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本日討ち入り

今日は、12月14日、赤穂浪士の討ち入りの日。一つの物語としては大好きだが、史実として考えると一大暴挙である。

殿様(たぶん「癪」だったのだろう)が、些細なことで吉良上野介に切り付け、即日切腹の上お家を断絶させられた。吉良上野介が浅野からの心付けが少なかったことに腹を立て、馳走役の指南のさいにきちんと教えなかったり、嘘を教えたりして嫌がらせをしたというのは作り話であろう。馳走役に粗相があれば、指南役でさえ責任は免れ得ない。上野介もなぜ自分が切り付けられたのか心当たりもないだろう。そしてその仇討ちと称して、大挙して(といっても47人)吉良家に討ち入り吉良の首を取った。まあ、逆恨みも良いところである。吉良さんも、何で自分が首を取られなければならないのか、不思議に思いながら死んでいったのではないか。

浪士たちも浪士たちで、討ち入りなどしなければしないで済むはずだったのだろうが、さまざまな理由で討ち入りに追い込まれたのだろう。名誉欲、意地、面子、生活苦など個々に理由は異なるだろうが、「仇討ち」という大義名分によってそれらはすべて覆い隠される。喧嘩両成敗という法度を破って浅野だけを罰した幕府への抗議という説もあるが、吉良は何の抵抗もしなかったのだからその理由も成り立たない。

史実ではないが、しかしそれを扱った物語は面白い。私が一番好きなのは森村誠一『忠臣蔵』(全5巻・角川文庫)である。内蔵助が山科で遊び呆けたのは、相手を油断させるためではなく本当に遊びが好きだったから。そして討ち入りを決断したのは、お家再興もかなわなくなり、名を後生に残すことを目的にしたため。他の登場人物も一人一人個性豊かに描かれている。

池波正太郎の『おれの足音』(文春文庫・全2巻)、『堀部安兵衛』(新潮文庫・全2巻)もなかなかのもの。前者は内蔵助の、後者は安兵衛の生涯をさわやかに描いている。

湯川裕光『瑤泉院―忠臣蔵の首謀者・浅野阿久利』 (新潮文庫) という際物っぽいのもある。

いずれにせよ、忠臣蔵という物語が人々に愛されるのは、生と死について考える機会を提供しているからではないか。この物語には、「死」の場面が3度出てくる。最初は内匠頭の切腹、次が上野介の死、そして最後に浪士たちの切腹。「死を覚悟する」というのはどのようなことか。死はおそかれはやかれやって来るものだが、その日をはっきり知った時はどんな気持ちになるのだろうか。忠臣蔵の物語を読んだり視たりする度に考える。

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