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阪神淡路大震災

阪神淡路大震災から20年。

私は当時東京暮らしだった。東京から高知の家族のもとに戻るときには、新幹線を利用することが多かった(飛行機はあまり好きでない)。震災の影響で、その時は新大阪・姫路間が不通だった。関学のある西宮甲東園付近の桁が崩壊したからだ。

新幹線が復旧するまでは、新大阪から姫路までは在来線とバスが代替した。ただ、神戸市内の三宮付近だけはバスも動かず歩いて移動した記憶がある。そのときに震災後の三宮の崩壊したビルを見て震災の恐ろしさをこの目で感じた。

偶然のことながら、6年前から震災のあった地方に住むことになった。今は震災の影すら見えないほど、復興を遂げている。最初に勤めた頃は、震災の記憶のある学生がいたが、現在ではほとんどいなくなった。それどころか震災後に生まれた学生も入学してきた。直接の被害にあった人々を除いて、震災の記憶もだんだん薄れてきている。

しかし、忘れてはならない。20年前にこの地で起きた悲劇を。そして、そのような悲劇がまた今日にでもこの日本に起こりうることを。そしてそれは避けることができないことを。

犠牲者の冥福を祈るとともに、危機に備えよう。もうすぐ、5時46分だ(合掌)

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授業終了

2014年度の授業は昨日で終わった。もちろん大学は休みでないので、毎日通う。雑用がまだまだ山積み。

・成績
・委員会の仕事
・諸会議
・新年度の授業準備(全面的な見直しを行いたい)

あとは、勉強と研究・・・これがどれだけできるか。
それにどうしてもやらなければならないことがある。それに取り掛かる予定。

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7×70

新約聖書の次の箇所を思い出した

イエスは言われた。「あなたに言っておく。七回どころか七の七十倍までも赦しなさい」(マタイによる福音書 8章 22節 新共同訳)

なぜ、思い出したかというと、学生から数え切れないほど裏切られたからである。しかし、教師がここで切れてはいけない。数え切れないと言っても、一人の学生から490回も裏切られたわけではない・・・・と思いつつ、自分の心を鎮める。

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違和感

今朝の新聞広告
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「頭痛が痛い」と同じですね。

という記事とは関係なく、「違和感」という言葉について。

「違和感」というのはとても便利な言葉である。どこが痛いという訳ではないのだが、なんとなく体調がおかしいと感じる場合に「違和感がある」というような使い方をする。こういう場合は、なんらかの病気のあらわれの場合が多いので医者に診てもらってその違和感の正体をはっきりさせたほ うがよい。

さらにこの「違和感」は意見の表明に使われることがある。「○○の発言には違和感がある」。つまりその根拠がはっきりしないが何となく反対したいときに使う言葉である。どうも最近多用されているような気がする(実は私もよく使っている)。

しかし、日常会話ならいざ知らず、議論や文章の中で違和感だけを表明するのは如何なものか。されたほうは、何が問題かもわからないし反論のしようもない。だから議論の中で「違和感」という言葉を使うのは卑怯でさえある。

違和感というのはそれが違和感である限りは個人的な感覚以上のものではない。もしそれを表明しようとするならば、その根拠を探しだすべきであり、それを違和感の正体として明らかにすべきである。もちろんその場合には「違和感」などという卑怯な言葉を使う必要もない。

というわけで、肝に命じたい。

違和感が違和感であるうちは、「違和感」という言葉を使わない。

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返信メール

大学のある科目の担当者グループだとか、委員会のメンバーでメールをやりとりする(MLをつくるほどではない)することがある。そのメールの中に、内容は1〜2行なのに、以前のメールの残骸がしっぽに長々とくっついたメールを送ってくる人がいる。「全員へ返信」という機能を使えばそのメンバーにてっとりばやく送信できるからだ。ただ、関連する内容への返信ならよいのだが、以前の関係のない内容のメールに返信して、タイトルも「RE::以前のタイトル」というようなメールがある。しっぽの部分がなんと3ヶ月以上 も前の内容だったりする。ちょっと削除すればよいものを。大学教員にもそういうことを平気でやる人がいる。そういう人は、日頃の振る舞いも無礼だ。悪いことに無礼ということに気がついていない。

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夏は来ぬ

まだ松の内だというのに、こんなタイトルで申し訳ない。

なぜこんなタイトルを付けたかというと、日本音楽教育学会の学会誌『音楽教育学第44巻第2号』(元日到着)で村尾忠廣「《夏は来ぬ》はなぜ傑作か」という論文を読んだからだ。《夏は来ぬ》は佐佐木信綱作詞、小山作之助作曲の歌曲である。

私はあまり知らなかったのだが、タイトルからも明らかなように、この論文によるとこの歌は多くの人々によって「傑作」という評価を受けているらしい。著者の村尾氏は「批評的分析」によってこの歌が「傑作」である理由を明らかにしている。詳細は、本文を読んでいただいたらよいのだが、その分析方法はとても興味深いし、分析結果も面白かった。ただし、この歌が「傑作」であるかどうかは保留したい。分析をすれば、誰かが「傑作」だと感じる理由(ある音楽的な特徴)は明らかにできる。しかし、ある音楽的な特徴があることによって、すべての人が「傑作」と感じるとは言えないからだ。私はこの曲に「日本人として美的感性」も「アイデンティティ」もそれほどには感じない(感じるとすればむしろ歌詞のほうである)。

というような議論はまた別にするとして・・・・
実は私もこの歌にかなりこだわっている。

それは、歌詞の1番だ。

卯の花の匂う垣根にほととぎす早も来鳴きて忍び音もらす夏は来ぬ

私は「卯の花」というのは、ずっと前から(いつの頃か忘れた)のだが、「おから」のこととばかり思っていた。おからのことをその見てくれから「卯の花」という呼ぶことがある。だから、この歌詞を「おからの臭い(匂い)につられてホトトギスがやって来た」と解釈していた。どこかでそういう解釈をする人の話も聞いたことがある(忘れた)。

ところが、いろいろ調べてみると(とくにInternet関係)、このような解釈はどこにもない。当たり前のように、卯の花はウツギの木の花になっている。まあ、もちろんこれでも良いのだが、あまりにも当たり前すぎないだろうか。なぜ忍び音なのかもよくわからない。いろいろ調べてみたが、植物の「卯の花」はあんまり匂いがしないようだ。

という訳で大胆な解釈をしてみる。

おからを食べている家庭からにおいがする。そのにおいにつられてホトトギスがやってきた。しかし、そこに卯の花はなかった。それで少し早かったかなと思ったのか、小さな声で恥ずかしそうに鳴いた。

もちろん、ホトトギスが匂いを間違ってやってくるわけではない。卯の花とおからは見てくれはにていても匂いが似ているわけでもない。そのように思ったのは語り手である。

という解釈は子どもじみているのかな。

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1年の計

新年おめでとうございます。本年もよろしくお願いします。「1年の計は元旦にあり」という言葉があるので一応書いておきたい。

2015年も残りあと365日となった。
私の人生も残り少なくなってきた。どんなに健康に気をつけてもあと100年は生きられそうにはない。365日をいかに使うかというのは私にとってとても重要な問題である。

365日は、どんなに引き伸ばしても365日より長くはならない。鶏をだまして、光と闇を操作して30日に31回昼夜が来るように見せかけると、30回目までは順調に卵を産んでくれるそうだが、31回目はお休みするそうだ(この話は昔酪農の研究者に聞いた)。おそらく、夜の睡眠時間を半分にして、その分昼寝をしても、1年が2倍にはならないだろう。

365日を1/10、1/100以下にすることは簡単だ。事実、2014年は1/100どころか、1/366(なぜ、366なのかはよく考えるとわかる)以下だった。要するにあっという間に終わった。このあっと言う間の1年がもうここ20年くらい続いている。だから、この20年は、ああああああああああああああああああああっという間に過ぎて行った。今年は、1年があっという間に終わらないようにするのが目標である。

時間があっという間に終わらなくする手段の一つとして、刑務所に入ることがあげられる。刑務所に入ればおそらく1日が1年のように感じられるだろう。ただ、私にはちょっと難しい。幸せなことに窃盗をするほどには困窮していない(飲み代くらいはなんとかなる)。詐欺をするほど頭も良くない。人を傷つけるほどの腕力も体力もないし、その前に極めて臆病者なのだ。車を運転しないので事故をおこしたり飲酒運転をする可能性もない。刑務所は諦める。・・・・実は、刑務所に入ると、時間の進行は長く感じるが、過ぎてしまうとあっいう間だという説もある。(ただし、刑務所は拘置所と違ってある日突然人生が終わってしまう心配はないらしい)。

という訳で、365日をあっという間に終わらせないためにどうすればよいか。

(1)これは今まで何度も書いてきた方法だが、毎日の記録をつけること。日記、ブログ、Facebook、メモ・・何でも良いから書くことだ。実は、このブログ、昨年は20日しか書いていない。でも20日分でも読めば5分くらいはかかる。少なくともあっという間ではなかったことがわかる。このブログは「極力毎日更新」としているので、もう少し書こう。

(2)これも当たり前のことだが、1日1日、一瞬一瞬を大切に生きる。実は私ににはこれがけっこう難しいのだ。仕事以外の時間、とくに毎日の朝、夜、休日の使い方に問題があるようだ。朝の時間はそれなりに充実しているのだが、夜がとても短い。その理由はもちろんあれだ。あれをやると、その時間が空白すなわちゼロになってしまうのだ。この空白になる時間をいかに減らすか。残る人生の最大の課題のようだ。あれをやりながら、その時間が空白にならない方法があったら是非教えていただきたい。

こんなくだらないことを書いている間にも、時間はどんどん過ぎてゆく。あほらしいようだが、少なくともこんなくだらないことを書いたという痕跡は残る。

という訳で、1年の計。目標は次の3つである。

(1)
(2)
(3)

実は、私だけが見える目標が書いてある。公言するのはとても恥ずかしいので、その目標が実現できたら、年末に公開することにしたい。

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