ブランド
朝、通勤途中で学生の集団といっしょになることがある。女子学生をそれとなく観察していると(ジロジロ見ているわけではない)、みんなそれぞれが高そうな衣服、靴、鞄などを身に付けている。結構有名ブランドものを身に付けている学生が多い。ラフに見えてもお金をかけている(勉強にも金をかけてほしいと言いたいが、「授業料だけでかかっている」と言い返されそうだ)。
女子学生の持ち物を見るとあのフランスの有名ブランドもたまにいるが、最近はCのマークが目につく。そしてすごいのは、よく見るとそれぞれが同じデザインや色ではなく、少しずつ違っていることだ。それなりに個性や新しさを強調しているのか。私はよく見なければ同じものにしか見えない。
内田樹先生の著書によると日本人は少しの差異に敏感なのだそうだ(いろいろな本に繰り返し書いていらっしゃるので、書名は省略)。同じようなものに変化をつけて大量に売るとは、なるほどよい商売だ。まさか、「龍馬伝」人気にあやかっているわけではないだろう。
私は「左、右、上、下」と視力検査を楽しんでいる。
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コメント
日本人はブランド好きですが、その傾向は、関西人よりも関東人のほうが強い、と本で読んだことがあります。ブランド志向は、小学校から高校までの学校の影響ではないかと思います。社会的評価が高いものを身につける安心感は、個性よりも横並びを良しとする教育によって育まれたのではないかしら、と。おおむねは皆と同じで、少しだけの差異を楽しむというのは、日本人的な繊細さでしょうね。ブランドの価値が全くと言ってよいほど分からず、普通の服やバッグ、靴で満足してしまう私は、もっと見習わなければなりません。ただ、ブランド品が似合う年齢っていうのがあると思うんですよね。年相応っていうか、一番似合う装いっていうのは、その人の精神年齢に見合ったスタイルだと思うのです。
投稿: トミー | 2010年5月13日 (木) 16時31分
私は、ブランド品などに全く興味がないわけではないのですが、なんとなく自分には不相応な気がするので買わないし身につけないだけです。
ただよくよく考えると、「自分には不相応」という考え方もけしからぬ考え方です。
この考え方は、人間を「ブランド品(高いもの)がふさわしい人間」「ブランド品がふさわしくない人間」といういうふうに格づけする思想になっているからです。いいかえれば、人間の価値をものの価格に置き換える思想といってよいかもしれません。
結局は、ファンションは個人の趣味の問題であって、あまり他人がとやかく言うことではないのですが、ときどき何か言ってみたくなるのはひがみ根性でしょうか。
投稿: 吉田孝 | 2010年5月13日 (木) 19時55分
本当は、「龍馬伝」と「視力検査」を落ちにしたかっただけなのです。
投稿: 吉田孝 | 2010年5月14日 (金) 08時43分