正論は通じない
この土・日は一歩も家を出なかった。
オリンピック。メダル1個が遠い。
捕鯨反対グループ、シーシェパード日本の調査捕鯨船に対する妨害活動がエスカレートしている。明らかに海賊行為であるが、彼らがこれだけのことができるのは、「捕鯨反対」という国際世論がバックにあることは間違いない(どこかの国が資金も出しているのかもしれない)。怒るのは簡単だが、やっかいな問題だ。
捕鯨反対国のほとんどが欧米である。だから私たち日本人は「牛肉や豚肉を食べる国の人々が捕鯨に反対するのはおかしい」という。もちろんこれは正論である。しかし、この正論は通じないのである。
例えば、ある家庭でペットとしてブタとかニワトリを育てたとする。「トンちゃん」とか「コッコくん」として家族のように可愛がって育てたそのブタやニワトリを、大きくなったら食べることができるだろうか。たとえそれが不慮の事故で死んだのだとしても、私は食べられない。また子どものいる家庭では絶対にそんなことをしてはいけない。
推測だが、おそらく欧米人にとっては、すべての鯨がこのペットのような存在(それ以上かも知れない)なのではないか。だから、日本人の正論が通じないのである。これを一言でいえば文化の違いということになるのだろう。
教育界では「異文化理解」という言葉が流行しているいるようだが、音楽教育界に代表されるように、ほとんどがきれいごとに終わっているようだ。異文化というのは、音楽のように楽しいものとは限らない。この捕鯨問題一つとっても、このような不愉快極まりない文化もある(音楽ですら不愉快極まりないものがある。若者文化は、私にとって異文化だがほとんどが理解できない不愉快な存在である)。本当に異文化を理解すれば、鯨は食べられない(相手にだけ異文化理解を求めるのは不当である)。異文化理解には相当な覚悟が必要なのだ。
結局、「私たちは、あなたたちの文化を理解することはできない。だからあなたたちに干渉はしない。だからあなたたちも私たちを干渉しないでほしい」という姿勢しかない。
とはいえ、シーシェパードの攻撃では負傷者が出ている。「撃沈したらよい」という過激な意見も出ているが、挑発にのれば相手の思うツボである。屈辱的かもしれないが、外交努力しかない。政治はそのためにある(政権を担うというということは、屈辱に堪えることである)。
エバコスです。
私が子供の頃は、庭で飼っていた鶏を、食べたりしていましたよね。
コッコちゃんとか、名前は付けませんが。
それから「豚がいた教室」という映画は見ましたか?
小学6年生が、クラスで豚を飼うという内容です。
私にとって「命」という事を考えるとても大きな二つのエピソードでした。
投稿: ebakos | 2010年2月15日 (月) 11時40分
ebakos さん
私たちが子どもの頃庭で飼っていた鶏は食べるために買っていました。
私は、映画は観ていませんが、これを教育実践とすることには断固反対します。
フィクションとして議論するのならかまいませんが。
投稿: 吉田孝 | 2010年2月15日 (月) 12時11分
私たち日本人?日本人の正論?って、
クジラの肉など食べたことの無い私は
日本人では無いという意味でしょうか
51年間食べたこともなければ
食べたいと思った事もありません
そんなに日本人はクジラが食べたいと
願っているんでしょうか?
調査捕鯨?
必要無いように思えるのですが
おかしいでしょうかね?
日本人の一部の正論
一部の日本人
と言う方が正しいような気がするのは
私だけでしょうか?
そんなに日本人のみなさんは
くじらを食べたいんでしょうか?
よくわかりません><;
投稿: くじらの肉? | 2010年2月15日 (月) 12時28分
私はオーストラリアのレストランでカンガルーを食べたことがあります。
牧場で食用に飼っているとのことでしたが,かたくてまずかったです。
残念ながら,クジラのほうがうまいですね。
投稿: 北山敦康 | 2010年2月15日 (月) 12時36分
こりゃあ、一本採られましたね。はい、ごめんなさい。
「私たち日本人」を「捕鯨を当然のことと考えて来た日本人」ということにしましょう。
投稿: 吉田孝 | 2010年2月15日 (月) 12時46分