終わりなき日常
この言葉が生まれたのは、1995年で使ったのは社会学者の宮台慎司氏。
幸せなことなのか不幸なことなのかは判断はできないが、私にとっていつ終わるとも予測できない日常が長く続いていくのは我慢のできないことであったらしい。25歳でこの仕事について以来、5つの職場を転々としてたのもどうもそのためであったようだ。新しい職場は、必ずしもその前の職場に比べて好条件であったというわけではない。家庭的な条件、経済的な条件、精神的安定性といった意味ではむしろ困難が増えたこともある。
それでも職場を変わったのは(変われる先があったことは幸せだが)、一定期間が過ぎればこの日常を終わらせたいという願望が心の底にあったからだと思う。
これまでの職場に在籍した長さは次の通りだ。
6年-11年-8年7ヶ月-7年5ヶ月ー5年4ヶ月(継続中)
というわけで、またこの日常を終わらせたいという願望が強くなってきた。もちろんもう年だから新しい職場を得るのは無理である。ということはもうこの職から離れるしかない。この仕事にそろそろ(というよりだいぶ前から)飽きてきたというのが正直なところである。だからはやめに退場したい。
ただ、職から離れたあとも終わりなき日常が延々と続く。終わりは必ず来るのだが、それがいつかまったく予想できないのがつらい。しかし、明確に○年○年○日と予想できるのはもっとつらいかも知れない・・・・・というようなことが考えられるのは、まだまだゆとりのある日常を送っているということなのだろう。
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