年度末
今日は年度末である。背中に抱えていた荷物(あまり重くないが)がいくつか減る。それはとてもうれしい。新年度は重たい荷物は他人にお願いして、我が儘に生きて行くつもりである。
日 | 月 | 火 | 水 | 木 | 金 | 土 |
---|---|---|---|---|---|---|
1 | 2 | 3 | 4 | |||
5 | 6 | 7 | 8 | 9 | 10 | 11 |
12 | 13 | 14 | 15 | 16 | 17 | 18 |
19 | 20 | 21 | 22 | 23 | 24 | 25 |
26 | 27 | 28 | 29 | 30 | 31 |
« 2010年2月 | トップページ | 2010年4月 »
今日は年度末である。背中に抱えていた荷物(あまり重くないが)がいくつか減る。それはとてもうれしい。新年度は重たい荷物は他人にお願いして、我が儘に生きて行くつもりである。
完全休業の間に、こんなニュースもあった。私が言うのも、おかしいかもしれないが、腹が立つ。
2004年度に法人化された国立大学の研究や教育などを6年間で評価して、各大学の10年度以降の予算に差をつける初の「運営費交付金の評価反映分」の内訳が24日わかった。最も評価が高かったのは奈良先端科学技術大学院大で、低かったのは弘前大だった。(25日「朝日」)
大学の実績を数値化する。馬鹿げたことだ。たとえて言えば、一人一人の人間をその人の稼ぎによって判断しランクづけるようなものである。弘前大学には特徴ある研究をしている研究者がいくらでもいる。教育学部の教員養成教育は全国でも先端を走っている。それらが、くだらない数値によって覆い隠され、全国最低という印象だけが残る。学生の教育にとってもよろしくない。
弘前大学はすぐに反論したようだ。当然だが、その前にこんな制度がおかしいのである。民主党政権は、小泉政権の残したこの分野の政策も見直すべきなのである。
突然だが(何故だろう?)、日韓関係について考えた。
今年は、「韓国併合」100年である。併合前は、条約によって日本は韓国(大韓帝国)を保護国としていたが、1909年に韓国統監府の統監であった伊藤博文が、安重根によって暗殺された。この安重根が処刑されたのが1910年3月26日であった。そして同じ年の8月22日に韓国が丙午併合された。
私には、この伊藤博文暗殺事件に関しては、高校の「日本史」教科書程度の知識しかない。その知識では、伊藤博文は韓国を保護国のまま現状維持させるという立場をとっていたのが、暗殺事件によって併合論が強まり、韓国併合が一気に進んだというようなものである。
もちろんいろいろな説がある。伊藤の論と併合論の違いは間接支配と直接支配の違い程度のものだったという説、事件があろうとなかろうと時間の問題で韓国併合は行われていただろうという説、安重根は日韓関係について事実誤認があったとする説。日韓併合そのものを美化する説。昨日枝野行政刷相は次のように述べたという(朝日新聞今日付朝刊)。
日本は明治維新ができ、近代化したが、中国や朝鮮半島は近代化できなかった。日本は植民地を広げる側で、中国や朝鮮半島は植民地として侵略される側になったというのは、歴史的な必然だった。
日韓の歴史についても、高校「日本史」程度の知識しかない私には、各説にたいして判断しようがない。
私たちは、韓国併合の歴史をついつい忘れてしまう。観光地に行けば、韓国の人々はにこにこしながら私たちを迎えてくれる。1月には韓日合同音楽教育ゼミナールが開催され私も参加したが、学問の世界や、民間レベルでは友好的なつきあいができている。
しかし、ソウルでは安重根は「義士」と呼ばれ、26日には処刑100年を記念する政府主催の記念式典が行われている。この日の夜の韓国のテレビ・ニュースでは「アン・ジュングン(안중근)」という音を繰り返し耳にした(他はまったくわからなかった)。中国旅順(処刑された場所)に昨年できた展示館(処刑場まで再現している)やこの日のイベントの様子が映像として流れていた。韓国政府は、安重根の遺骨が行方不明になっているので、遺骨発見に努力するそうである。その際、日本政府にも協力を呼びかけるという。日本政府はどう対処するのか。
3日間の完全休業をして気づいたのは、私がいかにノー天気で無知かということ。死ぬまでにどれだけ取り返せるのだろう。
3日間完全休業(27日まで)
携帯を携帯しません。携帯メールも通じません。
職場のアドレス、ホームページに掲載のアドレスにはメール届きます。
ブログの更新は気が向いたらします。
文部科学省のホームページに、学習指導要領の仮訳が掲載されている。音楽の仮訳も掲載されている。困難な翻訳を担当された方には敬意を表するが、私はこの仮訳にいくつかの疑問があった。最大の疑問は、「音楽づくり」の訳である。このブログで次のように書いた。
今回の学習指導要領から、従前の「創作」が「音楽づくり」という名称に変わった。これ自体はわかりやすくてよいのだが、少し危惧していることがあった。それは、次のようなことである。
「創造的音楽学習」(Creative Music Making)」の主張をしている人たちの間では、"Music Maiking" (直訳すれば「音楽づくり」)とは、音楽表現全体(つまり歌うことや楽器を演奏することを含む)を表し、これまでの「創作」にあたるもの"Creative Music Making"である。だから、「音楽づくり」と言った場合広い意味でのつまり歌うことや楽器を演奏すること全般を含む表現活動全体を表すことばと、混同されやすいのではないか。
果たして仮訳では、上の目標に見られるように、「表現と鑑賞」を通しては、"through music-making and appraising" と訳された。では、「音楽づくり」はどうなったか。"createve music making"である。各学年の内容の一部は次の通りである。A 表現
(3)音楽づくりの活動を通して、次の事項を指導する。
(4)表現教材は次に示すものを取り扱う。これが、仮訳では次のようになっている。
(3) [Creative Music Making]
The following should be taught through creative music making.
(4) The teaching materials for music-making should contain the following整理すると次のようになる。
表現 Music-Making
音楽づくり Creative Music Making一般には理解されにくいだろう。これは、特殊な用語法ではないだろうか。Music-Makingが「表現」という広い意味をさす言葉だとすれば、「創作」を「音楽づくり」とするような紛らわしい使い方をするべきでなかった。
この疑問は、今でも抱き続けている。
さて、最新の『音楽教育ジャーナル』vol.7 no.2 に、坪能由紀子氏が《「音楽づくり」に見る器楽教育の変容》という論文を発表されている。ここで「 」でくくられた「音楽づくり」はどのような意味だろうか。坪能氏は冒頭でいう。
子どもが身の回りの様々なものを使って自由に音楽をつくる活動、すなわち「音楽づくり」は、筆者が音楽教育に関わるようになってから変わらず追い求めてきたテーマである。
坪能氏は、創造的音楽学習研究の第一人者である。氏の研究実績から見れば、この「音楽づくり」は"Creative Music Making"の意味であろう。つまり、英語では "Creative Music Making" とわざわざ "creative" をつけて言うのに、日本語ではただの「音楽づくり」になってしまう。つまり、英語の"Music Making"は音楽の表現活動全体を言い、日本の「音楽づくり」はクリエイティブな音楽活動という限定的な意味になってしまう。
では、日常的には日本語の「音楽づくり」は、創造的な音楽活動だけをさすのだろうか。そんなことはない。合唱をしたり器楽合奏をしたりする場合でも「みんなで力を合わせて、よい音楽づくりをしましょう」というような表現をするし、こんな使いかたをしても少しも不自然ではない。つまり「音楽づくり」は、表現活動全体をあらわすことばとしても使えるのである。坪能氏が論文の中で「音楽づくり」とわざわざ括弧付きにされているのも、音楽づくりを日常的用語としてではなく学習指導要領に出てくる特別な用語として使っておられるからであろう。
しかし、"Creative Music Making" は、直訳すれば、「創造的に音楽を作ること」。つまり「創作」ということになる。「創作」で少しも構わなかったのである。
私は、「音楽づくり」という命名は失敗だったと思っている。もちろん私にも責任がある。
最高の日。今から上京。日帰りする。
昨日の続き
試合後の野々村監督の発言が問題になっている。朝日新聞の朝刊の記事
第82回選抜高校野球大会に出場している開星高校(島根)の野々村直通監督(58)が22日、21世紀枠で出場した向陽高校(和歌山)との試合に敗れた後、「21世紀枠に負けたことは末代までの恥です」などと発言した。日本高校野球連盟は「事実を確認したい」としている。
野々村監督は試合後のインタビューで、「選手は一生懸命やりました」とした上で、「もう立ち上がれない。私の指導力が失格。やめたい。こんな恥をかくことは二度としたくない」などと語った。
開星高の大多和聡宏校長は22日夜、「私から(監督に)事実を確認し、真意を確かめたい」と話した。野々村監督は同夜、朝日新聞の取材に「向陽を 侮辱するつもりはまったくなかった。中国地区代表として他校の気持ちを背負って出てきている学校がこんなところで負けちゃいかんと、悔しさや情けないとい う気持ちから言った。相手校に不快な思いをさせたなら、おわびします」と話した。
この発言、一選手ならまだしも、真意はどうあれ教育者たる監督の発言としては軽率すぎる。厳しく言えば、監督のこのような態度が選手の力みを生み、昨日の敗戦につながったのかもしれない。実は、2006年の夏の大会の時に日記でこの監督のことを書いていた。
06/8/9 (Wed)
高校野球の話題。
私は、教育学部中学校教員養成課程の卒業である。私と同じ年にこの中学校教員養成課程を卒業した男の話。
いつも鋭い目つきで眉毛のつりあがったいかにも893という感じの男がいた。そういう顔つきだったのかわざとそうしていたのかは知らない。そして、いつも耳に鉛筆をはさんでいた。なんとなく目立つので気になっていた。
そのうち話す機会ができた。わかったのは、美術専攻らしいこと。そして野球部のキャプテンだと言うこと。
話してみるとなかなか面白い。内容は忘れたが野球の話は面白かった。
この男、卒業するとすぐに県内の高校に美術の教師として就職し、野球部の監督になった。数年後には春の甲子園に出場していた。指導力もあったということだろう。「画伯監督」ということで、ちょっと話題にもなった。
その後、しばらく名前を聞かなかったのだが、一昨日高校野球をテレビを見たら、その名前が聞こえる。隣の県にある高校で監督をしていたのである。
ちらちらと顔がでるが、若いころのあの顔はすっかり影をひそめ、年輪を重ねたという渋い顔をしていた。
いっしょうけんめい応援したのだが、敗れてしまった。調べてみると何度か、この学校の監督して甲子園に出場しているらしい。
また、出てくる機会があるだろう。出てきたら今度は、ぜひいいところまで行ってほしい。
http://takashiyoshida.com/cgi-bin/mes/kakolog16.html
ひょっとしたら、あまり変わっていなかったのかもしれない。
人間なかなか成長しませんね。自分もだけど。
.
選抜高校野球が始まっている。私は「21世紀枠」などという特別扱いは好きじゃない。「文武両道」という言葉も好きじゃない。両道じゃなくてもいいじゃない!
その21世紀枠の一校である向陽高校(和歌山)と中国地方大会優勝の開星高校(島根)の試合があった。私は、野々村直通監督(1974年・広島大学教育学部中学校教員養成課程美術専攻出身)ひきいる開星をひそかに応援していたのだが負けた。選手には可哀想な言い方だが、決して打てないということはない相手投手におちょくられたという感じ。
暑さ寒さも彼岸まで。今日は春分の日である。墓参り・・と言っても墓がない。
春分の日と言うと子どもの頃次のようなことを教えられた。
・太陽が真東から昇り真西に沈む
・昼と夜の時間が同じ
なぜ、そうなるのか。
子どもの頃は、太陽と地球の位置関係や角度などを頭の中で想像し、すぐ自分を納得させることができた。今は無理だ。先ほどからけん玉の玉をぶらさげてくるくる回しながら考えているのだが、理屈がさっぱりわからない。
年をとると記憶力もさることながら、想像力が落ちるようだ。それでも静止したものについては、頭の中に像を描くことはできるのだが、時間の経過とともに変化していくものを正確に描くことが難しいようである。例えば、天体の動き、将棋の数手先の局面、展開図を組み立てた時の図形などである。
音楽作品一曲を頭の中で描くのも難しい。例えば、有名な交響曲(例えばモーツァルトの40番)をはじめからたどろうとするのだが、同じところをくるくるまわって楽章の最後までたどりつかない。昔好きだったフォークソングのメロディーをたどると、いつのまにか別の歌とこんがらがってしまう。
脳力の低下は想像力にあらわれる。
と彼岸の日にじじいがヒガム
今の法律では、どちらか一方の姓を選ぶことができる訳だから、どちらかにするかは二人の問題である。個人的には、女性が自分の旧姓を名乗りたいと言ったら、それを受容するのが男の度量であると思っている。自分の時はそんなことは話題にも上らなかったが、長男が結婚する時には相手の両親に「二人が望むなら、長男が姓を変えてもかまいませんよ」と伝えた(長男の相手がそれを望まなかった)。
私は、「吉田」姓などどうでもよいことだと思っている。少し脱線するが、「孝」という漢字は嫌いだが、「たかし」という響きは好きだ。「孝」などという名をつける親は一体どんな感覚をしているのだろう。顔も見たくない。では、どの「たかし」がよいのだろうと考えると適当な字がみあたらない。どうせなら「タカシ」がよいかもしれない。これからはペンネームは「吉田タカシ」にしようかな。いやそれともいっそのこと「よしだタカシ」がいいかも。いや「よしダタカシ」のほうがいかな。「よしダタカシ」だとあの「つぼイノリオ」のマネになってしまうなあ。
みなさん、つぼイノリオさんを知っていますか。一番有名な歌は「金太の大冒険」だ。
♪ 金太 負けるな、金太負けるな、金太負けるな~~~~~~~♪
私が好きなのは、「吉田松陰物語」だ。
吉田松陰が処刑された時の弟子たちの歌
♪ 松陰 死んじゃいや やり遂げてほしかった ♪
おっと脱線しすぎた。話しはえーーっと。夫婦別姓法案のことでしたね。
そもそも、現在の制度としての結婚は、二人が親の戸籍を離れて新しい籍をつくることである。したがって、どちらかが一方の籍に入ることではない(「入籍」という言葉は適切ではないと思っているのだが)。たとえ、妻の旧姓を名乗ったとしても、それは新しい籍の名称を妻の旧姓とすることであって、「養子」にはあたらない。このような意味では、現在の制度は「親の籍から離れて二人で新しい籍をつくる」というとても革新的な制度である。
別姓にしたい人は私の知らない事情があるのだろうし、別姓でなければならなくなるものではないので、私はあえて反対しない(国会内の反対派の議論にはあまり期待できない)。しかし、旧姓にこだわって相手の姓をいやがるほうがよほど保守的だという感覚はある。権力の力を借りて同姓になることを拒否しようとしていると言うこともできる(籍をつくるという制度に反対するのなら、それはそれで主張として道理は通っていると思うが)。
私の生きている研究者の世界では、姓が変わると不利だという説もあるが、本当にそうだろうか。ペンネームとして旧姓を使って論文を書くことは許されている。一方、結婚して姓を変え本名で書く人もいる。当然著者名が変わることになるが、私の知る限りそれで不利になったという話しは聞いたことがない。ただ、結婚によって女性研究者が不利になるという例は残念ながらある。しかしそのことと姓とはまったく別の問題である。
3月は、学校関係者にとっては年度末。毎年バタバタしている(昨年は引っ越しだった)のだが、今年はゆっくりしている。たぶん私が現在の職場では新参者だからだ。数年に一度職場を時々変えるのはとても良いことである・・・ごめんね。
23日に個人的にとても大きな行事があるのだが、それが終わるとしばらくはゆっくりできる。旅に出ようかと思っている。
旅から帰ったら、ホームページのデザインを一新する予定。
子どもの頃から時刻表を眺めるのが好きだった。
3月は、JRのダイヤの大幅な改訂があるので時刻表を必ず買う。眠れないときに眺める。
3月号をざっと眺めて思うのは、高速化すすみ日本全体は狭くなったが、地方と地方を結ぶ交通が不便になっていく一方だということである。
また、今回は寝台列車・夜行列車が2往復廃止された(今回は、上野-金沢間の寝台特急「北陸」と急行「能登」)。
寝台の定期列車として残ったのは、次の4往復。
日本海 大阪-青森
北斗星 上野-札幌
あけぼの 上野-青森(上越線、羽越線経由)
サンライズ瀬戸・出雲(東京-高松・出雲市)
※サンライズ瀬戸と出雲は岡山まで連結
あけぼのには数え切れないほど乗った。日本海、北斗星にも何度か乗った。
瀬戸号には、瀬戸大橋線の開通前、宇野-東京間を走っていたときに何度も乗った。宇高連絡船を降りるとホームで待っているのがうれしかった。これらの寝台もあまり長くないだろう。もう一度乗れる機会があればよいのだが。私の命と寝台列車の命。どちらが長いだろうか(どちらが先でも寂しい)。
今年末には、東北新幹線の青森開通、来年3月には九州新幹線の全線開通が予想されている。青森から鹿児島まで10時間くらいで移動できることになる。しかし、新幹線が開通すれば、在来線は第三セクターで運営され(今の所、博多-八代間は鹿児島本線としてJRが運営、青森は第三セクター化の予定)その地方はますます落ち込むことになるだろう。
ただ、高速道路の整備で、バス路線がけっこう便利になっている。大阪、神戸発着のバスは、北は山形・仙台へ、四国方面へは・宇和島・高知、九州方面は鹿児島までと便利なバスが出ていて、運賃はだいたいJRの鈍行並である。
バスでもあちこち旅行してみたいと思っている。
朝から少し不快である。
給与以外の収入が少しだけあったので、わずかだが追加の税金を自宅近くの銀行の窓口に納付に行った。すると窓口で納付票を渡してくれない。窓口の係は「納付票はお客様が持ってきた納付票を書き損じた場合だけお渡しすることになっています」と言う。そんなばかな!税務署からは、金融機関に納付票があり、それに住所・氏名と納付額を書けば良いと言われている。行く前に確かめたのだ。そのことを説明したが、結局なんだかんだと理由をつけて、納付させようとしない。上司に一度相談にしに行ったが、上司の返事もノーだったようだ。押し問答すると、大声を出して怒鳴る衝動を抑えられなくなるので、静かに引き下がった。
結局、もう一度税務署に確認して、職場近くの郵便局で納付することにしたのだが、今度はこの郵便局と税務署の管轄がちがう。納付書に印刷してある税務署名と税務署番号が違うので、もういちど私の住所の税務署にもう電話し、税務署番号等を確認して、やっと納付することできた(国民としての義務を果たした。今日は納付期限だった)。郵便局の方は、丁寧に対応してくれた。
上司に相談したのだから支店全体の問題である。これでよくいままでトラブルが起こらなかったものだ。勘違いなのだろうが、マニュアルもないのか。そういえばここの窓口では何度か偉そうな窓口の係のために不快な思いをした。
私の身なりがみすぼらしいからだろうかとか、ついつい余計なことを考えてしまい、また腹がたってきた。
・・・とつまらないことに腹を立てる私は修行が足りない。
それでも銀行名と支店名をここに書かなかったのは武士の情けである(女性に対しては、「武士の情け」は使わないのかもしれないが)。
昨日は、尼崎総合文化会館アルカイックホールで開かれた、アンサンブル邦’(ほうダッシュ)というグループの演奏会にいってきた。このグループは、武庫之荘を本拠とする生田流新絃社の二代目家元である刈谷春樹(しゅんじゅ)さんを中心とする3人の演奏グループである。それにゲストの尺八、ピアノ奏者が加わった演奏会だった。私は、一週間前に偶然知り合いになったメンバーのお一人の招待でこの演奏会に行くことになった。
この演奏会は、古典ではなく邦楽を使った「現代音楽」といういうことになるのだろう。春樹さん自身の作品を中心にした構成だった。現代音楽と言っても、春樹さんの作品は優しさのある親しみやすい作品である。技巧という意味ではかなりの難曲のようだが、それを感じさせないし、奇をてらったようなところもまったくなかった。また、十七絃、二十五絃の豊かな音色も十分に楽しむことができた(山本春亜さんの二十五絃の演奏がすばらしかった)。ただ、最後に演奏された、中村茂隆氏編曲の「ブランデンブルグ協奏曲」の合奏には少し無理があったか。
家から90分間、散歩をかねて歩いて行ったのだが、行ってよかったと思った。
またこのグループにはこれから何かお願いできそうである。
中華料理店に集団で入り、ランチをしたあとの図。
上は女性のグループ。
中・下は男性のグループ。
私がいたのは中のグループ。
育ちの違いがわかりますね。
私も一度、このブログでの言葉づかいを注意されたことがあるのだが、最近「いただきます」という言葉が非常に気になっている。
私が使ったのは、「ご心配いただいた方、ありがとうございました」という表現である。「ご心配いただいた」のは「方」ではなく、私である。だから、その心配をした方にお礼を言うなら、「ご心配くださった方」あるいは「ご心配くださり」というべきだろう。
そう考えると、気になることがいろいろでてくる。
あるHPに次にような文があった。
「私たちの事業にご理解をいただいている○○様」
これもよく考えると変である。いただいているのは自分であって○○様ではない。
もっとおかしいのは、次のようにな表現である。
「この列車にはご乗車いただけません」
「このチケットはご利用いただけません」
「いただく」というのは何らかの恩恵を受けるという意味である。この場合は相手がある行為をすることが不可能であること知らせることを、へりくだって自分がその行為による恩恵を受けることができないという言い方に置きかえたものだと考えられる。しかし、これはいくらなんでもへりくだりすぎだろう。
「ご乗車いただけません」と言われたら「いえいえ、私を乗車させることによって、ご遠慮なく利益を得てください」返すこともできそうである。
私は、「ご乗車できません」「利用できません」で平気である。どうしてもていねいに言いたいなら、「ご乗車になれません」「ご利用になれません」でよい。
私自身は、敬語がうまく使えなくて反省ばかりしているのだが、逆にあまりにもバカていねいな言い方も不自然で気持ち悪い。
昨日、沖縄から戻った。今回はとても充実した研究・議論ができた。
沖縄では、琉球大学教育学部長の中村透先生からじっくりお話しをうかがうことできた。今回は、音楽や音楽教育のことだけなく、沖縄の歴史についてもいろいろ考えることができた。
私たちの世代は、1971-72年前後の沖縄返還協定の際にデモに加わった世代である。戦後米軍に全面占領され統治されてきた基地の島、苦しみの島、「民族の怒りに燃ゆる島」、それが沖縄のイメージであった。現在の沖縄についても、普天間基地問題など、対米関係だけで考えてしまいがちである。しかし、沖縄にはもっとそれ以前の長い歴史がある。そして、さまざまな矛盾や葛藤の中で沖縄の人たちが生きてきたし、今も生きている・・・ということが少しだけだが見えてきた。
ただ、それでも私は沖縄を訪問するたびに元気になる。なぜだろう。
2001年に初めて来沖して8回目の沖縄である。那覇の街のことならたいていのことならわかるようになった。
研究も成果があがりそうだし、泡盛もたくさん飲んだ。住めばもちろん大変なのだろうが、たまにやってくる私にとっては天国のようなところだ。
今から沖縄に行く。民謡や三線教育について調べてくる。少しだけ?泡盛を飲む。
9日に戻る。
昨日は、同じキャンパス内にある聖和幼稚園を見学してきた。外からは見ていたのでが、中に入るのははじめてである。この聖和幼稚園は、昨年度までは聖和大学附属幼稚園と呼ばれていたのが、関西学院との合併により関西学院聖和幼稚園となった。したがって、学校法人関西学院の中では、形式上は、関西学院大学、聖和短期大学、関西学院高等部、中等部、初等部と横並びで同格の教育機関ということになる。
幼稚園ではちょうど自由遊びの時間を見学したのだが、一言で言えば「大胆だなあ!」ということにつきる。園庭では、年長組(たぶん)の男児の集団がホッケーのスティックに似た板をふりまわしてゲームをしている。ボールを叩くだけなら良いのだが、足もひっぱたきそうだ。裏庭では、木にぶらさがったロープでブランコをしているのだが、振りが大きくて誰かに当たらない心配になる。高い台から平然と飛び降りる子もいる。見慣れていない私たちが見るとハラハラする場面があるのだが、子どもたちも先生方も平然としている(ように見える)。
裏庭には木がたくさん茂っているのだが、園長先生が先のとがった枝や、子どもにあたりそうな枝を見て、ポケットからさりげなく鋏を出して切り取っておられるのが印象的であった。
考えてみると、板で足をなぐられても、あるいはブランコにあたって倒れても、かすり傷くらならたいしたことはない。「痛い」という経験は子どもにとっても貴重である。後に残る傷でなければ少しの怪我の体験も必要である。もちろん、怪我をさせる意図でこのような環境を設定しているのではないのだろうし、安全にも十分に配慮はしているのだろうが、園の基本的な方針が見えて面白かった。
その他、保育室や、絵本の部屋なども見せてもらった。園長先生から興味深い話も聞かせていただいた。「いつでもどうぞ」ということだったので、これから何度も足を運びそうだ。次は音楽活動やキリスト教保育を見せていただきたいと思っている。
今年10月23日-24日に、関西学院聖和キャンパスで日本乳幼児教育学会第20回大会が開催される。その前日行事として、この聖和幼稚園の公開保育を見学できる。
今日から27日まで完全休日にします。
携帯を携帯しません。
藤森毅『教育の新しい探求・今こそ「まともなルールを」』(新日本出版社・1400円)
藤森毅氏は、日本共産党文教委員会責任者。この本は、「日本共産党の雑誌に発表した論文を素材としている」本である。現在、「建設的野党」を掲げる共産党の教育改革論である。
共産党のいう「まとまなルール」とはどんなものだろうか。モデルにしているのは社会主義国ではない(社会主義国はもはやモデルにはなりえない)。まず、もっとも「子育てしやすい国」として北欧のデンマークをとりあげる。家族が夕食の食卓をいっしょに囲むことの少ない日本と比べて、デンマークは「夕方には一家全員そろうのが基本です」と紹介している。
親の働き方がまともになり、夕食を一緒に食べられ、子どもをお風呂に入れ、一緒に遊んで寝る前にゆったり本をよみきかせることができる、デンマークでは当たり前の過ごし方が少し保証されただけで、日本の子どもの状態は相当に変わると思うのは私だけではないと思います。
すばらしい。日本の子どもたちがすべてこうなったら、日本の教育はとてもよくなるだろう。ただ、これを読んで、隔世の感を覚えたのは私だけだろうか。今からもう40年ほども前のことだが、私が「結婚して、子どもができ、家族で夕食を食べ、子どもと遊んで、絵本を読んであげて」という将来の夢を語ると、「プチブル的だ!」となじった人は共産党の活動家だったような気がする。もちろん、その時と違って、政策が「まとも」になったのならば、とても良いことである。
また、藤森氏は学習指導要領については、次のようにいう(原文は自民政権の時代に書かれたものらしい)。
自民党政府のもとでの「指導要領」は、コンドルセ(注・フランス革命時の思想家の一人)が指摘した権力の濫用そのものです。「指導要領」の内容を審議するのは、文部大臣が任命する中央教育審議会。その審議は文科省の役人が事実上取り仕切り、一緒に「答申」を作成し、その「答申」をうけた文部大臣は文科省の内輪で--そこには自民党の「靖国派」などの圧力もあります--最終的に「指導要領」を決定します。こうした過程からは、日々子どもを教えている先生たち、国内外で高く評価されている研究者は排除されています。これで、妥当な結論がえられるはずがありません。
そうかも知れないが、こうはっきり書かれると立つ瀬がない(泣)。
ただ、この本は、全体としてきわめてまともな本である(最後の「歴史教科書問題を考える」は、検証不足だと思うが)。一読しておく価値はある。
清瀬市で女子中学生が自殺。どうしてこう簡単に死んでしまうのか。また、このような時間があるとなぜすぐ「学校でいじめがあったか?」という議論になるのだろうか。私はこのブログで再三、次のような趣旨のことを述べてきた(文は少し変えている)。
いじめを学校からなくすにはどうすればよいか? 「いじめ」という言葉を学校からなくせばよいのである。「そんないいかげんなことを」と言われそうだが、真面目に書いている。例えば、何か事件がおこると「学校でいじめがなかったか」ということが問題になる。「いじめがあったかなかったか」と言われても学校は答えようがないだろう。 「いじめ」とはある行為を受けた人間の観念に属することがらだからである。
例えば、恐喝、暴力、無視(しかと)、仲間はずれ、からかい、このような行為を「いじめ」と感じるのであろう。しかし、恐喝や暴力と無視や仲間はずれやからかいとはまったくレベルの異なる行為である。レベルが違うものを「いじめ」という言葉で一括すべきではない。
恐喝や暴力は明らかに犯罪である。これを「いじ め」と呼ぶべきでない。「いじめ」と呼ぶことによってかえってその罪深さを軽視することになる。「犯罪」と呼ぶべきなのである。
無視、仲間はずれ、からか いは受け止め方は人によって異なる。もちろん意図的・集団的な行為もあるが他愛のないちょっとした誤解から生まれる場合もある。自分の行為を数名から批判されただけでも、いじめと感じることさえある。これも一括して「いじめ」 と呼ぶべきでなく、その行為について具体的に指摘すべきなのである。そしてそれぞれに合った解決の仕方をすべきなのである。
「いじめ」という言い方は問題をかえって複雑にす る。
私は、「いじめられるほうにも問題がある」という考え方にはもちろん与しない。また、この問題が、その現場から遠い人間や私のような専門家でもない人間が簡単に語れるような問題でないことも承知している。ただ、小中学生が自殺に追い込まれるような深刻な事件がおきたときに、すぐに「いじめ」と言葉をかぶせるマスコミに対して異を唱えているのである。
2月22日、日本音楽教育学会常任理事会にて(画像掲載未承認!)
それにしても、真ん中の人はきたないなあ。髪はバサバサ、セーターはヨレヨレ。
昨晩、新幹線で戻った。体が鉛のように重たい。最近、すぐ疲れを感じるようになった。「飲みたい」という気持ちが薄れてきた(昨日は飲んだ)。
最近のコメント