ミカドの肖像
猪瀬直樹著『ミカドの肖像』(小学館文庫、2005、初出は19
鋭い筆致で西武(コクド)の堤一族の闇をえぐり出すところはじま
お願いだからすぐ辞めてほしいと思うのは、猪瀬ファンだからかも
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土・日に東京で学会が開かれた。日曜日の午前に分科会の司会を依頼されていた。1日目の懇親会のあと、一人酒場で飲んだ。あとどうやって帰ったかは覚えてないがちゃんとホテルに帰っていた。ただし、朝、目を覚ましたら10時を過ぎていた・・・・・大変だ!と思ったら、もう一度目が覚めた。これは今朝の夢である。
最近こういういやな夢をよく見る。
大事な会議をすっぽかした。
担当の授業を一科目忘れて一学期間ずっと欠講した。
講演の約束をして当日行くのを忘れた。
たばこの夢もよく見る。私は50歳くらいまでは、セブンスターを1日に50本(酒を飲み出すと100本くらい)も吸う超々ヘビースモーカーだった。もうやめて13年になるが、夢の中では、喫煙者に戻っている。「ああ、今日は一箱吸ってしまった。でもいつでもやめられるからいいや」と思っている自分がいる。
目覚めて夢だったと気づいてホッとするまでに時間がかかるので後味が悪い。
他人に対する憎悪、あるいは社会(世間)に対する憎悪を自分のエネルギー源、生き甲斐にする人がいる。若い時代なら精神的未成熟としてすまされるだろうが(私自身そういう面が強かった)、いい年こいた大人がそんな生き方をしているのは見苦しい。また、そういう人間とまともに喧嘩するのもおとなげないし、みっともない。
国レベルでも同じだ。他国や他国民に対する憎悪を国家のアイデンティティにしている国がある。不健全なナショナリズムの典型であり、国民も国家も未成熟だと言う以外にない(他国のナショナリズムを認めるのが健全なナショナリズムである)。
だからと言って、それに対抗するために自分たちまでそのレベルに成り下がることはない。それが日本や日本人を辱めていることに気付いてほしい。
「ふるさと」について書いたついでにもう一つ。
2004年頃、私が日記に書いた記事である。作家としての猪瀬さんはよかった。政治家になったのが間違いなのかも知れない。
私がこの日記を書いて10年たったが、この時に予想した通り私には今だに無理である(泣)次のような文章がある。
東京音楽学校の一室。午後一時なのに電灯が光っている。
その日、六月二十二日は終日雨降りだった。
下は二十八歳、上は五十八歳までの十二人の男が、所在なげに番茶をすすっていた。階下の練習室からピアノの音がくぐもって響いてくる。
「じゃあ、みなさんお揃いになったようなので、ぼちぼちはじめましょうか。本来ならば小山(作之助)先生がここにおるんだが、本日は都合がつかず欠席です」
切り出したのは、正面に座った校長の湯原元一である。それからやや背筋を伸ばし、あらたまった口調になった。
「それではただいまより第一回小学校唱歌教科書編纂委員会を開催したいと思います。みなさん、ずいぶん急な招集なので、きつねにつつまれたような心境なの ではないかと思います。文部省から渡部(薫之介)図書課長がおみえになっておられますので、まず本会の趣旨をお話しいただきましょう」
会議は、あわただしい日程で招集された。文部省から通知が発送されたのはわずか四日前なのである。
「このたび、ご多忙のところお集まりいただきましたのは、文部省の方針にご協力願いたいからであります」
出席者を品定めするような冷徹な視線をさらりと浴びせ、つづけた。
「まあ、釈迦に説法を承知で申し上げますとですな、小学唱歌がてんでんばらばらに教えられているような次第で、これをなんとか正したいということがありま す。『読本唱歌』の名称で検定唱歌集が各種出版されておるんでありますが、程度もだいぶちがうし方針もまちまちです。こういう状態はのぞましくない。統一の必要があるわけです」
辰之は思った。なるほど、そういうことなら、自分はおつきあい程度に聞いておればよいのだな。
渡部課長は、咳払いをして一気に核心へ入ろうとしていた。
(猪瀬直樹『唱歌誕生 ふるさとを創った男』文春文庫・1994・500円/オリジナルは1990年・NHKブックス)
舞台は、1909(明治42年)。文部省編纂の唱歌教科書を編纂するための第一回目の会議のようすである。ここで登場する辰之というのは「ふるさと」の作詞者、高野辰之である。作曲の岡野貞一ももちろん同席している。最年長の58歳とは上眞行、一月一日(としのはじめのためしとて)の作曲者である。欠席の小山作之助は「夏は来ぬ」の作曲者。後に「早春賦」を作詞する吉丸一昌も同席している。音楽教育史上に名の残った人たちがこの場所にいた。
この会議を通して、『尋常小学読本唱歌』が翌年に、『尋常小学唱歌』が1911年から14年にかけて刊行される。
この尋常小学唱歌の中には、現在でも「文部省唱歌」として歌われている、「かたつむり」「紅葉」「茶摘み」「春の小川」「鯉のぼり」「冬景色」「朧月夜」 「故郷」などが収録されている。いわば歴史的な会議だ。
猪瀬直樹はもちろんあの「道路公団民営化」の猪瀬である。民営化問題では一勝一敗という評価を私はしているが、作家としては好きである。この猪瀬が唱歌に ついて書いた本である。
猪瀬は、この部分を『小学唱歌編纂日誌』などの歴史的な資料を参考にしながら書いている(この本を書くための資料の多くを猪瀬に提供したということを、神 戸大学の岩井正浩氏がどこかに書いていたが、どこに書いていたかがどうしてもわからない)。部屋の中の様子や、渡部課長の言葉の一つ一つは、もちろん猪瀬 の創作である。また、高野の気持ちが書かれている部分も、高野の以前の日誌からの推測による創作である。
創作と言っても、ノンフィクションだからかなりリサーチをし、膨大な資料を読んで書いてあるはずだ。実際にこの本の巻末に掲げられている参考文献も膨大な量だ。これらの資料に作家らしい想像と創造を加え、リアリティーのある場面を描いているのである。研究者の書いたものに比べると何と生き生きとしたものになっているか(もちろんその土台には研究者の地味な仕事の成果があるのだが)。作家の想像力と創造力は本当にすごい。
いつかこういう読みものも書いてみたいのだが、無理だろうな。
今や国民的な愛唱歌となった「ふるさと」。ちょっと不思議なことに気付いた。
日本の唱歌、童謡、歌謡曲の3拍子の曲には、ある決まったリズムパターンがある。
それは、「チャチャチャンチャン」(”88 4 4” 1拍目が8分音符で2、3拍目が四分音符)のリズムパターンの曲が多いということだ。
たとえば次のような曲である。
・「海」(林柳波作詞 井上武士作曲) うみはひろいな おおきいな
・「こいのぼり」(近藤宮子作詞 小出浩平作曲) やねよりたかい こいのぼり
・「背くらべ」(海野厚作詞
中山晋平作曲) はしらのきずは おとどしの
・「人生劇場」(佐藤惣之助作詞 中山晋平作曲) やるとおもえば どこまでやるさ
・「星影のワルツ」(白鳥園枝作詞 遠藤実作曲) わかれることは つらいけど
このように「チャチャ・チャン・チャン」というリズムになったのは、歌詞と関係がありそうだ。唱歌や戦前の童謡、歌謡曲は歌詞が七五調のものが多い。この七五調の歌詞に3拍子の旋律をつけると次のようにならざるをえない。
・七の部分を3+4または3+4に分ける。そうすると4の部分が3拍におさまらずどこかの拍を分割することになる。この場合、一拍目を分割するのが日本語にとって一番自然に感じられる。
例えば、「海」が 4 4 4/4 4 88 や 4 4 4/4 88 4 だとちょっとおかしい。
・五の部分は 88 4 4 /2 休/ とするとピッタリである。
ところが「ふるさと」は同じ3拍子でもこのリズム・パターンではない。
それは「ふるさと」の歌詞が七五調になっていないからだ。
うさぎ おいし かのや ま
最初から三拍子の旋律をつけることを意図して作ったようだ。
「ふるさと」の2段目まで讃美歌のようにきこえることがあるのもそのためであろう。
ところが、この「ふるさと」にも「チャチャチャンチャン」が突然3段目に現れるのである。
それも、「チャチャチャンチャン」にする必然性はまったくないのだ。
ゆめは いまも めぐりて
つまり、「ゆ」「い」「め」の音節をわざわざ分割してまで、「チャチャチャンチャン」にしてしまったのだ。
では、この部分を「チャチャチャンチャン」ではなく、1、2、4段目と同じリズムにしてしまうとどうなるか。
原曲を生かすと次のようになるのだろうか。
レ レ ソ ドー レ ミ ファ ファ ラ ソ - - (移動ドです)
ぜひ歌詞で歌って見ていただきたい。これでも悪くはないがちょっと平板だろうか。
「ふるさと」の旋律が「ふるさと」を思い出させるのは、この「チャチャチャンチャン」があるせいかもしれない。
そう考えると、なんと絶妙な「チャチャチャンチャン」かとも思えてくるのである。
同じ3拍子「冬景色」(チャチャチャンチャンがない)のとっつきにくさ(格調は高いが)と比較すると、なおさらそれが引き立つのである。
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