっかいなことになる。グループの代表者がMLに安易に頼りすぎると、膨大な数のメールがやりとりされることになる。それが1日に数十通になることもある。これはもう、人が1日に処理できる文書量を超えている。その中に重要なメールがあってそれを見逃したことで責任が問われるのは酷である。大切なことが見逃されないように、節度のある使い方をしなければならない。このへんはルールをしっかり決めておく必要がある。

メーリング・リストの利用者一人ひとりが気をつけなければいけないこともある。利用していて気になることを書いておく。


まず、メーリング・リストで発せられる情報に対して、過剰に反応しないことである。例えば、30人も参加しているMLで発せれらた情報に、「ありがとうございました」といちいち返事をしている人がいる。全員が同じことをすると30通にもなる。一つひとつ開くのを面倒がっているうちに大切な情報を見逃すことになる。

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必要でない限り、前のメールの引用部分を削除すること。前のメールだけならよいのだが、ひどい場合、その前の前のメール、その前の前の前のメールというように、長い長いしっぽがついている場合もある。もっとひど場合、本文としっぽの区別がないようなメールもある。MLの場合はしっぽが長くなりやすいので、十分注意する必要がある。


メールを送信する前にアドレスを確認する習慣をつけておくこと。個人宛のメールをMLに出してしまうということはよくある。同じ職場の人に仕事の連絡を誤送信するくらいならまだよい。訂正のメールを出せばすむことだ。しかし、他の人の悪口を書いてそれがMLに掲載されてしまったという例もある。とくにMLに投稿された記事の内容について個人的にやりとりしているつもり(例えば「○○の奴がMLにバカなこと書いているね」という言った個人間のやりとり)が全体に流れるということはよくあることだ(関連する話題なのだがつじつまの合わないメールが投稿される)。また恋人や愛人に出したつもり(私には縁のない話しだ)でMLに送信してしまうとやっかいなことになる。笑い話ですめばよいのだが、まかり間違うと職を失うことにもなりかねない(そう言えば、掲示板に不倫相手へのラブレターを投稿した官僚がいた)。

MLはあなたの信用をそこなう恐れがあります。使いすぎには十分注意しましょう。

※間違ったふりをして、わざとMLに情報を流すという高等戦術もある。たいていは自己宣伝である。

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カーリング

軌跡的な試合だった。おやすみなさい。

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テレビ三昧

昨日(土曜)はテレビ三昧だった。

午前中は、藤田まこと追悼番組の「剣客商売・春の嵐」(フジ・関西)を観る。池波正太郎の原作である。

池波にはこの「剣客商売」と並んで、「仕掛人・藤枝梅安」「鬼平犯下帳」の3つのシリーズがあるが、私はこの「剣客商売」が一番好きである。ある時一気に読んで、秋山小兵衛・大治郎親子が好きになってしまったのだ。

ずっと昔、山形勲という悪役専門の役者が小兵衛(大治郎は加藤剛)を演じていたのをかすかに覚えているが、藤田まことのほうがよかった。また藤田まとにとっては中村主水よりも小兵衛のほうがはまっている。

午後からはオリンピックのカーリング(NHK)。はじめて一つの試合をはじめから終わりまで観た。

前に書いたように、私は負け犬観戦(13日の記事参照)と決めているのだが、カーリングはそうはいかない。この競技のおもしろさは、囲碁や将棋を観ている時と同じで、自分自身がああしようこうしようと考えてしまうところにある。まさに「氷上のチェス」である。観戦者が競技者とがこれほど一体になれるスポーツはあまりない。

チーム青森には予選リーグで残り全勝してぜひ準決勝・決勝まで進んでもらいたい(もちろんすすまなくても、応援は続ける)。

夜は、特別番組「樅の木は残った」(朝日)。山本周五郎の原作で伊達騒動を題材にしたもの。

「樅の木は残った」は30年前に大河ドラマになっている。この大河ドラマが悪役として語り継がれてきた仙台藩の家老・原田甲斐への評価を一変させた。事実、この山本周五郎の原作を史実だと思っている人もいるようだ

昨日は田村正和が主演。田村はもともと原田甲斐役は似合わないと思うのだが、さらに声が出なくなっていてかわいそうだった(もういい年だろう)。それに、最後の決着も説明不足で、わかりにくかった。このドラマでは悪役の伊達兵部役の笹野高史、酒井雅楽頭役の橋爪功の演技が軽すぎた。少しがっかりした。

※テレビの影響は大きい。なにせ、岩崎弥太郎と正岡子規を同一人事物だと思っている人もいるそうである。

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晩節を汚さず

読売新聞のHPに「五木寛之さん、直木賞選考委員を辞任の意向」という次のような記事がでていた。

作家の五木寛之さん(77)が、1978年から務める直木賞選考委員を辞任する意向を示していることが19日、分かった。

同日発行の日刊ゲンダイの連載エッセーで明らかにした。

五木さんは22日発売予定の「オール読物3月号」(文芸春秋刊)に佐々木譲さんの同賞受賞作「廃墟に乞(こ)う」の選評を書いたが、その中に「間違いがあった」ため責任を取るという。

同誌編集部によると、五木さんは誤って、佐々木さんの作品中にはない「破顔した」という表現について言及した。文芸春秋側では「見過ごしたのは我々のミス」として慰留している。

私は、五木寛之という作家の作品はあまり好きでない。最初に読んだ本が次の本である。

五木寛之『青年は荒野をめざす』(文春文庫)

この人の詩に加藤和彦が作曲しフォーククルセダーズが歌った同名の曲もある。今考えると何ということもない本だが、私の嫌いな「自分探し」の原点がここにある。

作品は好きでないが、上のようにすぐに自分の誤りを作家らしく文章に、選考委員を辞任するという態度は潔くてよい。自分の間違いを認めずいつまでもその地位にしがみいたり、自慢ばかりばかりしたりする老人は多い。この人などはその典型である。しかし、五木氏の場合は、そういった態度は作家としてのプライドが許さないのだろう。

人間、どんな場合にも引き際が大切だと感じる今日この頃。

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いろいろ

備忘録

17日夕~18日朝 東京にいた。雪で新幹線が少し遅れた。
夕方に研究発表を一つきいた。「手堅いなあ」が感想である。

オリンピックはまだ、メダルが二つ。
最初から負け犬根性で観ているので、二つでもうれしい。

スノーボード・・・ショーン・ホワイトも含めて、腰パンじゃなければもっとかっこういいいのにと思う。

昨日(18日)は珍しく、アルコールを一滴も入れず。

老人に振り回される。まあ、いいか。
自分にはあれほど自慢できる実績がないなあ。

原稿を出したら短すぎると叱られた。

長時間の音楽データをセクションに区切る方法がわかった(CDex)。

頼まれて、ホームページ一つリニューアルした。

今週末、もう一度上京する。

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悔恨

まだ、頭の中が混乱している。

大学院時代に公私(とくに私)にわたってお世話になった先生が亡くなったとの一報が携帯電話に入った。詳細がわからないので、広島大学にお勤めの同業者に連絡して、通夜・葬儀の時間場所を確認した(本日のA紙に訃報が出ていた)。

昨日は自分の大学の教授会だったのだが、それが終了してすぐに福山でのお通夜に直行した(本日がお別れの会だが、どうしても参列できない)。お通夜にも、たくさんの方が参列されていた。

奥様のお話によると、広大を定年退職後、別の大学で2年間教鞭をとられたあとそこも退職されて、これからいろいろなことをしていこうとしていた矢先の昨年4月に病気が発見され、闘病生活をされていたということだった。若い頃はとても激しい方だったという印象をもっているが、晩年(というには若すぎるが)はとても穏やかに過ごされていたようだ。

私は、先生のことがずっと気になっていたのだが、全国あちこちに動き回っているうちに、20年以上も不義理をしてしまった。一度、お会いしなければと思っていたら、こんなことになってしまった。ご病気であったことも知らなかった自分が情けない。悔恨の極みである。

自分の生き方を反省しなければならない

合掌

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正論は通じない

この土・日は一歩も家を出なかった。
オリンピック。メダル1個が遠い。

捕鯨反対グループ、シーシェパード日本の調査捕鯨船に対する妨害活動がエスカレートしている。明らかに海賊行為であるが、彼らがこれだけのことができるのは、「捕鯨反対」という国際世論がバックにあることは間違いない(どこかの国が資金も出しているのかもしれない)。怒るのは簡単だが、やっかいな問題だ。

捕鯨反対国のほとんどが欧米である。だから私たち日本人は「牛肉や豚肉を食べる国の人々が捕鯨に反対するのはおかしい」という。もちろんこれは正論である。しかし、この正論は通じないのである。

例えば、ある家庭でペットとしてブタとかニワトリを育てたとする。「トンちゃん」とか「コッコくん」として家族のように可愛がって育てたそのブタやニワトリを、大きくなったら食べることができるだろうか。たとえそれが不慮の事故で死んだのだとしても、私は食べられない。また子どものいる家庭では絶対にそんなことをしてはいけない。

推測だが、おそらく欧米人にとっては、すべての鯨がこのペットのような存在(それ以上かも知れない)なのではないか。だから、日本人の正論が通じないのである。これを一言でいえば文化の違いということになるのだろう。

教育界では「異文化理解」という言葉が流行しているいるようだが、音楽教育界に代表されるように、ほとんどがきれいごとに終わっているようだ。異文化というのは、音楽のように楽しいものとは限らない。この捕鯨問題一つとっても、このような不愉快極まりない文化もある(音楽ですら不愉快極まりないものがある。若者文化は、私にとって異文化だがほとんどが理解できない不愉快な存在である)。本当に異文化を理解すれば、鯨は食べられない(相手にだけ異文化理解を求めるのは不当である)。異文化理解には相当な覚悟が必要なのだ。

結局、「私たちは、あなたたちの文化を理解することはできない。だからあなたたちに干渉はしない。だからあなたたちも私たちを干渉しないでほしい」という姿勢しかない。

とはいえ、シーシェパードの攻撃では負傷者が出ている。「撃沈したらよい」という過激な意見も出ているが、挑発にのれば相手の思うツボである。屈辱的かもしれないが、外交努力しかない。政治はそのためにある(政権を担うというということは、屈辱に堪えることである)。

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腰パン

今日は2月14日。若い頃2月14日が日曜日だとホッとした気持ちになっていたのは、私だけだろうか。
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スノボの国母選手の腰パンがたたかれている。記者会見を見たが、あれは全然反省していない。おそらく、なぜたたかれているかも分かっていないのではないか。たたいているほうもあれがなぜ悪いかという理由をはっきりとは説明できないはずだ。腰パンがいかんなどという規定はないのだ。腰パンの問題は結構難問なのだ。

もちろん私はおじさんだから、腰パン見るとぶん殴ってやりたくなるほど嫌いだ。腰パンは90年代に高校生がはじめた格好だ。同じころ女子高校生の間でルーズソックがはやった。ただ、高校生独特のこのスタイルは以前は高校を卒業するまでだった。大学にルーズソックスをはいてくる女子学生はいなかった。ところが、腰パンのほうは大学生にまで延長した。大学院生にまで腰パンがいた。ホラ、君だよ!(大学教員の腰パンは今のところ見たことがない)。当然、我が関西学院大学教育学部の学生諸君の中にもたくさんいる。いかにも頭悪そうだ(実際に頭が悪いかどうかは問題ではない。しかし、一定の年齢以上の人たちからは、頭悪そうと思われるのは確かなのだ。そのことは教えることができる)。

国母選手は何も悪いことはしていない。しかし、大きなリスクを背負うことになった。オリンピックの成績が振るわなければ、もっと大きなバッシングが来る(4年前に成田童夢選手は行動が少し変わっていただけだったのだが、やはり負けると大きなバッシングを受けた)。おそらくメダルをとっても、あまりほめられることはない(私は取ればそれはそれで立派だと思うが)。東海大学の学生ということだが、いい就職先にもめぐまれないだろう。本人がそういう社会と徹底的に闘うつもりならそれでよい。しかし記者会見を見ている限りそういう自覚もなさそうだ。

若者が社会の古い習慣と闘おうとするのはよいことだ。もちろん、それに対しておじさんも徹底抗戦するつもりである。しかし、身だしなみごときでにエネルギーを使ってリスクを背負うのはばかげている*。人生、本気で闘わなければならないときが必ず来る。そのことはきちんと教育しておこうと思う。

*実は私は若いころは浮浪者に近いほどずぼらな格好をしていた。その延長で就職してもそれが直らず、年配の先生に顔をしかめられていた(後からわかった)。ただ、私たちの時代のずぼらと今の若者のずぼらは違う。私の時代のずぼらの原因は、金がなかった、あるいは服装になどまったく関心がなかったからだ**。今の若者は、わざわざ金をかけて意図的にずぼらをしている。

**服装や持ち物に金をかけたりや注意を向けたりするのは面倒だ。だからそれを競うゲームには今後一切参加しない。このことについてはいずれまた書く。

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負け犬根性

いよいよ冬期オリンピックがはじまる。

日本人選手には、ぜひメダルを取ってほしい。できるなら、メダルの色は金がよい。しかし、そううまくはいかない。負けることもある。

日本人選手は精神的に弱いともいわれる。ハングリー精神が足りないからだととも言われる。どこかの国では、負けた選手は容赦なくバッシングされる。

しかし、スポーツ選手がハングリー精神をエネルギーにしないですむ国の国民のほうが幸せだと思う。負けた選手をバッシングするより暖かく迎える国の国民のほうが幸せだと思う。だから、期待はするが、負けたっていいじゃないという気持ちももっておく

上のように、負けを前提に心の準備をする。これを「負け犬根性」と言う。負け犬でもいいじゃない!

※ちなみに、前回のトリノ・オリンピックのときにはどう書いていたか。
「吉田からのメッセージ14」から引用する。

06/2/17 (Fri)
トリノで開かれている冬季オリンピック
そろそろ大会1週間になるが、日本はまだメダルが取れていない。どうもいやな予感がする。
まあ、どうせ他人事だ・・・と思うことにする。

06/2/23 (Thu)

トリノ五輪、どうもいやな予感があたりそうな気がする。フィギュアスケートが残っているが、やはりいやな予感がする。まあ、それでもよい。
そういえば、カーリングはおもしろかった。なかなかスリルのあるゲームだ。・・チームの中に、我が弘前大学生がいるのでつい見てしまう。

06/2/24 (Fri)       
 
トリノ五輪、朝早くから起きてみてしまった。

荒川選手の演技を見ていると息がつまりそうだった。
悪い予感は見事はずれて、最後に金メダル。とにかくよかった。

昔から負け犬根性ですね。

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対数グラフ(その2)

昨日の続き

対数グラフをさらに見ていると、またおもしろいことに気がついた(私がおもしろいと思うことは他人はおもしろくないことが多いので、これ以上読んでいただく必要はない。しかし、読まなかった人は、おもしろくないと断言することもできない)。

「等倍だと等間隔」というのは、人生にもあてはまる。「年齢が等倍だと等感覚」と言い換えることができる。つまり「10歳→20歳」は「20歳→40歳」「40歳→80歳」と同じ長さに感じる。年を取るほど時間がはやく感じるという誰もが感じていることの説明がつくのである

グラフに書くと下のとおりである。

Life_2

縦軸は実年齢、横軸は感覚時間(縦と横を逆にしたほうがよいかもしれない)である。
私は、あつかましく見積もって80歳くらいで人生を終える予定である。この実年齢をそれ以上延長させようとするのは見苦しい。それよりも、これから20年間をいかに長く感じるようにするかを考えたい。つまり黒い線が赤い線になるように修正することだ(無理かもしれない)。

赤い線に修正する手段はいろいろある。若い頃のようにたくさんの冒険をしてみる、いいろいろな体験や読書をして自分の中に詰め込むというのもあるが、体力と脳力は実年齢通りなのでそうはいかない。一番効果的な方法は、自分の毎日を記録していくことである(このことは何度か書いた)。ブログはその手段の一つである。結局、ブログは自分のために書くのである。

※昨日紹介した、竹田氏の記事を再度読んでおどろいたのは、対数式がまったくでてこないことである。対数式を使わずに対数グラフの性質を見事に説明している。

※※私は若い人にお説教をしたことがほとんどない。それほど教えられることがないからだ。もし教えられることがあるとすれば一つだけである。「人生はアッという間だ!」

※※「退屈な時間を過ごす」というのも一つの手段であるような気がするが、退屈な時間は終わってみるとアッという間だ。このことは数日前に書いた。

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対数グラフ

神戸の蔵元がやっている酒心館という店に連れて行ってもらった。打ち合わせた時間の30分前についたので、試飲(リハーサル)をさせてもらった。あれも、これもと試飲しているうちに、半分ほどできあがってしまった。本番でもうまい日本酒をたらふく飲んだ。「明日死んでもいい」と思うほど幸せだった(もちろん昨日から見て明日である今日になってしまうと、「今日死んでもいい」とは少しも思わない。このように飲酒をしている時の思考は、極めて無責任であることが、自己分析によって明らかになった)。

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愛読誌の一つに『たのしい授業』(仮説社)がある。
2月号の次の記事がおもしろかった(みんな面白いのだが)。

竹田かずき「対数グラフを描いてみよう」

対数グラフというのは次のようなものだ。

Log

数字は私が打ったものだが、最初は 1 でなくても、0.1からはじめて、0.2、0.3 と続けてもよいし、10からはじめて、20、30、と続けてもよい。この対数グラフのしくみについて、竹田氏は次のようにわかりやすく説明している。

実はこの間隔は、「等倍ならば、等間隔」となっているのです。例えば「1→2」「2→4」「4→8」「8→16」はどれも「2倍」同士ですが、「1から2の長さ」「2から4の長さ」「8から16の長さ」は同じです。このグラフ用紙では「2倍なら、どこも等間隔」なのです。

それどころか「3倍同士」でも「5倍同士」でも同じなのです。

さて、この「等倍なら、等間隔となっている」という文を読んで、すぐ思い出したのが、音の高さと振動数の関係である。つまり「振動数が等倍なら、音程は等間隔」なのである。途中のややこしい説明は省略するが、音階の各音と振動数(平均律の場合)の関係をグラフにするれば、次のように一直線になるのである。

音律について説明するのはかなり難しいが、対数グラフを使えばわかりやすくなるかもしれない。少しゆっくり考えてみる。

Scale_log_3

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揚げ足

『現代教育科学』(明治図書)2月号特集は、「『伝統と文化』教育で日本文化を見直す」。

いろいろな主張が行われている。主張に対して言いたいことはある。しかし今回取り上げるのは、中点の多用についてである。

巻頭の梶田叡一氏の論文のタイトルは「伝統・文化の教育の復権と振興」。特集のタイトルは「伝統と文化」だったのが、「伝統・文化」に変わっている。また梶田氏は本文で「こうした動きの中で重要なポイントになっているのが、『文化的伝統の教育』である」と述べる。「伝統と文化」と「伝統・文化」と「文化的伝統」は同じなのか異なっているのか。こうなると梶田氏が「伝統」「文化」をどのような意味で使っているのかがわからなくなってくる。

毛勝雄氏の論文タイトルは「『漢字・かな』」自体が日本の伝統と文化である」。ところが、本文では「ようやく『伝統・文化』が示された」として、わざわざ括弧書きして中点を使っておられる。また、まとめの主張では「『漢字・ひらがな』こそ伝統文化である」になっている。「漢字・かな」が「漢字・ひらがな」になり、「伝統・文化」が今度は「伝統文化」になっている(カタカナは伝統・文化ではないのだろうか)。国語についての主張であるのに、これほど言葉の使い方がぶれてよいのだろうか(自分のことは棚に上げている)。

次の永添祥多氏の「「伝統と文化」の教育が学校にもたらす無限の可能性」では中点がもっと多用される。論文タイトルは「伝統と文化」になっているのに、本文では「伝統・文化」。そして「児童・生徒の変容」「達成感・成就感の獲得」「礼儀・マナーの習得」「能力・態度の育成」「教員の資質・能力の向上」「諸国家・諸民族との共生」とまるで中点のオンパレードである。

そもそもこの中点を使う習慣は日本語の伝統と文化に合ったものなのだろうか(私も無意識に多用する)。国語審議会の席上でも「審議会内部の委員会報告の中に中点が多くて読みにくい」という笑えない発言があったという。私も実は学校の国語では習った記憶がない。ワープロの産物ではないのだろうか。市毛氏は「教員志望者の卒論は万年筆で手書きさせよ」と主張しているのだが、市毛氏のこの原稿は手書きだったのかワープロだったのか。

自分のことはもう一度棚に上げるが、これだけ言葉の使い方がぶれると、主張そのものが信用できなくなる。そして門外漢のコモノから揚げ足を取られることになる。

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昨日は大学で小さな研究会と教授会。教授会はさっと終わった。
今日はある委員会。ところで関学では、委員会の責任者を「委員長」ではなく「コンビナー」と呼ぶ。副責任者は「サブ・コンビナー(こういうときに中点は便利である)」である。関学の伝統でもあり文化でもある。

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知ったかぶり

休日以外の朝は、たいてい「みのもんたの朝ズバ!」(TBS)を観ている。みのもんたの力のせいか、その日その日にあったゲストが出演するからだ。もう5年になるのだが、最近はさすがに鼻についてきた。あまりにも知ったかぶりが多すぎるからだ。

例えば、昨日は「最年少11歳6カ月でプロ棋士に 故藤沢名誉棋聖の孫」というニュースを取り上げていた。故藤沢名誉棋聖というのは破滅的な生き方をした囲碁の棋士で、今回プロ棋士になったのは、その孫娘である。

ところが、みのさん何を思ったか、とつぜんオセロの話しをはじめたのだ。「この人と一度オセロをやってみたい。オセロって勝ったと思っていても、最後に全部裏返しにされるんだよね」というようなことを言っていた。ボケたつもりかも知れないが、囲碁とオセロをいっしょにするとはひどい。藤沢さんがどのような人だったのか、11歳6カ月にどのような意味があるのかを視聴者に説明が視聴者がわかるように説明するなり解説者に振るなりするべきだったのだ。

結局、みのさんは下調べもしていないのだということを露呈した格好になった。過去にもこういうことは何度もあった。たとえ自分が全部知っていたとしても、そこは何も知らないふりをしてゲストにうまく話しをさせるのが司会者の役目である(そういえば、学会などでも発表者が発表を終わったあと、いろいろコメント付ける人がいる。自分がいかに偉いかを見せつけたいのだろう。あっ、また脱線しそうになった)。司会者が知識をひけらかしたり(昔、NHKにいた旧制弘前高校出身の司会者)、知ったかりをしたりしていると番組がつまらなくなる。

知ったぶりする人は学生にもいる。若いからどうしても背伸びしたがる気持ちはわかる。しかし知らないのに知ったかぶりする背伸びはやはりよくない。どこかで必ずガツンとやられる(実は、私もやられたことがある)。それでも若い人の場合は取り返しがつくからよい。老人が知ったかぶりすると、それはもう醜悪としか言いようがない。

みのさん、そろそろ引き際を考えたほうがよいのでは? 私も番組変えよう。

※本棚を探したら、次の二つの本が見つかった。
藤沢秀行『藤沢秀行囲碁教室3 中盤(原理編)』(平凡社・1961)
藤沢秀行『野垂れ死に』(新潮新書・2005)
前者は囲碁の技術書だが買った覚えがない。誰かにもらったのだと思う。後者は本人の自伝である。

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亀田大毅、世界チャンピオンに

兄弟で同じ階級のWBAとWBCのチャンピオン。世界チャンピオンが二人もいるのはおかしい。統一王座戦をすればよいと思うのは、私だけだろうか。

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飲み過ぎ・・・・

Nomisugita
と言いたいところだったが、今日は試験の最終日で監督が当たっている。
飲み過ぎられなかった。

この助動詞「られる」の使い方は間違っていないのだろうか?

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長くて短い90分

ずっと気になっていた人と連絡がとれた。これもインターネットのおかげである。今春、必ず松江に行く。

昨日は、入試の監督。90分を2回。1教室150人の受験生を7人で担当する。何事もなく無事に終わった。

ただ、この90分が長い。試験監督は途中で退出したり、監督中に読書したりすることを固く禁じられている(かつてはあまりいまほど厳しく言われなかった。文庫本を持ち込んだり、詰碁や詰将棋を解いたり、受験の問題を解いたり)。今はじっと受験生を注視していなければならない。

時計を何度も見る。先ほど見た時からだいぶ時間がたったような気がするのだが、2分そこそこしかたっていない。だんだん時計を見る頻度が高くなる。最後はこの時間は終わらないのではないだろうかという気になってくる。この長い時間をいかにはやくすすめるか。そのためにはどのような心の持ちようをすればよいのか、なとどつまらないことを考える。

それでも、やはり試験時間は終了する。そして終わってみると、あの長い時間はいったいどこに行ったのかと思えるほど、アッという間の出来事だったように感じる。

これからの90分は時間が止まっているように感じるほど長い。ところが終わってみるとアッという間の90分だった。そう言えば、現在の大学の講義の時間も90分である。大学生の気持ちがわからないでもない。

吉田先生の授業の90分は時間が止まっているように感じるほど退屈だ。ところが終わってみると内容がないのでアッという間90分だった。

みなさん、どうしますか?

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「頑張って」

県北の方に行って来たユ。食べ物もうまかったガニ。

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朝青龍が引退。

私は「品格」なんていう言葉は嫌いだ。そんなものは自分が努力すればよいのであって、他人に求めるものではない。横審の面々(とくにあのご婦人)や相撲協会の親方衆に「品格」があるか。本当に品格のある人は、「品格」という言葉を軽々しく口にしない。

ただ、今回の事件は刑事事件だから仕方ない。相撲協会が処分を下すべきだった。

私は、朝青龍がこのまま大横綱として成長するか、あるいは朝青龍を負かす日本人力士が現れるか、どちらかを期待していたのだがどちらもできなかった。こういう形でしか決着がつかなかったことが残念である。これからしばらくは、白鵬の時代が続くだろう。

ところで、スポーツ各紙の報道によると、朝青龍が暴力をふるった原因は、「横綱、頑張ってください」と言われて、「横綱に対して、頑張ってとは何だ!」と切れてしまったからだとか。

こんなことで暴力をふるうのは許されない。しかしこの「頑張れ」という言葉によって、言われた人がいつも頑張る気持ちになる訳ではないこと、あるいは逆効果になることがあることも知っておかなければならない。

第一は、病気などで絶望の淵にある人、あるいはこれ以上できないというところまで努力をしたのに成果が出ずに苦しみもがいている人に対しての「頑張れ」である。それで勇気づけられる人もいるかも知れないが、たいていは「これ以上何を頑張れというの」ということになる。その人にとっては無責任な言葉にしか聞こえない(精神疾患がある人には、「頑張れ」は禁句となっているそうだ)。

第二は、その道の第一人者、あるいはプロフェッショナルに対して、それよりも下位の人が「頑張ってください」と激励する場合である。演奏会を控えたピアニストに弟子が「先生、頑張ってください」というのは失礼である。学会発表の前に、学生から「発表頑張ってください」と言われたことがある。私はこれで切れたりはしないが、「ああ、この学生は学会発表を<頑張る>という言葉で表せるようなものだと考えているのだなあ」と悲しい気持ちになった。上の者に対して下の者が「頑張ってください」というのは言葉づかいとして誤っているのである。

第三は、バカの一つ覚えのように「頑張れ」を使う教師である。よい指導者は決して「頑張れ」を使わない。よい指導者はその時々の状況に応じて適切な助言をするのである。「頑張れ」の多い教師はプロではなくアマの教師である。例えば音楽の先生がつまづいている子どもに「頑張って練習しなさい」というのはほとんど無意味である。子どものつまづきの原因を見つけ、それを克服するための適切な言葉を見つけるのが教師の役割である。これは何の指導であろうと同じである。「頑張れ」と口に出す前に、他の言葉はないかを考えてみることが重要である。・・・といいつつ、私もやっぱり「頑張れ」を多用している。

「頑張れ」は安易な言葉である。だからすぐ口をついて出る。その安易な言葉が人を傷つけたり、気分を害したり、使った人の評価を下げたり、大騒動の引き金になったりすることがあることをいつも自覚しておくべきである。

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今日も入学試験が行われている。

受験生諸君、頑張れ ←無意味でしょ!

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ジャーマン式とバロック式(リコーダー)

今週は、大学は入試週間。私は5日(金)、7日(土)が当番になっている。当番でない日は、大学に行ってもしょうがない。じゃまになるだけだ。とわがままな決めつけをして、今日、明日は休んで遊びに行く。

相撲協会の理事選挙・・・またひどい実態が出てきた。

今日は節分。恵方巻とかいう巻き寿司を食べる習慣があるらしいが、そんな習慣を知ったのはここ10年くらいだ。だれが考え出した商売だろうか。

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さて、ある小学校の先生から、次のようなメールをいただいた。おもしろい話題なので、私の返事と合わせて転載する。個人情報が分からないように少し編集してある。    

今年度私は3年生を担当しています。

本校では、ソプラノリコーダーは以前からバロック式を使用しています。バロック式を使っていて、いつも思うのは、ファの運指が3年生の児童にとってとても難しいことです。

すぐ押さえれるようになる子もいますが、なかなかうまくかない子が多いのです。

子どもたちも苦労しているようです。毎日少しずつ取り組ませてもっと何回も経験させることも大事だと思いますが、この頃ジャーマン式を選択してもよいのではないかと考えるようになりました。

バロック式とジャーマン式とでは、音色がやはり違うのでしょうか。小学3年生からソプラノリコーダーを導入するには、どちらのリコーダーを選択すべきなんでしょうか。

私は、次のようにお返事をしておいた。

リコーダーになぜドイツ式(ジャーマン)とイギリス式(バロック)があるのかについては、次の本を読まれるようおすすめします。とても興味深く読める本です。

安達弘潮『リコーダー復興史の秘密-ドイツ式リコーダー誕生の舞台裏-』(音楽之友社)

絶版になっていますが、図書館などには置いてあると思います。

さて、ジャーマンかバロックかという問題です。中学校ではアルト・リコーダーの指導が行われます。アルトへの移行を考えるとバロックがよいと思っています。ジャーマンのアルトはかなり不自然です。

ジャーマンの一番の欠点は、上のF#の音が出にくいことです(出ないことはありませんが、一発ではなかなか決まりにくい音です)。ジャーマンだとB(シ)の音になります。ソプラノ・リコーダーの場合はト長調、アルト・リコーダーの場合はハ長調の音階が難しいことになります。したがって、中学校でジャーマン式アルト・リコーダーを使うことはほとんどありません。

リコーダーのうち、ソロ楽器として一人で楽しめるのはアルト・リコーダーです。せっかくリコーダーを学習するのなら、アルト・リコーダーにつなげるようにしたいものです。私は最初からバロックではじめるほうが良いと思います。

バロック式のソプラノ・リコーダーの一番の難点は、先生が言われるようにFの音です(別に難しくはないという先生もいらっしゃいます)。なぜ難点になるかというと、ハ長調の曲を取り上げるからです。ハ長調の曲を取り上げればFの音が出てきますからここで子どもが苦労するのは当たり前です。しかし、ト長調の曲は簡単です。F#は音も出やすい上に、指づかいも簡単です。

私は、ここでは発想を変えて、まずト長調の曲から入ることをおすすめします。ト長調だとFより先にF#を学習することになります。まずト長調の簡単な曲を集めて指導されたらいかがでしょうか。

ト長調というと難しそうですが、リコーダーの入門時にはまず左手だけの曲を演奏しますね。「メリーさんの羊」「ちょうちょう」「ぶんぶんぶん」。これらは五音だけで演奏できますが、この場合使う音は、GABCDです。F#は出てきませんが、ト長調の曲です(私はこれらの曲を「隠れト長調」と呼んでいます)。ト長調から入るというのは、理にかなっています。上の著者の安達先生もまずFを避けることをすすめています。ト長調でたくさんの曲を演奏できるようになれば、簡単にFに入れるはずです。(ト長調の曲を同じ運指でアルトで演奏すればハ長調になります)。

ただ一つ言えることは、子どもは楽器が好きになりさえすれば、どんな努力もいとわず自分でできるようになろうと努力します。だからFの音でも好きにさえなればへっちゃらです。また、かりに小学校でジャーマンを使っても、中学校で簡単にバロック式のアルトに乗り換えることができます。したがってあまり深刻に考えることもないと思います。ジャーマンかバロックかはあまり大きな問題ではありません。ただ、指導の順序を少し変える必要があるというくらいです。

リコーダーの授業で子どもがつまずくのは、それ以前のところにあるようです。左手の段階でつまずいたり、左右が逆になっていたり、右の親指の位置が決まっていなかったり。何よりも、子どもがいやいやながら吹いていたり・・・。先生の教室ではそんなことはないでしょうが。

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「日本人はバカになった」は本当か

昨日は相撲界のニュースが二つ

貴乃花親方が理事選挙に当選。いままでの選挙のやり方がひどすぎた。一門で票を振り分けるのなら、はじめから一門で代表選挙をすればよいのだ。貴乃花親方の立候補はこの悪習を破っただけで意味がある。

朝青龍問題。理事長の対応はまるで他人事のようだ。自分が相撲界の最高責任者であることをまったく自覚していない。
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新聞の広告欄を見て、また買ってしまった。『週刊現代』2・13号。

特集のタイトルは
「日本人はバカになった」は本当か

リード文を読めば、記事の内容はすぐわかる。

「漢字が読めない書けない。ことわざの意味は知らない」と例によって大学生のレベルからはじまり、「そして何よりも働かない。途上国からもバカにされる学力と国力」とバカが国民全体に蔓延していることを嘆く記事である。

この記事に書かれていることには、すべて心当たりがある。実際に深刻な問題だとも思う。しかし、同じ週刊誌の巻末の「Oh! モーサツ(妄撮)」と題したはグラビア記事は何だ。文章で説明するのも恥ずかしい。私も嫌いなほうではないが(?)、それにしてもひどい。こういう週刊誌を見た外国人は「やはり日本人は・・・」と思い、あの問題を連想するに違いない。

同じ週刊誌が、一方で日本人のバカさを嘆き、一方で日本人のバカさを増長させる記事を掲載する。出版社系の四大週刊誌の中でも、ここが一番ひどい。この週刊誌をわざわざ買う人間の知的レベルも相当ひどい?

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芥川也寸志

昨年末に「松本清張生誕100年」の一環として放映された映画「疑惑」(松竹,1982)を観る。桃井かおり、岩下志摩主演、野村芳太郎監督である。何度観ても面白いのだが、芥川也寸志の音楽がよい。

芥川也寸志はもちろんあの芥川龍之介の三男である。映画音楽、とくに野村芳太郎作品の音楽をかなりたくさん手がけている。やはり松本清張の作品である「砂の器」も芥川也寸志が音楽をつけている。「砂の器」は主人公が作曲家なので、芥川がの作品がそのまま主人公の作品ということになる(あの映画は一度音楽に集中して観ても面白い)。

芥川也寸志と言えば、私にとって大切な本がある。

芥川也寸志『音楽の基礎』(岩波新書・1971)

楽典書の中でもこれほど廉価でよい本はなかなか見あたらない。学生の頃に発売されたのだが、それ以来何度も何度も読んだ(ページがはずれて何度も買い直した)。ゼミの学生にも読ませた。

音楽を少しかじった人には分かりきった内容がほとんである。しかしそれでも新しい発見があるし、読むのに骨折れる箇所もある。音楽の勉強(とくに西洋音楽)を志すなら、一度は読んでおくべきだ。

研究をすすめる中でいくつか問題点にも気づいた。しかし、それでも名著である。

補足 現在、新品は品切れである(重版中)。Amazon古本屋では入手できる。

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