生活のリズム
新学期の授業開始から2週間あまりたった。気がついたのだが、今
新学期の授業開始から2週間あまりたった。気がついたのだが、今
息子の入学式のため担任クラスの入学式を欠席した教師のことが、埼玉新聞で次のように掲載された。
県西部の県立高校で50代の女性教諭が長男が通う別の高校の入学式に出席するため、担任を務める1年生の入学式(8日)を欠席していたことが分かった。新入生の保護者らは「今の教員は教え子より息子の入学式が大切なのか」と困惑している。
県教育局によると、県内の県立高校では、ほかに男女3人の担任教諭が子息の入学式出席を理由に休暇届を提出し、勤務先の入学式を欠席した。
関根郁夫県教育長は11日に開いた県立高校の校長会で「担任がいないことに気付いた新入生や保護者から心配、不安の声が上がった」と、この事実を報告した上で「生徒が安心して高校生活をスタートできる体制づくりと心配りに努めてほしい」と異例の“注意”を促した。
関係者によると、入学式の担任紹介の中で校長が女性教諭の欠席理由を説明。女性教諭は「入学式という大切な日に担任として皆さんに会うことができないことをおわびします」という文章を事前に作成し、当日、別の教諭が生徒らに配ったという。
来賓として入学式に出席した江野幸一県議(刷新の会)は「担任の自覚、教師の倫理観が欠如している。欠席理由を聞いた新入生たちの気持ちを考えないのか。校長の管理責任も問われる」と憤慨。
県教育局は「教員としての優先順位を考え行動するよう指導する」としている。
週刊誌でも次のような見出しで取り上げられている。
「息子の入学式のため担任クラスの入学式を欠席した教師を支持し
このようなことがニュースになることも、このようなことを問題にすることもナンセンス(久しぶりに使うなあ)である。
自分の行動について意思決定する場合、いつも決まった規範がある
今回のケースも、教師はいろいろな状況を考慮し、あえて家庭を優
これだけのことである。この教師は何ら服務規則に違反することも
さらに一県議がその学校名をさらして人格攻撃したために、その教
犯罪にも違反にもあたらないたった一度の意思決定の結果だけをみ
読売新聞朝刊記事(抜粋)
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政府は、学長主導の大学改革を促すため、教授会の権限を抑制し、学長に対する助言機関に位置づけることを柱とする、学校教育法・国立大学法人法改正案の骨
子を自民党文教部会に示した。教授会が審議する事項は、(1)教育課程の編成(2)休・退学処分など学生の身分(3)学位の授与(4)教員の業績の審査な
どに限定するということ。
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現在の大学の教員の役割は大きく3点。教育、研究、大学管理運営。改正案は、基本的には大学の管理運営に一般教員は口出すなということ。こうなると教授会
の議題は減って会議は短くなるし(これはうれしいことだが)、教員は教育と研究だけに専念できるということになりそうにみえる。しかし、一方で大学の管理
運営は一部の役員で文部科学省などの言いなりに決められるので、一方的に不本意な業務が押しつけられ、それに対して意見も言えない状態が生まれるかもしれ
ない。2004年の国立大学法人化で、学長の権限が強化され教員の間に閉塞感が広がっていったが、それがさらに進んでいくことになるだろう。また、今回は
学校教育法の改正も含まれているので、私立大学でも同様のことが進行していきそうだ。
私は、もう10年以上前に「大学の自治」を次のように定義したことがある(個人HP内「ひねくれ教育事典」)。
「もうすっか
り死語に近くなってしまった言葉。行政の力が強くなったせいもあるが、(死語になった)一番の理由は大学自治の恩恵を一番多く受けた人たちが、大学の自治
をすっかり食いつぶしたせい。その人たちは、食いつぶしただけでまったく修復もせずに大学を去っていく」
これを書いたころは、まだ自覚をしていなかったのだが、私自身も結局食いつぶし世代の一部になってしまった。あと数年。どう生きていくか。
(FACEBOOKからの転載)
大学の会議が長いことが、大学の教員のFBでよく話題になる。会
(1)会議の終了時間が決まっていない。
終了時間を決め、みんながその時間に終了するよう心がければよい
(2)事実関係についての共通理解ができていない。
事実確認すればすむことを「ああだった」「こうだった」と議論を
(3)原案がない。
「この件についてどうしましょうか」とか・・・・・
(4)文書を読めばわかることを長々と説明する人がいる。
一番ひどい例は、文書をだしておいて、「読むと長くなるのでかい
(5)一度決まったことを何度もむしかえす人がいる。
どこにでもある一般的な現象。
(6)時間をかけるのが民主主義だと誤解している人がいる。
これもよくあること。
(7)発言して目立とうとする人がいる。
選挙などが近くなるとそういう人がいる。
(8)多数決ではなく、全員一致を原則にしている。
なぜか大学の会議では多数決を避けようとする。私は多数決をして
(9)声の大きな少数派が存在する。
どの社会にも存在する現象。
(10)議長が無能または議長をしている快感に浸っている。
たぶん、これが一番大きな理由。
我が学部の会議は基本的に短い。手際よく決まっていく。おそらく
40代のころ、ディベート(単なる「論争」という意味ではなく、競技ディベート)を習った。中学生・高校生のディベートの大会(ディベート甲子園)においてジャッジを担当したこともある。競技ディベートでは、自分の本来の考え方にかかわらず、肯定側あるいは否定側の立場にたって根拠をもって説得しなければならない。相手をねじ伏せるのではなく、ジャッジを説得することが求められる。
そのせいか、それ以来、いろいろな政治、社会、教育などの問題について自分の主張をすることに慎重になった(それ以前の私はどこへ行っても結構過激な主張をしていた)。ディベートによって、自分の現在もっている考え方とは逆の立場で考えるようになったからである。つまり、反対の人は私の意見にどう反論するだろうかと考えるようになったからである。そう考えてみると、いままで「あほらしい」とさえ思っていた反対意見にも、それなりの根拠があることに気づく。
ディベート的な発想をすると、現在の日本社会で論争になっているさまざまな問題、たとえば、原発、憲法、集団的自衛権、慰安婦、捕鯨、教育制度、などの問題も一方的に結論づけることは難しいことがわかる。もちろん自分なりにそれなりの意思決定や価値判断はしているし、選挙の時にはそのような自分の価値判断に基づいて行動はするが、それを明確に表明したり運動にかかわったりして他人に影響を与えるほど自信があるわけではない。
一方で、これらの問題に対して明確に自分の考えを持ち、その運動に加わっている人たちもいる。そういうふうにはっきりと自分の考えを表明する人のことをうらやましく思うこともあるが、どこかあぶなっかしいなあと思うこともある。賛成派、反対派がかみあった議論をすれば良いのだが、ほとんどかみ合っていないことや、議論の場が公平でないことが多い。
少し優柔不断なようだが、みんながディベート的な発想をすればもう少しよい答えが出てくるのではないだろうか。
と、難しい話しはこれくらいにして。
最近頼まれた仕事を引き受けたほうがよいか、断ったほうがよいか、二人の私がディベートしている。
新年度になり4日目。新入生に対するさまざまなガイダンスが行われている。バタバタしているが、来週の月曜日から本格的に授業がはじまる。
今年度は、カリキュラムの谷間(昨年のカリキュラム改訂で、2学年の科目が3学年に移ったりしたため)で比較的授業が楽だ。この間にしっかり勉強しておく必要があるのが、ついつい低いほうに流れてしまう。
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