あきらめの教育学
『たのしい授業』(仮説社)7月号に「あきらめの教育学」という座談会が出ている。
「教育学はだめだからあきらめよう」という話ではない(私自身はそう思わないもないではないこともないではないこともないではないこともないでは・・・・・・)。ではどのような主張か。仮説実験授業について少しでも勉強した人なら予想がつくはずだ。
人間は忘れるものだ。間違うものだとあきらめる。常に完璧を求めることがよいわけではない。そして板倉先生もお元気そうだ。よかった。
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コメント
諦める気持ちがあれば、身近な幸せも見つけられるんですよね。けれども、諦念を持つには歳月が必要であるように思えます。早ければこの秋から新しい学校で教えることになりそうですが、若い子たちにそういう幸福論を教えるのはまずいかな……。
投稿: トミー | 2010年7月 3日 (土) 11時33分
> 早ければこの秋から新しい学校で教えることになりそうですが、若い子たちにそういう幸福論を教えるのはまずいかな。
「寛容」と「諦念」は一体だと思います。
確かにこれを若い子には教えられません。まあ、私にとっては「いいかげん」とほとんど同じ意味ですが。
投稿: 吉田孝 | 2010年7月 3日 (土) 16時33分
「いいかげん」――好きです、この言葉を聞くとホッとします。寛容≒諦念≒いいかげん で行きましょう!あんまりスキがないのは生徒さんを追い詰めてしまいそうですからね。かくいう私はスキだらけです。
投稿: トミー | 2010年7月 3日 (土) 17時10分