終わりなき日常
この言葉が生まれたのは、1995年で使ったのは社会学者の宮台慎司氏。
幸せなことなのか不幸なことなのかは判断はできないが、私にとっていつ終わるとも予測できない日常が長く続いていくのは我慢のできないことであったらしい。25歳でこの仕事について以来、5つの職場を転々としてたのもどうもそのためであったようだ。新しい職場は、必ずしもその前の職場に比べて好条件であったというわけではない。家庭的な条件、経済的な条件、精神的安定性といった意味ではむしろ困難が増えたこともある。
それでも職場を変わったのは(変われる先があったことは幸せだが)、一定期間が過ぎればこの日常を終わらせたいという願望が心の底にあったからだと思う。
これまでの職場に在籍した長さは次の通りだ。
6年-11年-8年7ヶ月-7年5ヶ月ー5年4ヶ月(継続中)
というわけで、またこの日常を終わらせたいという願望が強くなってきた。もちろんもう年だから新しい職場を得るのは無理である。ということはもうこの職から離れるしかない。この仕事にそろそろ(というよりだいぶ前から)飽きてきたというのが正直なところである。だからはやめに退場したい。
ただ、職から離れたあとも終わりなき日常が延々と続く。終わりは必ず来るのだが、それがいつかまったく予想できないのがつらい。しかし、明確に○年○年○日と予想できるのはもっとつらいかも知れない・・・・・というようなことが考えられるのは、まだまだゆとりのある日常を送っているということなのだろう。
あとで読むと、ずいぶんわがままな人生ですね。
投稿: Takashi | 2014年7月30日 (水) 10時26分
新しい記事にコメントし、少し前の記事の題名に惹かれアクセスしました。恐ろしいほどに私の書くべき文章のよう思えたため、再びコメントをしています。
似ている人は何処かにいるのですね。私は会社やビジネスで同じ印象を持って居ました。そして新しい学校の仕事に興味が湧いて10年ほど、その前の大学の非常勤を入れたら20年間、教育関係の仕事を主にしてきたのです。
そうなんです。あきるのです。飽きる理由をさらに演繹できますが、迷惑をかける人がいると申し訳ないのでやめます。
今は南無阿弥陀仏とお呼びがかかるまで、塾に近いNPOのバドによるシチズンシップ教育をしてみたいと考えています。でもお呼びがかからずこのままお陀仏かもしれません。
今日の気持ちは不思議です。上手く表現できません。でも、ありがとうございます。
投稿: tsuguo-kodera | 2016年2月 2日 (火) 07時07分