毫も異なる所なし
恥ずかしながら3月に著書が出版される。大学の研究助成で関西学院大学出版会から「関西学院研究叢書」として出版される。その宣伝のために(?)、出版会が定期的に出している「理(ことわり)」というPR誌に原稿を書かせてもらった。
毫も異なる所なし 〜伊澤修二の音律論〜
本書でいう「音律」とは「音楽で使用する音の高さの相互関係(音程)を数量的に確定するための理論及びその理論によって導き出された数値(理論値)、または実際に音楽で使用されている音の高さの相互関係(実測値)」を意味する。
明治五(一八七二)年に明治政府は学制を制定する。学制には、小学校の一教科として「唱歌」が置かれていた。しかし「当分ノ間之ヲ欠ク」という但し書きがあり、唱歌教育はすぐには実施されなかった。実施されなかったこの唱歌教育を実施するために、明治十二年に文部省の下に設置された研究機関が伊澤修二を長とする音楽取調掛であった。
音楽取調掛は、唱歌教育の実施に向けてさまざまな事業や研究をすすめていったが、その研究の一つに「内外音律ノ異同研究ノ事」すなわち日本音楽と西洋音楽の音律の異同に関する研究があった。そして両者の音律は完全に一致していると結論づけ、さまざまな根拠をあげながらこのことを国内外にアピールした。
本書のタイトルである「毫モ異ナル所ナシ」は、伊澤修二が音楽取調掛の初期の事業成果報告書である『音楽取調成績申報書』の中で、音律の完全一致を主張するために頻繁にもちいたフレーズである。そしてその後の音楽取調掛の事業はこの音律の一致を前提にすすめられていった。
しかしながら、日本音楽が西洋音楽の影響を受けた現在でさえ、日本の伝統音楽の音律が西洋音楽の音律と一致していると断定するのは躊躇する。当時来日して日本音楽をきいた外国人の証言とも矛盾する。また、伊澤の提出した根拠にもさまざまな矛盾がみられる。音律の一致は事実ではなく、一つの政策だったのではないか。
本書は伊澤が示した音律一致の根拠を検証しつつ、その根拠が妥当なのか、なぜここまで音律一致にこだわったのか、音律の一致を主張することによって何を目指していたのかについて探る。そこから、現在の音楽教育のかかえる問題も見えてくる。
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コメント
おめでとうございます!
手に取って読めるのを楽しみにしています。
投稿: 北山敦康 | 2011年2月 5日 (土) 23時40分