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2012年5月の投稿

2012年5月29日 (火)

採用試験

兵庫県の小学校教員採用試験の音楽実技試験課題は次の二つ
・「おぼろ月夜」を無伴奏で歌うこと。(調は任意)
・「箱根八里」(滝廉太郎作曲)の旋律を任意の楽器で演奏すること。
歌い方のコツ・練習の仕方などを整理しているところ。「箱根八里」の楽譜も準備した。希望者には個人レッスンもする。もちろん、よその学生さんには教えてあげない。

ここまできたか

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音楽の意味

こちらは、雷が鳴り響きにわか雨。
雷がなると雨が降る。これは雷の前兆的意味である。音楽における意味に語るときには、においてはこの前兆的意味(反対語は指示的または象徴的意味)が重要である。音楽におけるある事態(音であれ、フレーズであれ)は次の音楽的な事態を期待させる前兆的意味(例えば、属和音を聴くと主和音が期待される)を持つ。これが音楽的意味の本質である。・・・・とか言ったのはアメリカのマイヤーという音楽学者ですね。20年以上も昔、この説について議論してことを、雷の音を聞いて思い出しました。

2012年5月28日 (月)

乗りません

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学生の飲酒事故

小樽商科大学で、飲酒事故死。事故を問題にする以前に、未成年に酒を飲ましていること、飲んでいること、それを見て見ぬふりをしていることが問題なのだが、これを問題視する人は少ない。・・・・まあ、私が言ってもあまり説得力はないが。

FBより

家人が掃除しながら
「お金はたまらないけど、ほこりと脂肪はよくたまる」

高知から小夏

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2012年5月27日 (日)

プレゼント

妻の友人のえりかさんからのプレゼント
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2012年5月19日 (土)

どんぐりさんのおうち

「どんぐりさんのおうち」というけしからぬ歌に対抗して、移動ド原理主義者の替え歌。

(原曲をそれぞれの調に移調して歌います)。

原曲
「どんぐりさんのおうちどこでしょう? ふたつのおやまのひだりがわ」

変二長調 「・・・・ふたつのおやまのひだりやま」
二長調 「・・・・ふたつのおやまのあいだです」
変ホ長調 「・・・・ふたつのおやまのみぎのやま」
ホ長調 「・・・・ふたつのおやまのみぎがわよ」
ヘ長調 「・・・・みっつのおやまのひだりがわ」
変ト長調 「・・・・みっつのおやまのひだりやま」
ト長調 「・・・・みっつのおやまのなかとひだりのあいだ」(早口で)
変イ長調 「・・・・みっつのおやまのなかのやま」
イ長調 「・・・・みっつのおやまのなかとみぎのあいだ」(早口で)
変ロ長調 「・・・・みっつのおやまのみぎのやま」
ロ長調 「・・・・みっつのおやまのみぎがわよ」

2012年5月13日 (日)

連携

幼小連携、小中連携、中高連携、高大連携、、、、、とった、言葉が教育界で流行している。東京都には、いわゆる小中一貫校がだいぶできているようだ。また、中高一貫の県立学校も全国で生まれている。それでどんな成果が上がっているのかは、よくわからない。

学問的にきちんと調べて検討したわけではないが、私はこの「連携」という言葉には懐疑的である。どうも、行政の都合、あるいは現場の都合はあるにしても、上の学校の都合だけでこうした施策が進められているだけのような気がする。そこに働く先生たちからもあまりいい話は聞かされない。

そもそも学校の制度が、幼、小、中、高、大に区分され、それが長い間維持されてきたことには、それなりの意味があるはずであるからではないか。それぞれの学校もにはそれぞれの時期の役割がある。それぞれの学校で一応区切りをつけ、そして新しい学校で心機一転再出発する機会があることはよいことである。つま 過去を一旦リセットして、新しいステージを迎えるということである。

「連携」とか「一貫」という言葉のもとで、学校間の区分がなくなってしまえば、いつまでも過去の自分をひきって歩かなければならなくなる。これは子どもたちにとっては不幸なことだと私は思っている。

それぞれの学校は、いまある現在の子ども(児童、生徒、学生)の姿をそのまま受け入れ、再出発させるための教育をしていけばよいのである。

そろそろこうした学校に関する調査結果がでてきてもよさそうである。もちろん、研究者や研究機関による客観的な調査でなければ意味がないが。

2012年5月11日 (金)

階名唱

今の学生は、階名唱などほとんど経験したことがないようだ。だから、楽譜を見て階名視唱などとてもできない。しかし、それでも楽譜に階名をふらせると(ドの位置がどこかをきちんと教える)、完全とまではいかないまでもある程度の階名視唱ができる。逆にこれをやると音痴になるのが、子どもの頃からピアノを習い、「ドはドに決まっている」という学生である。Cの音をファとよんだりソと読んだりすることが気持ち悪いと言う。不幸だと思う。

このような状況をみると、階名を読む困難さえ克服すれば普通の人(絶対音感をドレミで身に付けた人を除く)にとって階名視唱はそれほど難しくないことがわかる。言い換えれば、相対音感はほとんどの人が身に付けているということになる。

学習指導要領では、「相対的な音程感覚を身に付けさせるため、適宜、移動ド唱法をもちいる」ことになったが、むしろ階名唱は音楽経験によって身に付けた相対的な音程感覚を視唱や音楽理解に利用することということになる。もちろん階名唱をすれば音程感覚はさらに精度を増す。

トニック・ソルファ法やコダーイの方法などによれば、階名を読むことはそれほど困難でない。にも関わらず、学習指導要領では階名による視唱は小学校ではハ長調・イ短調に限定してしまっている。これでは、「ドはドに決まっている」という観念から抜け出させるのは無理である。また、多くのピアノ教師は幼い子どもに「ドはここです」と固定的に教える(「Cはここです」と教えてくれていたらどれだけ、階名が教えやすいか)。私は、これをてっとりばやくピアノを弾かせたいというピアノ教師のエゴだと捉えている。そして学校教育もこのピアノ教師のエゴに迎合しているのである。

「どんぐりさんのおうち」という歌がある。よくこんなばかげた歌が掲載されている教科書が検定をくぐり抜けてきたとあきれるばかりである。

・・・・・・・・・・・・・・・
とここまでは移動ド原理主義

私は上のような移動ド原理主義者ではない。
で、現実的な提案も含めた論文を書き始めた。(続く)

2012年5月10日 (木)

実地教育研究

2年次の学生が毎週木曜日に学校園に行って観察や学習補助などの実習を行う「実地教育研究」。先週で事前指導がおわり、今日から学生たちが各校に出かけた。計8日の実習を行う。私の受け持つクラスの21人の学生は5市7校に散らばった。

この間の私の役割は、この8週の間に実習校を訪問することと、21人が毎週提出してくる観察記録を読み赤を入れて返すこと。

観察記録は、A3版1枚の様式に、観察した授業や生活指導の記録、補助した活動の記録、1日の自分自身の学習をぎっしり書かせる。締切はその週の金曜日まで。私はそれに赤を入れて火曜日に返す約束をしているのでかなりきびしい。昨年は土曜か日曜のどちらかが1日つぶれていた。宇佐美寛氏ではないが、「敵も苦しい」と思ってがんばるしかない。

実習生が行っている学校への訪問をはじめた。今日は2校。どの学校も協力的でありがたい言葉をいただける。阪神地方は東京と同じで東西への移動が難しい。おまけに車も持ってない(前記事参照)ので、自転車で訪問をすませた。

車は凶器(暴論)

また、高校生の列に自動車が突っ込むという事故が起きた。この所、痛ましい自動車事故が続いている。被害者やその家族・遺族の方々は事故の理不尽最にやりきれない思いだろう。一連の自動車事故の責任は、もちろん運転者にあるし、その罪は厳しく問われるべきである。

しかし、いろいろな事故の原因を考えてみると、問題はもっと大きなところにある。それは、かつてはだれもが合意していた「車は走る凶器」という認識が薄まってきていることにある。車は一歩間違えば凶器である。数日前の京都の事故や高速道路のバス事故のように、運転者が居眠り運転をすれば大事故になる。それほど悪質な違反でなくても、ちょっとした心の油断が大事故を引き起こすこともある。

結局、事故が起きる原因は、凶器を所持し操作しているという自覚も能力もない人が自動車を所持し運転しているということにつきる。

「暴論」と言われそうだが、次のような対策をすべきである。

1 運転免許の取得を厳しくする。例えば、現在の一種の基準を現在の二種くらいまで引き上げる。
2 違反の罰則規定を厳しくする。例えば、いかなる違反も一発で免許取り消し。
3 免許の更新を厳しくする。例えば取得時と同じレベルの学科試験と技能試験を受験させる。
4 自動車の購入(所持)条件を厳しくする。自動車を所有する理由のない者は所有できない。
5 自動車の保有者の管理責任を厳しくする。事故が起きた時には保有者も責任を負う。

要するに、法律を厳しくして自動車そのものを減らすしかない。とくに自家用車をなくすことだ。今の日本でそのなことは無理だと言われそうだが、自家用車がなければ生活ができない社会が異常なのである。

この狭い日本に、車社会は似合わない。私自身は運転能力も自動車の管理能力も欠けていることを自覚しているので、20年ほど運転もしていないし、車も持っていない。運転免許証も捨てた。

2012年5月 3日 (木)

主我を愛す

GWの中日の1日(水曜日)。以前から、学校礼拝で話しをするように依頼されていた。私は、ここにも書いたように心に染み入るような話しをするのは苦手である(シモネタなら大丈夫だが、学校礼拝では死んでもできない)。当然、音楽の話しになる。私が選んだタイトルは「主我をアイス」(カタカナにした意味は何もない。話しのタイトルをメールで送った時に全く確認せず出したらカタカナだったようだ。単なる変換ミス)

2~3日前から風邪で声が森進一状態だったが、それも一つの表現法と思って礼拝にのぞんだ。与えられた時間は20分。その中で次のような話しとパフォーマンスをした(出席者はいつもより少なく30名程度)。
(1)1番をギター(フォーク)弾き語りで歌う(旧賛美歌版「主我を愛す」の歌詞。ニ長調だが、声が出ないのでハ長調で。コードも弾きやすい)
(2)阪田寛夫『童謡の天体』(講談社)を紹介しながら、この曲が明治時代から歌われていたことを話す。阪田寛夫は、聖和大学・聖和短期大学学歌「新しき歌」の作詞者でもある(格調高い歌詞だ)。
(3)同じくギター伴奏で明治時代の歌詞で歌う(「エス我を愛す」)
(4)大阪弁の歌詞も存在したことを話し、ギター伴奏で歌う(エスはんわてを好いたはる)
(5)私の祖父が「我が主エス」の部分で頭を深々と下げていたこと、4番まであるので12回頭をさげていたことなどを話す。
(6)私は子どもころふざけて「・・・おそれはあらじ、かぜかぜ吹くなしゃぼん玉とばそ」と歌っていたことなどを話す(歌つき)。「おそれはあらじ」「こわれて消えた」が同じ旋律であること、どちらも「ファ」と「シ」がないことなどを話す。
(7)この歌の歌詞のポイントは、主語が「我々」「私たち」ではなく「我」「私」であることを話す。「私たち」より「私」のほうが強い。
(8)出席者といっしょにこの歌をいっしょに歌う。リフレの部分のアルトとテノールを練習する。ベースは同僚にオルガンを弾いてもらう。(ここから二長調に戻す。声はひどいが勢いで歌う)
(9)最後にみんなでギター伴奏で歌う。少しポップ調の「主我を愛す」になった。最後にリフレをもう一度繰り返し、最後の「我が主エス」で止め、「我を愛す」をゆっくり歌う(ちょっと悪のり)。

というわけで、ちょっとは楽しい礼拝の時間(?)になったかナ。

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