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伊藤整

W.C.は残念だったが、これで国民全体が普通の生活リズムに戻れる。

相撲協会の賭博問題で今一番目立っている人は、特別調査委員会委員長の伊藤滋氏(早稲田大学特命教授)。78歳らしいがなかなか若々しくて歯切れがいい(ときどきフライングもする)。どういう人かと調べてみたら、都市工学の権威らしい。そして一番驚いたのが、この人が作家の伊藤整の長男だということだ。

伊藤整は、戦後間もない頃、ロレンス「チャタレー夫人の恋人」の翻訳がわいせつにあたるとして裁判で有罪になったことで有名だが、私はチャタレーは読んだことがない。むしろ数多く残した小説が好きだった。かつては新潮文庫版がたくさん出ていて所蔵していたのだが全部処分してしまった。その後、もう一度集めようと思ったのだが、ほとんどが廃刊になってしまっている。

一つだけ強烈に印象が残っているのは、戦後に書かれた「氾濫」という小説である。この小説の中心的な主題ではないのだが、自然科学の研究者である主人公は自分の研究のメモをノートではなく、データ・カードに記録していき、後にそのデータ・カードを組み合わせることによって新しい理論を生み出して成功する。このような研究の方法があるのだとずいぶん感化された覚えがある(記憶違いだったらごめんなさい。本が手元にないので)。

データ・カードといえば、梅棹忠夫『知的生産の技術』(岩波新書・1969)が有名で(この本は手元にある)、この本の出版後に研究者の間に広まった。梅棹の所属した大学名で呼ばれることもある(嫌みだ)。だが、伊藤整の「氾濫」はそれ以前の1957年刊。伊藤整は、東京工業大学の英語の教員だったので、同僚の自然科学関係者からこのようなデータ・カードの利用法を知ったのか、すでに自分で利用していたのであろう。データ・カードはこの頃から利用されていたようだ。

実は、私もこのデータ・カードを使おうとしたことがある。使ってはやめ使ってはやめることを繰り返した。結局、カードは紙くずにしかならなかった。つまり私はデータ・カードからは何ら知的生産をすることができなかったことになる。私の頭の中にはさまざまな情報が未整理のまま雑然と散らばっている(だんだん消失していく)。文献やさまざまな研究資料も雑然としたまま研究室や自宅に散らばっている。だから三流研究者なのか、三流だからこうなのかはわからない。

話しが最初に書こうと思ったこととはだいぶ違ってしまった。

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世間をお騒がせして・・・

相撲協会の理事長が「世間をお騒がせして申し訳ない」というような謝罪をしていた。「世間をお騒がせして」は謝罪の慣用句ではあるが、なかなかクセのある言葉である。

「世間をお騒がせして」はせいいっぱい良心的に取れば、「世間を大騒ぎさせるような重大な問題を起こして」という意味なのだろう。しかし、一方では、次のようにも聞こえる。「騒いだのは世間であって世間が騒がなければ何も問題はなかった。騒いだあなたたちが悪いのよ」。

相撲協会に同情はしないが、騒がれるべきことは他にも山ほどある。


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FK2発

夢のようなFKだった。
ほっぺつねっても痛くなかった。

・・と少し無節操な私。

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戦争を知らない子供たち

今日のタイトルはマイミクさんのパクリ(ごめんなさい)。

「戦争を知らない子供たち」
この言葉をみると、私はどうしても 「センソー」の部分で「セ」にアクセントが付いてしまう。つまり上から下がるのだ。これはたぶん、「戦争を知らない子供たち」という歌のせいだ。「センソー」には「ドシラー」の旋律がついている。

はじめてこの歌を聴いた頃に、ちょっとおしゃれな感じと、「気恥ずかしさ」「もどかしさ」のようなものを感じたのは、この独特のアクセントのせいかもしれない。作曲者はそこまで意図していたのか。

もっとも「太平洋戦争」「日露戦争」「ベトナム戦争」と、なんらかの個別の戦争を言う場合も「センソー」は下がる。当時はベトナム戦争の時代だから、それも作曲者の意図かもしれない。

あれから40年。逆に後の方にアクセントが付くのが若者ことばの特徴になっている。「ギター」「カレシ」は代表的だが、気持ち悪くて仕方がない。

ちなみに、私の名前「タカシ」は、標準語では「タ」にアクセントが付く。今ではそう呼ばれることが多いが、地元の九州では「カ」にアクセントが付くのである(「シ」でまた下がる)。「たーかしさん」をわらべうた風に歌うと、「レードドレ」ではなく「ドーレド・レ」でなければならない。

※ここでの「アクセント」は「高低アクセント」の意味である。

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ドント

どーんと行ってみよう!

国会が終了し、次は7月の参議院議員選挙。参議院は各都道府県選挙区と全国を一区とする比例代表。この比例代表では、ドント方式で議席が配分される。

ドント方式とは、各政党の得票数を1、2、3、4・・・・の自然数で割り、その商の大きいほうから順に当選者を決めていく。簡単にするために、投票総数1000票、定数10と考えてみる。
次のような選挙結果だったとする。

政党 A  B    C  D  E
---------------------------------
得票 350   300    250   60    40
---------------------------------
÷1   350*  300*   250*  60    40
÷2   175*  150*   125*  30    20
÷3   117*  100*   83*  20    13
÷4    88*   75     63   15    10
(以下略)

この場合、*のついた数が10番目までに入る。だから、議席配分はA党が4、B党、C党が各3、D党、E党は0である。

ところで、ここで、仮にD党とE党が合同してF党ができ、二つの党に入る票がすべてF党に入ったとすればどうなるのか。計算は省くが、C党が1議席減って、F党が1議席獲得することになる。「ドント方式は小政党に不利」「二つの政党が合併すると有利になる」というのは感覚的に感じていたのだが。

さて、ここからは数学の問題。「合併すると有利になる」ことを数学的に説明すると次のようになるそうだ。

ドント方式による比例選挙で二つの政党  X 、Y が別々に選挙を行うときの得票数をそれぞれ x、y とし、また当選人数をそれぞれ a、b とする。もし X と Y が合併してZという政党をつくり(他の政党は変更なし)、Zの得票数が x + y になるとすれば、Z の当選人数は a + b または a + b + 1 になる。

これは次の本に出ていた。

芳沢光雄『高校数学の教科書上』(講談社ブルーバックス,1180円)

つまり、二つの政党が合併すると1議席分得をするということがあるということだ。

ただし、現実はそう甘くない。得しない場合もあるし、2議席以上得することはない。それに実際は合併すれば必ず合計した票数が出るとは限らない。「あんな政党といっしょになるなら支持しない」という人もいるはずだ。選挙は難しい。

さて、今夏の選挙はどうなりますことやら。

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阿武松部屋が大変だ。親方は元益荒雄。「白いウルフ」と呼ばれ、私と地元が近く好きな力士の一人だった。

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賭博行為

相撲界に拡がる賭博疑惑。背後には暴力団が動いているようだ。賭博に関わった力士には何らかの処分が下ることになるだろう。

世の中は一斉に相撲協会の批判をはじめた。しかしよく考えて見たらよい。世の中に賭博行為を一度もやったことのない人がどれくらいいるか。もちろん合法的な賭博であるBACH(ボート、オート、自転車、馬)や宝くじ、サッカーくじ、パチンコは除く。

例えば、お金を賭けずに麻雀をする人がどのくらいいるか。トランプ、花札、バックギャモン、場合によっては囲碁・将棋に至るまで、家庭や友人の間で少額を賭けてゲームを楽しんでいる人はたくさんいるのではないか。また、居酒屋で飲みながら、「この試合どっちか勝つか?」を100円ほど掛けて楽しんでいる姿もよくみる(私も加わりたいのだが、気が小さいので必死で我慢している)。

どこで線を引くかはなかなか難しい。極端に言えば、いくら少額でもこれらの行為を犯罪にしようとすれば司法当局のさじかげん一つでいくらでもできる。相撲界で暴力団が絡んでいることを知って賭博を続けていたとすれば論外だが、いわゆる仲間内の麻雀、花札のたぐいまで処分の対象になるのはおかしい。申告した親方・力士の中にはそのレベルもあるのではないか。

例えば、全国の教員(大学教員も含む)に次のような指示をしたらどうなるか。

今まで、賭け麻雀などの賭博の経験がある教員は、どんな小さなことでも申告すること。正直に申告した人については軽い処分ですますが、申告せずに後になって賭博が明らかになった場合は重い処分を科す。

こういう社会は恐ろしい社会だ。

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高い音? 低い音?

周波数の大きい音を「高い」音、小さい音を「低い」音というのは何故か。このことがよく話題になる。

このことに関連してある記述を思い出した。元禄時代に中根璋(字は元圭)という和算家がいてこの人の書いた書に「律原発揮」(1692)がある。音律に関する書である。これも江崎公子編『音楽基礎研究文献集』(大空社・1990)に収録されている。そこに、次のような一文がある。もとは漢文だが書き下す(読点も私)。

璋(あきら)案ずるに、上生すべきものを強(しい)て下生しむれば、其の生じ来る律の長さは本律の半を得、下生すべきものを強て上生しむれば、其の生じ来る律の長さは本律の倍を得。
古に謂ふ所の全律半律とは此を謂ふなり。且つ、試みに空円平均の者二管を截(たち)て其の短管は長管の半の如く、例ば長管四寸短管二寸の類、之を吹て其の音を考るに、高下有りと雖も皆一律に帰す。然るに三分増損の法に依ば則ち仲呂は三分して一を益せば亦当に再び黄鐘を上生すべし。

中国では音管の長さを決めるのに基準の管の長さの2/3倍の管や4/3倍の管をつくり、これを次々に繰り返すことで音の高さを決めていった。これを「三分損益法」といった。この文中の「上生」とは「三分損益法」ので3分の1益すること、すなわち基準の4/3倍の長さの管をつくることをいう。また、下生とは三分損すること、すなわち基準の2/3倍の長さの管をつくることをいう。

上の文を少し分かりやすく書き直すと次のようになる。

璋は次のように考える。上生する(管を4/3倍する)べきところをあえて下生すれば(2/3)にすれば、その長さは半分になる。逆に下生すべきものを上生すればその長さは倍になる。昔から言われてきた「全律」「半律」とはこのことである。試しに、内径の一様な二つの管を切って、短い方を長い方の半分の長さにする。例えば、長い方を四寸、短い方を二寸にしてこの管を吹いて音を出してみる。高い低いの違いはあるが、どちらも同じ律の音である(オクターブは同じ音であることをいっている)。したがって、三分増損(損益)法によれば、仲呂(チュウリョ・西洋のGに近似)の管の長さの4/3倍の長さの管をつくれば、再び基準音である黄鐘(コウショウ・Dに近似)の音が生まれる。

元圭が言いたかったことはこのあと(平均律の主張)にあるのだが、ここで注目したいのは上生が音を高くすることではなく管を長くするという意味であることだ。では、つまり「上る」は今でいう低音をつくること、下るは今でいう高音をつくるということになる。「高下ありと雖も」の高はどうか。下が短いと言う意味であれば、「高」は長い、つまり今でいう「低い」という意味になる。今とまったく逆だったことになる。

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続・京都見廻組

見廻組は新撰組と比較されることがある。見廻組は幕臣の集団、新撰組は浪人の集団。どうも新撰組のほうが人気がある。「龍馬伝」には新撰組は出てくるが、見廻組は登場しない。.

という話しは何も関係なく、最後の隊長、岩田織部正(通徳)はその後式部寮(宮中の儀式などを担当する)雅楽課の職員を勤めるのだが、その頃に執筆した『音律入門』(1878、一松堂)という本が現在残されている。この本は、国会図書館近代デジタルライブラリーで閲覧できる(「音律入門」で検索してください)。

また、この本は、その復刻版が江崎公子編『音楽基礎研究文献集』(大空社・1990)にも収められていて、その別巻で東川清一先生が解説されている。この本がなかなかおもしろい。興味のある方は上をクリックして実物を見ていただきたいのだが、何がおもしいかというと内容よりも次の二点
・変体仮名で書かれていること。
・読点の位置が変わっていること。

変体仮名は慣れるまでは大変だが、古文書ほど難しくはない。例えば、最初のページは次のようにはじまる。

たふとしや。音律はしも名称に。日本支那欧洲(ヤマトモロコシオウシュウ)の。異(カハリ)はあれどその音は。みな同一のものとしれ。

読点は、まさに読点である。文がすべて七五調になっており、その区切りに読点がある。

調子よく読ませて、丸暗記させることが目的だったのかもしれない。
全文を現代の仮名に直してみた。間違いなどを発見したら教えていただきたい。

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京都見廻組

なぜ、京都見廻組が「音楽」のカテゴリーなのか。

坂本龍馬が誰に殺されたのかについては諸説がある。新撰組説、薩摩説、土佐藩内の内輪もめ説・・・。だが、現在もっとも有力な説は、京都見廻組説である。京都の警護にあたっていた見廻組が幕府の公務として坂本龍馬を捕縛しようして殺害に至ったのであり、その時の隊長が佐々木只三郎、実際に手を下したのが今井信郎であるとする説である。

というのは次の本の受け売りである。
菊地明『京都見廻組史録』(人物往来社、2005年、3800円)

この本は京都見廻組が誕生してから終焉を迎えるまでを描いたものだが、その最後におもしろい名前が出てくる。見廻組はその後、「突撃隊」「狙撃隊」と改称するのだが、最後の隊長が岩田織部正である。岩田は主戦論者だったのだが、最後の最後で帰順して(そうする以外に道はなかったのだ)、見廻組5年間の歴史を終える。

ここまでが見廻組の話であるが、この最後の隊長の岩田織部正が明治期の洋楽受容史に脇役として登場する岩田通徳である。時間がなくなったので続きはまた明日。

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なります

NHKの「みんなでニホンGO!」(の6月10日放送分をビデオでみた。この日は「なります」だった。あのレストランやコンビニでの「コーヒーになります」「領収書になります」だ。私は耳障りで仕方ない。

番組の参加者(タレントと一般参加者)のほとんども「なります」には最初は反対だった。ところが、「なります」は「○○にあたります」という意味で使用されること場合があることが紹介された。また使う側から、「○○です」では少し冷たく「○○でございます」は堅すぎるという気持ちが伝えられると、反対者の数が半数以下になってしまった。

そんなばかな話しがあるか。コーヒーそのものを持ってきて「コーヒーにあたります」というのはおかしい。領収書を出して「領収書にあたります」もおかしいだろう。また、いくら使う側の気持ちと言っても、間違いは間違いである。こういう言葉づかいを番組が擁護するのはやめてほしい。司会者の一人、アンタッチャブルの山崎の番組の中でのギャグは不愉快だ(どうもピントがずれている)。

そういえば、あの番組の一般参加者の一人で永尾陽典(59)という人が「なります」について「だめなものはだめ!」と強く発言していた。賛成である。さすが59歳と感心していたら、ふと思い出した。この名前どこかで覚えがある。少し調べたら高校の同級生だった。別のクラスだったので話したことがあるかどうかも覚えてもいない。ただ名前が珍しいのでなんとなく覚えていた。今話題のJAXAで研究をしているらしい。

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WC(その2)

私は負け犬根性の固まりである。
次のように負け犬根性が染みついている。

http://yoshidatakashi.cocolog-nifty.com/blog/2010/02/post-d395.html
http://yoshidatakashi.cocolog-nifty.com/blog/2010/02/post-0ff6.html

昨日も次のように書いた。

それとも岡田ジャパンに期待がもてないせいか。まあ、これは自分の気持ちでもあるのだが。

こう書いておいて、しっかり夜更かしして観てしまう(その前にたっぷり寝ている)この無節操さ。でも、観てよかった! 

それにしても、大相撲はいったいどうしたことだ。とかげの尻尾キリではなく、徹底的な手術が必要かもしれない。

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WC

わしのまわりじゃ、だーれも話ししよらんぜよ。

というわけで、ワールド・カップがあまり盛り上がっていない。出場がもう4回目だからか。それとも岡田ジャパンに期待がもてないせいか。まあ、これは自分の気持ちでもあるのだが。


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とんでもございません

NHKテレビに「みんなでニホンGo!」という番組がある。6月3日放送分をビデオで観た。この日取り上げられたのは「とんでもございません」だった。

私の考えは次のとおりである。

「ございます」は「ある」「あります」の丁寧語である。
したがって「ございません」は「ない」「ありません」の丁寧語である。


では「とんでもございません」は「とんでもない」の丁寧語としてよいか。
私は反対である。


「とんでもない」はこれで一つの言葉だからである。「とんでも」と「ない」は切り離せないのである。「とんでもない」は「とんでもある」の否定形ではないからだ。もし「とんでもございません」が認められるならば、「ない」で結ばれる形容誌はみな該当部分を「ございません」に変えても良いことになる。


「もったいない」→「もったいございません」
「きたない」→「きたございません」
「幼い」→「おさございません」
「おぼつかない」→「おぼつかございまん」

ところが番組の中で、文化庁の調査官が出てきて、「とんでもございません」は国語審議会の「敬語の指針」によれば間違いでないと言っていた。さっそくその「敬語の指針」をしらべてみた。

【解説1】「とんでもございません」(「とんでもありません」)は、相手からの褒めや賞賛などを軽く打ち消すときの表現であり、現在では、こうした状況で使うことは問題がないと考えられる。

【解説2】謙遜して、相手の褒めや賞賛などを打ち消すときの「とんでもございません」(「とんでもありません」)という言い方自体はかなり広まっている。この表現は使わない方が良い、と言われる大きな理由は、「とんでもない」全体で一つの形容詞なので、その「ない」の部分だけを「ございません」に変えようとする発想に問題があるということである。したがって、その立場に立てば、「とんでもない」を丁寧にするためには、「とんでもないです」「とんでもないことでございます」あるいは「とんでものうございます」にすれば良い、ということになる。ただし、「とんでもございません」は、「とんでもないことでございます」とは表そうとする意味が若干異なるという点に留意する必要がある。問いの例は、褒められたことに対し、謙遜して否定する場合の言い方である。したがって、「とんでもございません」を用いることができるが、この場面で、「とんでもないことでございます」と言ったのでは、「あなたの褒めたことはとんでもないことだ」という意味にも受け取られるおそれがあるので、注意する必要がある。

また、例えば、あの人のしていることはとんでもないことだ、と表現したい場合には、「あの方のなさっていることはとんでもございませんね。」などとは言えないが、「とんでもないことでございますね。」などは普通に用いることができる。
http://www.bunka.go.jp/bunkashingikai/soukai/pdf/keigo_tousin.pdf

要は、現在はこういう言い方が広まってきているので「問題がない」ということだ。逆に「とんでもないことです」の場合は相手のいうことを強く否定することになるので使わないほうがよいということになる。

つまり、褒められて「とんでもないことでございます」と言うと、相手の言うことを強く否定することになる。だから「とんでもございません」は謙譲しているので問題はないということか。むちゃくちゃな論理である。そんならもともと、褒められたときにこんな言葉は使わないことだ。本当に否定したい場合に使えばよいのである。

国語審議会は、世の中の流れをそのまま認めようとする傾向がある。

番組では、また研究者が出てきて、「とんでもない」は「とでもない」が語源かも知れないと言っていたが、語源を言い出したらキリがない。それなら私だって少しは考える。

「飛んでもない」→仮に私(人類)が空を飛べたとしてもそんなことはありえない。
「豚でもない」→豚が木に登るほど(誉めれば豚も木に登る)誉められるようなことはしていない。

まあ、使う人の気持ちはわかるので、その気持ちまでは否定するつもりはないが、私は使わない。人に誉められたりねぎらいの言葉をかけられたら、「とんでもございません」などと心にもないことを言うよりも、「(そのように言ってくださり)ありがとうございます」と素直に返すほうがよい。「私にとっては朝飯前」と言いたい気持ちを押さえて・・・。

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年金

Oe

日本年金機構から「被保険者記録紹介回答票」というのが送られてきた。そういえば、以前一斉調査(年金特別便)があった時に、就職して最初6年間の私学共済に加入した期間が漏れていたのでそれを記入した覚えがある(その時は社会保険庁だったか)。その一斉調査では、あの返信用封筒(封筒が小さすぎて、書類を小さく折りたたまなければならない)ことでまた国民の怒りが爆発した。

それからしばらくして、今度は個人宛に問い合わせがきた。上の6年間の件について「これはあたのことではないか」というものだった。では前の年金特別便は何だったのだろうと思ったものだ。

そして、今回やっと完璧なものが来た。
私学共済  72月
国家公務員共済 324月
私学共済 12月

25歳から34年働いたことになる(その割に実績がない)。
ちなみに今の職場の停年は68歳らしい。それまで働いたら年金を受け取らないままポックリいってしまうかもしれない。それもいいのだが、それまで勤める気はない。どこで身を引くか(本当は明日にでも辞めたいのだが、飲み過ぎで蓄えがまったくない)。あっ、脱線しそうになった。

それにしても、共済年金ですらこんなに杜撰なのである。共済年金の場合は各共済組合が管理してくれているだろうからそれほど心配はしていなかったのだが、社会保険庁や社会保険事務所が管理していた国民年金の加入者の方は本当に大変だったのではないか。

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疲れた・・・

ので、今日はあぶり出しです。

妻が待つ

歌うたう

儂の股の玉の皺

孝の好きなキスの仕方

 

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杞憂

私の性能の悪いアンテナから得た情報を総合すると、最悪の選択はしない模様なのでこの記事は一旦削除する。さすがにバカではない。

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パパは牛乳屋

週刊朝日を久々に買った。菅さんの特集だ。まあ、どの週刊誌も同じだが。
弘兼憲史の「パパは牛乳屋」というコラムがある。

「パプアニューギニア」と「パパは牛乳屋」はまったく違うが似ている。音韻連想。要するにオヤジギャグである。このオヤジギャグを読者が応募し弘兼が批評するというもの。

私は昔からこんなのが大好きだった。それで10年前くらいに自作をHPにも晒していた。その中からいくつか。

人身一新ちんちん湿疹
いきなりシモネタで申し訳ない。菅内閣登場、人身一新とはいかなかったようです。

遠くで汽笛を聞きながらフォークでビフテキ突きながら
口蹄疫を心配する。堀内孝雄好きなんです。

美人薄命美人百名
そりゃあ、あとのほうがいいですね。我がキャンパスにはその5倍くらいいます。

風林火山不倫母さん
いけませんよ! そこのおばさん。

処女航海処女後悔
どうもこんなのばかりだったような。

無断盗用普段同様
これは新作。熱くなりすぎてはろくなことがありません。

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琴、三味線

昨日書いた件について補足。私は当事者(それが不可能なら会長)が要望者と一度でも話し合いをすればすぐに終わる問題だと思っている。私が出そうとした意見書も基本的にそう方向のもので、その前に事実確認をしたかっただけである。そして学会がそのような方向であれば私はこの問題から手を引くつもりだったのである。ところが、本人にはなんら接触もしようとせずいたずらに回答を引き延ばしたうえ、私にも昨日書いたような対応である。故意に問題を複雑にしているとしか思えない。

☆☆
話し変わって

3月に研究会のために琉球大学を訪問したさい、その夜の懇親会で箏の奏者と偶然知り合いになった。その方は関東に住んでいらっしゃるのだが、私が住んでいる尼崎を本拠とする演奏団体のメンバーだという。

その後尼崎で開かれたその演奏団体の演奏会に招待されたのだが、とてもいい演奏会だった。その中心メンバーである箏・三味線のお師匠さんにも紹介されて、今はときどき家の近くのそのお師匠さんのスタジオに遊びに行くようになった。私とほとんど同年代の方であり(バラしてすみません)、お話しするのがとても楽しい。

そのお師匠さんが、少しだけ私に三味線を教えてくださった。お師匠も講師として参加している子ども教室で実際に使っている方法だという。
・まずわらべうたを歌う。このわらべうたは普通のわらべうたとは違って、こちらの言葉のアクセントに合ったものだ。
・そのわらべうたを歌いながら三味線(中棹)を弾く。中棹は津軽三味線と違って、叩くというより舐めるという感じで弾く。その日は「じっちゃこばっちゃこ」という曲だったが、楽しみながらなんとか一曲弾くことができた(と私が思っているだけかもしれない。ほめ上手な先生だから)。

この方法は、1日やそこらで考えられた方法ではなく、その子ども教室のグループで試行錯誤しながら何年もかけて開発してきた方法だという。

これから教員養成の場でも日本の伝統音楽の教育が必要だが、関学ではまったく対応できていない。これから準備を進めなければならないのだが、よい相談相手ができたと思っている。

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常識と非常識

この記事もとりあえず削除する。
今後の進展を見る。

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6・4 歯を大切に

子どもの頃から歯が強かった。歯の健康優良児で表彰されたこともある。虫歯になったことがない(今でも)。40代まで歯医者に行ったこともなかった。糸を切る、フタを開ける、固いものを曲げる、何でも歯でやっていた。だから、歯磨きもいいかげんだった。それどころか、「歯くそが歯を虫歯から守るのだ」などとうそぶいていた。

これがいけなかった。虫歯にはならなかったが、歯茎をやられた。「歯槽膿漏」-字を見ただけでいかにも痛そうだし、気持ち悪そうだ。結局5本ほど歯を抜き入れ歯にした。それでも今から10年前に半年ほどかけて本格的な治療をしたので、その後はなんとか歯が持っている。定期的に見てもらったほうがよいのだそうだが、なかなか行く機会がない。そうだ、今年の夏は歯医者に通うことにしよう。

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鳩山内閣

1年持たなかった。仕方ないと言えばしかたない。次は誰だろう。

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幼児教育

最近、幼児の音楽教育に少し関心が出てきた。理由はいろいろあるが、一番大きな流(このミスはひどい! 理由と書いたつもりだったのだ)は、音楽教育についての基本的な認識が幼児教育の世界と小学校教育の世界が違っていることである。

わずか、1年の違いである。実際には、4月生まれの子は6歳11ヶ月でも幼稚園や保育所で過ごし、3月生まれの子は6歳1ヶ月で小学校で過ごす。そこでの音楽の扱われ方があまりにも違いすぎる。「発達段階」が違えば、音楽の性格そのものが変わるのか・・・・。なんか変じゃない。

 

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中島潔さん

昨日のNHKの「クローズアップ現代」で、金子みすゞの「大漁」を絵にした中島潔さんを取り上げていた。全然知らなかった。あらためて教養のなさを実感。

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