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めだかの学校

昨日は、3回生に対する第1回の事前指導。

関西学院大の教育学部には附属小学校がないので、ほとんどの学生がこの秋に公立学校で実習する。事前・事後指導は、それぞれ2日(1日2コマ)ずつで計4日8コマ、内容は実習生全体を対象にした講義と、約13〜4名程度のクラスに分かれた分級指導である。私はその1クラスを担当する。

昨日の2コマは、全体講義で、1コマ目は実習の心構えなどについて I の先生お話と実習支援室からの注意。そして2コマ目は学習指導案についての S 先生のお話。S 先生のお話は、指導案のポイントが押さえられている上に、授業の場面や教材お事例に即したとてもわかりやすく、私自身がとても勉強になった。

その話の中で、「『めだかの学校』になっていはいけない」いけない」というお話しがあった。つまり、童謡の「めだかの学校」(茶木滋作詞、中田喜直作曲)の歌詞のような「誰が生徒か先生か」になっていはいけない。つまり教師は教育内容をに理解し、教材や方法をきちんと準備していなければならないということを言われたのである。当然のことである。

その時、私は学生時代に受けたある教育学の講義を思い出していた(内容はほとんど忘れたが、こお部分は妙に印象に残っている)。

私がかつて学生時代に教えられた教育学(40年ほど前)では、「めだかの学校」は、戦前の学校の象徴としての「すずめの学校」(清水かつら作詞、弘田竜太郎作曲)との対比でとりあげられていた。 「すずめの学校」(すずめの学校の先生はむちをふりふりチイパッパ) が軍国主義の学校、「めだかの学校」は戦後民主主義の学校という訳である。

しかし、「すずめの学校」は大正10(1921)年作、戦前の中では軍国主義とはもっとも遠い時代である大正時代に生まれた歌である。これを軍国主義と結 びつけるのには無理がある。また、S先生が言われるとおり、「誰が生徒か先生か」という状態は学校の在るべき姿ではない。時には鞭(教鞭)をふることも大切である(音楽ではタクトを振る)。

歌で二分化できるほど現実は単純ではない。

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