北朝鮮でキム・ジョンウンの義理の叔父にあたるチャン・ソンテク氏が処刑されたそうだ。そして、氏につながる何千人もの人々の粛正も予想されている。
恐ろしい国だ、野蛮な国だと言うのは簡単なことだ。しかし、問題はそれほど単純ではない。
学生時代(1969年~70年代はじめ)に、「平壌は心のふるさと」という歌の好きな友人がいた。
ハツ・セイヨン 作詞
関鑑子 訳詞
流れとうとう 水豊かに
飛び散るしぶき 玉とひかる
岸辺を歩む 若者たち
明るい明日を語らいながら
希望に燃える
ああ 心のふるさとよ
平壌 われらの行く手見守る
そう、この歌のとおり、当時は社会主義国北朝鮮は「地上の楽園」と考えられていたのである。社会主義国の中でも、ソ連や中国についてはそれなりに情報があり、その中には否定的な情報も含まれていた。また日本共産党ですらソ連や中国に対しては批判していたくらいだから、社会主義が絶対的に正しいと考えることもなかった。しかし、北朝鮮だけは情報も少なかったので、「地上の楽園」とまでは思わないが、豊かで幸せな国と思いこんでいた。「チュチェ(主体)思想」というのも、中ソと一線を画すすばらしい思想だと何となく思っていた。
もちろん、情報が少ないことに懸念もあった。それだけ自由がないということだ。しかし、ずっと北と南は戦争状態にあったのだ(今も)。38度線は国境ではなく、軍事境界線(休戦ライン)なのである。戦争を止めたのではなく休止しているのである。そのような中である程度の情報が制限されるのはいたしかたない。私もそのように思っていた。
言論の自由の制限は、南の韓国ですら同じだった。最高刑を死刑とする反共法(後に国家保安法)が80年まで存在した。また後に大統領になった金大中や詩人の金芝河など多くの人々死刑判決を受けた。金大中が日本滞在中にKCAIに拉致されて韓国に連れ去られる事件もあった(日本に対する重大な主権蹂躙である)。
北朝鮮のことを「共和国」と呼び、韓国を「南朝鮮」と呼ぶ人も当時は多かった。1965年に日韓基本条約が締結されたときには、日本国内では多くの人が反対した(私はそのころ中学生だったから当事者ではないが)。それはこの条約が「韓国」を朝鮮半島を代表する唯一の正統な政府として認め、北朝鮮を国家として認めない条約だったからである。
そして、北を「楽園」と思っていたので、多くの在日の人々が北朝鮮に帰国していった。これについては保守・革新を問わず日本の多くの団体個人がこの帰国事業を支援した。そして約10万人が帰国したと言われ、その中には日本人の妻やその子どもたちも含まれていた。さらに帰国した北朝鮮からは、帰国者の「幸せな日々」が伝えられ、日本のマスコミもこの帰国事業を礼賛する記事を書いた。北朝鮮に対する好感はこの帰国事業によっても増幅されたのだと思う。
この事業を日本政府による在日朝鮮・韓国人の追放運動とみる見方もあるが、私は北朝鮮による在日朝鮮人支配のための人質政策だと思っている。北朝鮮にとって在日は大きな金づるなのである。
次第に北朝鮮の実態が知られるようなって、北朝鮮に対する見方が変わってきた(私も同じだ)。金日成ファミリーの独裁国家だと言うことが明らかになった。帰国して行方がわからなくなった人がいる。在日の親類から連絡がつかなくなった。。豊かな国どころか貧困が伝えられるようになった。「まさか」と思っていた「拉致」までやっていた。そして日本に向けてミサイルを発射してくる。
いくら情報が少なかったとはいえ、北朝鮮を一瞬でも地上の楽園だと思ったことを恥ずかしいと思っている。私はまだ一個人だからよいが、当時北を礼讃し結果として金ファミリーの独裁を助長した団体や人々がいる。それなりの総括が必要なのではないかと思っている。
もちろんだからといって、私は在日の人々、とくに朝鮮総連につながる人々を敵視はしない。あの人たちもまた金ファミリーの独裁の犠牲者なのだと思う。
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