« 2012年1月 | トップページ | 2012年3月 »

2月29日

何となく1日得したような気になる日だが、まだ私自身が得になることはしていない。ただ早起きして午前中は人の手助けができたので気分はいい。あと残り9時間。何か「得」か「徳」か「特」のどれかをしよう。

| | コメント (0)

もう一度走りたい。

今朝は、昨日の東京マラソンのことが各局で報道されている。オリンピック選考会を兼ねているが、市民マラソン大会でもある。このような報道に接するとまた走ってみたいと思う。

50歳になった2000年ごろから2006年頃までは走ることに夢中だった。人生の最大の関心が走ることだったと言っても過言でない。だいたい、朝10キロ、夕方に10キロ走るのが日課だった。走ったあと飲むのが最大の楽しみだった。それでもそれなりに仕事はこなしていたと思う(仕事にもよい影響を与えていた)。

2001年から2006年までに出場して完走した市民マラソン大会は次の通り。

・100キロマラソン 1回(2003) サロマ湖
・フルマラソン(2002、2002、2003、2003、2004、2005、2006)
・30キロマラソン(2003、2004) 2回 青梅マラソン
・ハーフマラソン6回 (2001、2002、2002、2002、2003、2006)
・その他 5回

自分ながらよく走ったものだと思う。フルマラソンを最初に走ったのが、52歳の誕生日の数日後。最後が56歳の誕生日の2ヶ月後。もう一度走ろうと何度かトレーニングをはじめたのだが長続きしなかった。その上、体重は増える一方で、ランニングを始める以前よりも重たくなってしまった。

当時は、4時間を切ることを目標にしていたが、もう少しのところで達成することができなかった。もう4時間を切るのは無理だとは思うが、市民マラソンの規定時間の6時間(または7時間)を切るのはなんとか行けると思う。

60代になったが、もういちど挑戦してみるか。そのまえに体重を15キロ落とさなければならない。

| | コメント (1)

大学生数学基本調査

日本数学会が「大学生数学基本調査」の結果を発表した。その要旨は次の通り。

問1では「平均の定義と定義から導かれる初歩的結論」、「少し複雑な命題 の論理的読み取り」のどちらも誤答率が高く、論理を正確に解釈する能力に問題があることを示しています。

問2。記述式入学試験を課している難関国立大学の合格者を除くと、「偶数と奇数の和が奇数になる」証明を明快に記述できる学生は稀、という結果になりました。二次関数の性質を列挙する問題では、意味不明の解答が多く、準正答のなかにも、すでに挙げた性質と重複する性質を再度挙げる解答が目立ちます。論理を整理された形で記述する力が不足しています。

問3では、平面図形を定規とコンパスで作図するということが何を意味するのか理解していない解答が多く見られました。高校までの教育で、こうしたことがきちんと教えられていない可能性もあります。

定点観測の一環としてこのような調査を継続しデータを集積する意義はある。しかし、次のような提言が意味があるとは思えない。それにあまり数学者らしくない提言だ。

中等教育機関に対して:充実した数学教育を通じ論理性を育む。証明問題を解かせる等の方法により、論理の通った文章を書く訓練を行う。

大学に対して:数学の入試問題はできるかぎり記述式にする。1年次2年次の数学教育において、思考整理と論理的記述を学生に体得させる。

数学の学力を含め、大学生の学力が低下しているのは間違いない。しかし、同年代に占める大学生の比率が高くなれば、その学力が低下するのはある意味で当たり前のことである。大学人は、それを中学校や高校の教育のせいにしたり入試にせいにする前に、まず現実として受け止める以外にない。重要なことは、その現実を受け入れ、そこを出発点として、これから自分がどのような教育をするかを考えることだ。

ただ、これはなかなか難しいことだ。私もついつい自分の教育力のなさを学生の能力や学生が過去に受けた教育のせいにしてしまう。決してしてはいけないことだ。肝に銘じよう。

※大学生の比率の増加に伴い、人口に対する大学教員の比率も当然高くなっている。ということは・・・・恥ずかしくて口に出せない。

| | コメント (0)

数字は独身に限る

原発、普天間、大阪の教育問題・・・・書き出すと重たい問題ばかりで、なかなか文章がまとまらない。下書きはだいぶたまっているのだが、出すべきかどうか悩む。それでちょっと軽い話題。

このブログの左下にあるのは「数独」というパズルである。私は、30代の頃にパズル通信『ニコリ』という雑誌(今でもある)を講読していたのだが、その中でも気にいってたパズルの一つである。ブログパーツからもらってきた。

ルールは次のとおり
・空いているマスに1〜9のいずれかの数字を入れる。
・縦・横の各列及び、太線で囲まれた3×3のブロック内に同じ数字が複数入ってはいけない。

このパズル、私はこの下の難度の問題で30分くらいかかる。10分以内の人もいるようだが、若い頃なら(紙の上で鉛筆と消しゴムを使った)自分でもそれくらいの時間でできた。それだけではない。「集中力を鍛えよう」と思って、紙も鉛筆も持たずに頭の中で数字を埋めていくことにも挑戦したことがある。頭の中で答えを出して、そのあとまとめて答えを書くのである。難度の低い問題ならそれで何とかなった。

もちろんそんなことは今は無理だ。紙と鉛筆を使ったり、パソコン上で数字を入力したりてみても、最後に合わないということがよく起こる。気づかないうちに同じ数字を2度使ったりしている。集中力、すなわち脳みそが衰えているのである。逆の見方をすれば、この手のパズルは脳みそ老化の予防になるのかも知れない(こういう内向きの行動をしているとかえって老化がはやまるという見方もある)。

ところで、この「数独」は以前は「数字は独身に限る」という呼び名だった。「数独」はその略語である。この名称はすごい。確かに、夫婦が二人でいる時間に、一方がいつもこんなパズルに夢中になっていたら逃げられるね(泣)。

| | コメント (0)

光市母子殺人事件

下書きで書きかけの文が、アップされてました。意味の通らない文を読まれた方にはおわびいたします。

最高裁判決が出て、被告の死刑が確定することになった。重たいニュースだが、これまでのブログで何度が発言してきたので発言せざるを得ない(法律論についてはまったく素人だというもどかしさもある)。

私は、遺族の本村洋さんに対する共感もあり、また弁護団のやり方に不信感も持っていたこともあり(今でも多少ある)、一審、二審の無期懲役判決に不満の気持ちが強かった。しかしながら、今ではその気持ちが少しずつ揺らいでいる。

私は死刑制度そのものには反対するものではない。ただしその選択は慎重であるべきだし、またその執行についても慎重であるべきだと思っている。いかなる判断をもってしても死刑を選択せざるを得ないという場合に限られるべきだと思っている。実際には、戦後の刑事裁判ではそのように慎重に裁判が行われてきたと認識している。しかし、最近の判決では従来の基準よりも重い判決が出るようになっている。そしてそれは、法に基づくというよりも社会全体の厳罰を求める動きに沿っているように思われる。

この事件で言えば、1審2審の無期懲役判決を破棄し、高裁へ差し戻した2006年の最高裁判決では、「犯行時の年齢は死刑回避の決定的事情とまではいえない」として、死刑を前提として死刑を回避するために相当に大きな理由を求める方向を打ち出している。原判決が「無期懲役」だったわけだから、検察側に「死刑にせざる得ない事情」を求めるものと思っていたら、弁護側に「死刑を回避せざるを得ない事情」を求めたのである。それに続く高裁判決、最高裁判決の結果ははじめから明らかだった。

本村さんの判決後の記者会見での発言に共感できるし、この被告を救出したいという感情までは湧いて来ない。それでもやりきれなさの残る判決だった。

ただ、はやくもネット上で、遺族、被告、裁判官(とくに反対意見を述べた裁判官)に対する誹謗中傷がはじまっている。これだけはやめてほしいと思う。

| | コメント (0)

ガイドライン

↑ ブログの頭の文は、これを受けてのことです。

| | コメント (3)

いつものこと

Nomisugita

| | コメント (2)

世代間格差(その2)

(承前)

とは言うものの、自分自身をある世代(いわゆる広い意味での「団塊の世代」)の一員として自覚した時には、忸怩たる思いにかられることも事実である。私だけなのか、同世代のほとんどの人が感じているのかどうかはわからないが、先代たちが命を犠牲にしあるいは命を削ってつくりあげてきた財産を私たちの世代が使い果たし、次世代には何も残さないどころか負の遺産まで残したという思いである。

その遺産の一つは戦後民主主義という遺産、もう一つは高度経済成長の遺産である。これらをほとんど一代で食いつぶしてしまったこの迷惑千万な世代は、残された10~20年をどう生きるべきなのか。遺産を食いつぶした責任を果たすべく身を粉にして働くべきなのか、それとも次世代にに迷惑がかからぬよう社会の片隅でひっそりと生きていくべきなのか。

| | コメント (0)

世代間格差

最近ニュースによく出てくる「世代間格差」という言葉。内閣府経済社会総合研究所が出したこの論文がもとになっているらしい。

この論文の要約は次のとおり。

現役期に保険料を負担し引退後にサービスを受益するという構造は、年金、医療、介護の3 制度に共通しているが、受益と負担の関係は世代ごとに異なる。年金、医療、介護による受益と負担を合算し、社会保障からの純受益が生涯収入に占める割合として定義される生涯純受給率を生年別にみると、1950 年生れ1.0%、1960 年生れ▲5.3%、1970 年生れ▲7.8%、1980 年生れ▲9.8%、1990 年生れ▲11.5%、2000 年生れ▲12.4%、2010 年生れ▲13.0%と生年が下るにつれて支払い超過が拡大する傾向にある。このように、社会保障を通じた世代間不均衡は無視できない大きさとなっている。

1950年生れがいつも引き合いに出されるのが気になっていたが、こういうわけだった。ただ、私たちの世代も前世代の社会保障をを支えてきたわけだから、受益の超過ばかりとやかく言われても困る。また、この受益超過も支払い超過も子や孫を通じて次の世代に引き継がれるのでこれ自体が社会的不平等だとは言えない。さらに、この数値はあくまでも平均値であり、実際の問題の現れ方はもっと複雑なものになる。「世代間格差」だけを取り出して問題視するのは意味がないような気がする(経済は自信がないので「気がする」としか言えない)。

社会保障制度そのものが大きな曲がり角にあることは間違いないし、期待している保障がすべて受けられるとは思っていない。たとえ今の制度が続いたとしても、私個人は受益超過にはならないと思っている。それはそれで仕方がない。ただ、私が一番恐れているのは「長生きすることが不安」という状況におかれることである。死を覚悟するよりもはるかに恐ろしい。これは、世代全体に共通する感情ではないだろうか。

| | コメント (2)

『現代教育科学』最終号

月刊誌『現代教育科学』(明治図書)最終号(3月号)が届いた。通巻666号、53年と6ヶ月(途中臨時号も出ている)目である。

1958年創刊だが、私が講読をはじめたのは、教育研究の道を歩き始めた1970代である。その中で最も印象に残っているのが、1980年頃のいわゆる「出口」論争である。斎藤喜博の「森の出口」の授業をめぐる吉田章宏氏と宇佐美寛氏の間の論争である。

斎藤喜博氏は当時の教育界では神様のような存在だった(私もそのように思っていた)。その実践に関する吉田氏の一文を宇佐美寛が批判したことからはじまった論争だった。といってもきちんと両者が切り結んだ論争にはなっていたわけではない。。宇佐美氏が相手の文章をきちんと引用して批判・反批判を続けたのに対して、吉田氏はまるでちゃかしたような駄文を続けるだけであった(私は吉田氏にずいぶん腹をたてたものだった)。論争の結末は見えていた。結局、吉田氏は何もまともに答えないまま論争から逃げたのである。

この論争に実践者として参加したのが向山洋一氏だった。この頃の向山洋一氏の文が私は好きだった。その後は皆さんの知ってらっしゃる通りである。

その後もずっと講読を続けてきたが、ここ10年ほど何となくつまらなくなった。宇佐美寛氏の連載、あるいは自分の関心のある特集の時だけ手にとって読むくらいになっていた。

残念なことが一つ。私が講読している間、音楽教育に関わる論文が一度も掲載されなかったことである。このような雑誌に書ける書き手がいないということか。音楽教育界の力量の問題である。・・・・・この最終号には、当の斎藤喜博がその時にどういう行動をしたかを江部編集長が書いている。

今回この雑誌が廃刊になるのは、採算がとれないかららしい。つまり、教育界の人間がこのような教育雑誌を読まなかったということになる。それは、ある意味では教育界の危機でもある。

| | コメント (0)

太平洋戦争とスメタナ

ユーキャンが「太平洋戦争」というDVDの宣伝をしている。今朝の朝刊には4面刷りの広告特集が入っていた。その上にテレビCM。「詳しくは今朝の朝刊で!」

ここまではよいのだが、そのバックの音楽が、スメタナの「モルダウ」。どうやったらこの組み合わせが生まれるのか。

しかし、よく考えてみると、私がこの組み合わせに違和感を持ったのは、私がこの曲がスメタナ作曲の「モルダウ」であり、この「モルダウ」が連作交響詩「わが祖国」の中の1曲だということを知っているからかもしれない。

スメタナにとっての「我が祖国」は当然のことながら「チェコ」である。しかし、そういう情報さえなければ、つまり音だけの情報としてこの音楽を聴けば、あるいは知識としてそのことは知っていても意識しなければ、この組み合わせにも何の違和感も生まれないのかもしれない。

「我が祖国」の中でも「モルダウ」は他の曲と比べると完成度の高い曲で、また「西欧的」でもあり、スメタナの作品の中では「ナショナリズム」のうすめられた作品でもある。それは、同じ連作交響詩の中の「ヴィシェフラド」と比較してみると分かる(私はこちらが好きだが)。音楽において「西欧的」であるということは、グローバルということである。うっかり、CMに使われても仕方がないというべきか。

| | コメント (0)

今日から入学試験

今日から7日まで入試期間である。

数か月前から、2月1日~7日の間は他の業務を入れないようにという通達があったが、入試期間の具体的な分担が発表されたのは数日前。入試業務は7日(火)だけだった。

他の業務をまったくいれていないので、2月1日~6日は何ら拘束されることがない。ゆっくり遊べる・・・・いや研究ができる。

Img_0125_2
西宮北口駅にて

| | コメント (0)

« 2012年1月 | トップページ | 2012年3月 »