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ディベート

40代のころ、ディベート(単なる「論争」という意味ではなく、競技ディベート)を習った。中学生・高校生のディベートの大会(ディベート甲子園)においてジャッジを担当したこともある。競技ディベートでは、自分の本来の考え方にかかわらず、肯定側あるいは否定側の立場にたって根拠をもって説得しなければならない。相手をねじ伏せるのではなく、ジャッジを説得することが求められる。

そのせいか、それ以来、いろいろな政治、社会、教育などの問題について自分の主張をすることに慎重になった(それ以前の私はどこへ行っても結構過激な主張をしていた)。ディベートによって、自分の現在もっている考え方とは逆の立場で考えるようになったからである。つまり、反対の人は私の意見にどう反論するだろうかと考えるようになったからである。そう考えてみると、いままで「あほらしい」とさえ思っていた反対意見にも、それなりの根拠があることに気づく。

ディベート的な発想をすると、現在の日本社会で論争になっているさまざまな問題、たとえば、原発、憲法、集団的自衛権、慰安婦、捕鯨、教育制度、などの問題も一方的に結論づけることは難しいことがわかる。もちろん自分なりにそれなりの意思決定や価値判断はしているし、選挙の時にはそのような自分の価値判断に基づいて行動はするが、それを明確に表明したり運動にかかわったりして他人に影響を与えるほど自信があるわけではない。

一方で、これらの問題に対して明確に自分の考えを持ち、その運動に加わっている人たちもいる。そういうふうにはっきりと自分の考えを表明する人のことをうらやましく思うこともあるが、どこかあぶなっかしいなあと思うこともある。賛成派、反対派がかみあった議論をすれば良いのだが、ほとんどかみ合っていないことや、議論の場が公平でないことが多い。

少し優柔不断なようだが、みんながディベート的な発想をすればもう少しよい答えが出てくるのではないだろうか。

と、難しい話しはこれくらいにして。

最近頼まれた仕事を引き受けたほうがよいか、断ったほうがよいか、二人の私がディベートしている。

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