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「ごんぎつね」のインチキ

私は、研究者としての40年の間に、たくさんの文章を書いてきた。いわゆる「学術論文」と言われるものから、雑誌のコラム・エッセイまで含めるとその数は数百になるかもしれない。しかし、本当に自分でよくできたと言えるものはほとんどない。できるなら抹殺したいと思うようなものばかりである(一旦社会に出たものは抹殺することはできない。ただし、自分のそばから消すことはできるので、ぜんぶ処分した)。しかし、次の小論は、珍しく自分が気に入っているものである(2002年にローカルな雑誌に書いたものなのであまり人目に触れていないかもしれない)。

私は小学校の国語で教材になっている「ごんぎつね」という作品がたまらなく嫌いだ。これがこの小論を書いた動機である。この小論に対しては、あちらこちらから口伝えでは賞賛と批判の声が聞こえてきた。ただし、文章による評価や批判はなかった。今は考えが少し変わってきている(とくに第3校の音楽教育に関する部分)が、そのまま掲載する。

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音楽科における知

吉田 孝(弘前大学教育学部)

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第4学年の国語科教科書に掲載されている作品「ごんぎつね」(新見南吉作)について書く。この作品は長い間、ほとんどの国語教科書に掲載され続けて来た。本年度から実施された新しい学習指導要領のもとでも、削除されることはなかった。一方この作品は、音楽科では、音楽劇として実践されることも多い。

私がこの作品を最初に読んだのがいつだったかは思い出せない。しかし、その時に違和感を持ったことだけは覚えている。そしてこの作品が小学校の国語の授業の教材として重宝がられていること、中にはこの教材に十数時間の授業時数をかける教師がいることに何か奇妙さを感じていた。とくに、子どもたちがこの教材を涙を流しながら学習しているという実践報告には胡散臭さを感じていた。そして「ごんぎつね」を題材にした音楽劇が音楽科の実践報告として報告されていることに対しても違和感を持っていた。このような実践はいつか批判しなければならないと思っていた。

ただ、この違和感の正体がなかなかつきとめられないでいた。何となくわかるのだがきちんと説明することはできなかった。だからこれまでずっと批判できないでいた。しかし、次の文章を読んでこの違和感の正体がわかった。

「大きなかぶ」。終りの部分である。

作品の引用(省略)

ねずみ・ねこ・犬などの動物が人間と協力して、かぶを抜く作業を手伝うということが、あり得るか。こういう文句をつけたら、どうだろうか。あほらしい。この話を解釈するコードは、そのようなものではない。動物も人間といっしょにかぶを抜くことができるというコードなのである。かぶもくわで掘らないで、抜くことにしてあるコードなのである。 言い換えれば、そういうルールで作者と読者はなれあっているのである。このなれあいは、みんなが安心して楽しめるような、まとまりのある(矛盾のない、整合的な)状態で成り立っていればいればいいのである。

このような「なれあい」が成り立ちうるときに、右の「動物は人間と協力できるか。」などという問いを発するのは、宴たけなわの折に「幹事不信任!」と叫んで投票を要求するようなものである。「なれあい」ルールの外側の異質のルールを介入させることである。酒がまずくなり座がしらけることは確かである。(宇佐美寛「かくれたカリキュラム」『宇佐美寛・問題意識集2 国語教育は言語技術教育である』明治図書、2001、177-78ページ[初出は『国語科授業批判』明治図書、1986年])

これを「ごんぎつね」にあてはめてみる。次のような箇所がある。

次の日も、そのつぎの日もごんは、栗をひろっては、兵十の家へもってきてやりました。そのつぎの日には、栗ばかりでなく、まつたけも二、三ぼんもっていきました。

きつねが人間の家に栗やまつたけを持ってくるだろうか。当然のことだがこのような問いをすべきではない。この話では、きつねも人間と同じような心を持っているというコードなのである。そういった解釈のコードでよめば、このへんまでは読者も穏やかな気持ちで読むことができるだろう。授業の中では、このへんから子どもたちは主人公のごんのことをどんどん好きになっていくのであろう。

問題はこのあとである。作者は、別のコードで作品を描くのである。つまり、「きつねは人間の家に栗やまつたけを持ってくるはずがない」というコードである。そのようなコードで行動するのがもう一人の登場人物である兵十である。次の場面である。

このとき兵十は、ふと顔をあげました。と、きつねが家の中にはいったではありませんか。こないだうなぎをぬすみやがった、あのごんぎつねめが、またいたずらをしにきたな。

 「ようし」

兵十は、たちあがって、納屋にかけてある火縄銃をとって、火薬をつめました。

火縄銃で撃つという行為は、ごんが人間と同じような心をもっているというコードの中では、おこりえないことである。兵十は「きつねはきつね」というコードでごんを見ているのである。もし同じコードの中であれば、ごんのことを誤解しているとしても、せめてつかまえてとっちめてやるくらいである。それを作者はこれまで読んできた読者の解釈コードとはまったく違うコードをつかって、悲劇的な結末を作り出したのである。

私が長い間捕らわれていた違和感というのは、この異なった解釈コードをつかって悲劇を作り出すという作者の手法に対するものだった。私はこのような手法をいやらしいと手法だと思う。もちろんこのような考えには反対もあるだろう。これこそ作者のすぐれたところだと言う意見があってもよい。しかしながら、国語科の教材として扱うのであれば、少なくともここで述べたような手法に気づかせるべきである。

ただし、私は国語科については門外漢である。そのような授業も行われているのだろうと期待する。しかし問題は、それが音楽と結びついて音楽劇などの実践になったときである。

「ごんぎつね」に対して、私と同じような違和感を持つ子どももいるはずである。国語の授業でなら、そのような違和感の正体も突き止められるはずである。

ところが、この作品が音楽や総合的な学習の時間に音楽劇になることがある。このような音楽劇になると私が述べたような違和感を持つことは許されない。

「ごんぎつね」を題材にした音楽劇の実践報告は数が多いが、ここでは総合的な学習の事例として示されている中山真理氏の実践報告をとりあげる(中山真理「各教科や道徳が目指すものを音楽活動を通して関連づける」『教育音楽別冊・総合的な学習2』音楽之友社、2000年、17-20ページ)。この実践では、国語科の指導目標として次の3点をあげる。

(1)美しい情景描写を読み味わう美しさに気づかせる。
(2)登場人物の行動の描写から、その心情を読みとらせる。
(3)主人公であるごんの変化に気づかせ自分なりの考えを持たせる。

この目標に明らかなように、ここで子どもに読みとらせようとしてしているのは、情景や登場人物の心情である。音楽劇をすることが前提となっているので、作品の手法に気づかせることなどはまったく論外となっている。そして音楽の学習活動として次のような活動が示される。

●音楽物語「ごんぎつね」の「範唱」を聴いてみよう・歌ってみよう。
●拍の流れやフレーズを体で感じよう。
●歌詞にふさわしい歌い方を見つけよう。
●会話の場面に情景を表す音を付けよう。

さらに、次のような道徳の指導内容が示されている。

・過ちは素直にあらためる。
 いたずらしたことへの反省、後悔、つぐないへと 向かっていったごん。
・互いに理解し、信頼する。
 あいつは「いたずら」だと決めつけ、ごんの変化 気づかなかった兵十。
・美しいものや気高いものに感動する。
  神様のしわざと思われてもなお、つぐないをつづけたごん。

このようなねらいで行われた実践の中の子どもの姿とが次のように紹介されている。

「こないだうなぎをぬすみやがった、あのごんぎつねめが」が、どんどん加速し、大きな声になっていく。伴奏がついていけないほどの変化。「ごん、おまえだったのか」は、涙を流しながら、一事一句をかみしめるように歌う子どもたち。教科の枠を越えた、様々な活動からの学びは、こんなにも表現を豊かにするものかとあらためて思った。

また、授業後には子どもがつくったポスターが紹介されている。そこには次のような感想が書かれている。

心のすれちがいはかなしい。
友だちのこと「こんな人だ」ときめつけていませんか。

ここに示されたような子どもの行動を、評価すべきであろうか。確かにこの授業のねらいは達成されている。しかしそれは知とはもっとも遠いところに子どもを連れていく実践でもある。批判的な精神がどこにもないからである。異なった二つの解釈コートを使って悲劇を創り出すという作者の手法、言い換えれば作者のトリックに、教師も子どもも見事に引っかかってしまったのである。そして、それが音楽と結びつくことによってさらに増幅されてしまったのである。

もちろんトリックに引っかかることがすべて悪いわけではない。例えば奇術はトリックとわかってそれを楽しむものである。落語や漫才では解釈コードのズレが多用されている。それが笑いに結びついている。しかし、「ごんぎつね」の実践は違う。トリックに気づかないまま、子どもに涙を流させ、道徳的な教訓まで引き出しているのである。文学や音楽による価値観の押しつけである。

音楽は時に知性を曇らせることがある。音楽がそれだけ人間の心に大きな影響をもたらしているということの裏返しである。

これまでの学校の音楽科では、社会で行われている音楽活動を模擬体験することが学習活動の中心とされてきた。学習指導要領の目標が「表現及び鑑賞の活動を通して」となっていることにもそれが表れている。

子どもたちの成長にとって、音楽活動が重要であることは言うまでもない。理屈抜きにさまざまな音楽に触れ、楽しんでいく機会が必要である。そのような機会がなければ学校がそのような場を保障すべきである。学校の音楽科の本来の役割はそこにあった。ただし、現状はかわってきた。

子どもたちは、学校の授業以外の場でそれ以上に音楽と触れている。マスコミを通じてほとんど生まれてすぐから、十分すぎるほど音楽を楽しんでいる。一日中音楽に囲まれて生活をしていると言っても過言ではない。そしてそれらの音楽には必ず何らかの意図が隠されている。商業的意図、政治的意図、宗教的意図などである。そして私たちはいつのまにかこのような意図によって行動させられてしまっている。とくにもっとも動かされているのはCMなどの商業的意図である。CMでは、音楽が実に効果的に使われている。

私たちはこのような意図に対して、もっと敏感であるべきである。私はかつて次のようなことを書いた。

音楽が氾濫する社会の子どもたちに、まったく社会にある音楽に似た音楽を与え、「音楽を愛好する心情」を育てようとすることでは、音楽科の存在意義は薄れる一方である。むしろ、この氾濫する音楽の中からよりよく生きるために必要な音楽を選び、また音楽をよりよく生きるために利用していく力を育てることが必要である。あふれる音楽にただ浸るのではなく、音楽作品や音楽活動を相対化して捉えることができる主体を育てることである。(中略)音楽のよい面だけではなく音楽のもつ弊害も教えなければならない。ある種の音楽が人間の思考の停止を導くことや、音楽の発展が噪音などの環境問題を引き起こすことや、音楽の専門家の中に良識のない行動をする人がいることもその一例である。
(「教科としての音楽科の存立根拠に関する一考察」『教科教育学の探求』国立教育研究所教科教育研究部、1995年、85ページ)

音楽を楽しみ、時には音楽に涙し、音楽に浸りきることも大切である。しかし、音楽のもつ力の大きさを自覚し、音楽が社会や生活の中でどのような役割を果たしているか、自分にとって音楽がどのような役割をはたしているかについて見直すことも必要である。

このような力をつけることが学校における音楽科の課題になるべきである。音楽に対する批判的な目を向けるべきである。それは先に述べたような「ごんぎつね」のような実践とは正反対の極にある。 

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最近芥川龍之介に少し凝っている。36年の短い生涯なのだが、残したものは計り知れない。その芥川は、音楽のことについてもたびたび書いているのだが、中には五線譜を使ったものもある。ちょっと長くなるが引用する。

しかし何度も繰り返すように文芸は言語あるいは文字を表現の手段にする芸術であります。この制限を超えられぬ限り、やはり文芸の内容にならぬ情緒を認めず にはいられません。例えばカンディンスキイの「即興」と題する画は只何の形ともつかぬ種類の色の集合であります。・・中略・・ああ言う画の与える情緒はい かなるダダイズムの詩人にせよ、到底言語を手段として表現することは出来ますまい。・・・中略・・・・いや、何もカンディンスキイなどを引き合いに出すに はあたりません。たとえば「のんこう」の茶碗だとか、
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だとかの与える情緒は文芸の埒外にある筈であります。我々は何か感心した時に「何とも言 われぬ」と言いたくなりましょう。あれは我々ばかりではない。実は文芸そのものの歎声を発しているのであります。(「文芸一般論」『芥川龍之介全集8』ちく ま文庫)

今読めば、至極常識的な文芸論であり芸術論である。ただ、この文中に挿入されている譜の芥川が「何とも言われぬ」と言ったこの旋律が、私には思い当たらなかった。それでSNSで訪ねたところ、S大のK氏が教えてくれた。ワーグナー作曲《ワルキューレ》の第3幕、集結部分の「ローゲ動機」と言うらしい。実際に楽曲を聞いて確認もできた。

ワーグナーの作品のサワリを聴くことはよくあるが、全曲を聴くことはなかなかない。このような部分をさらりと楽譜付で紹介する芥川は、この今日を隅々まで聴いていたのだと推測される。そして相当な音楽好きだったのであろう。少しうれしくなる。

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教育課程の改訂

次期の教育課程改訂のための審議が中央教育審議会ではじまっている。 教育課程全般を審議するのが、初等中等教育分科会教育課程部会。 その中でも芸術教科(音楽・美術・書道)について検討するのが芸術ワーキング・グループ(前回までは「芸術専門部会」と呼ばれていた)。ここで学習指導要領「改善」の基本方針がほぼ決まる。

すでにその第1回目の会合が開かれ、委員名簿や検討事項等が文部科学省のHPで発表されている。

中教審芸術ワーキンググループ

音楽関係の委員については、妥当な方が選ばれていると思う。おそらく、授業時間数などの肝心なことはこのワーキンググループでは議論させてもらえないだろう。私は前回改訂時の委員だったが、委員を依頼された際に「時間数についての議論はするな」と釘を刺された。また上部の部会(教育課程部会)の方針に沿った検討をしなければならないので制約はある。それでもこのWGの役割は重要である。よい議論が行われるよう期待したい。

ただし、経験者としてどうしても書いておきたいことがある。

前々 回の改訂(1998)では、各学校種の授業の総時間数が大幅削減された。その上「総合的な学習の時間」が導入された。そのあおりで音楽や美術の時間も大幅に削減された。その時の音楽教育界の空気は「全体が 減るのだから仕方ない」だった。

しかし前回の改訂(2008)ではゆとり教育批判の中で総時間数は全体として増加した。また、総合的な学習の時間数は削減された。だから、本来ならまずは前々 回の改訂前を前提としてそこから時間数についての議論をはじめるべきであった。

ところが、音楽や美術については何の議論もなく「従来通りの時間数」というこ とで前々回(1998)の時間数と同じ時間数が上の部会から押し付けられた。
「時間数について議論するな」とはこういうことだったのだ。つまり1998年以前の状態からみると、総授業時間数は減っていない(むしろ増えている)のに音楽や美術の時間だけが大幅に削減されたことになる。

前回の委員はこのインチキに引っかかってしまった(もちろんもっと権限のある 上の部会が決めたことなので何かできたかは疑問だが)。強引にでも時間数に関する議論をするなり、上の部会に意見書を上げるなりすべきだった。最後の芸術専門部会では委員から抗議の声があったが後の祭りだった。今回の賢明な委員の先生方は、こういうインチキにだけは引っかかってほしくない。

どんな立派な内容をかかげても、時間数が確保できなければ実現できない。とくに、アクティブラーニングなどという甘い言葉に騙されてはいけない。

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FBから

昨年末、3〜4年ぶりにある友人と会った。15〜6年くらい付き合いのある友人である。その人が言うには「吉田さん、最初に会ったころと少しも変わっていないね」。

顔や、風貌は年相応に老けてきた。鏡や写真を見ると顔のシミやシワも随分と増えた。老醜は確実に進んでいる。だから「変わっていない」というのは精神年齢のことを言われたと思うことにする。

本当に自分は成長しない人間だと思う。視野狭窄、自分中心、人の話を聞けない、顔がデカイ(注意はしているつもりなのだが)。無精で注意散漫。歌もピアノも下手だ。

でも、確実に成長したと思えることが一つだけある。それは怒らなくなったことだ。若い頃もある程度までは我慢できていたのだが、限度を超えると必ずキレていた。大声で怒鳴ったり、甚だしい場合はモノを投げたり。そういうことが1年に数回あった。しかしここ数年はない。学生を叱ることがあっても怒ることはない(怒っているように見せることはある)。怒り散らす人を見ると可哀想だと思えるようになってきた。もちろん心の中で怒ってないわけではないのだが、怒りをうまく自己コントロールすることができるようになった。

怒りをコントロールする一つの方法は、ブログやFACEBOOKに向かうことである。最初は怒りを直接ぶつけるような文章になるが、書いているうちに気持ちが落ち着いてくる。何度も読み直しながら穏やかなものに訂正していく。事情を知らない人が読んだ時に不快にならないようにする。 ただ、穏やかになっただけでは書いた意味がない。「トゲ」「毒」はしっかり残して置く。当事者が読めばその「トゲ」「毒」の意味は分かるようにしておく。それに自己満足して、怒りが収まる。

という訳で、最近の投稿を見直すと「トゲ」「毒」が多くなっている。

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吉報

一昨日の12月31日、大掃除も終わりあとは年越しを待つばかりという頃になって、吉報が飛び込んできた。

理化学研究所仁科加速器研究センター超重元素研究グループの森田浩介グループディレクター(九州大学大学院理学研究院教授)を中心とする研究グループ が発見した「113番元素」を、国際機関が新元素であると認定したというニュースである。

いろいろな報道機関がこのニュースを伝えているが、当事者である理研の広報が一番正確だろう。次のリンクを見ていただきたい。

113番元素の命名権を獲得

この研究の詳細については、私などの門外漢はまったく説明などできないが、それでもその意義は分かる。

(1)元素の周期表を書き換えること、すなわち科学を一歩前進させる研究成果であること。
(2)元素命名権の獲得が欧米以外では初の快挙であり、日本の科学研究にとっても活気的な出来事であること。
(3)スタップ細胞問題で信頼を失った理化学研究所の名誉回復の第一歩となること。理化学研究所は日本の科学研究の重要な拠点であり、したがって日本の科学研究の信頼性の向上にとっても重要であること。
(4)何と言っても、この研究のチームリーダーが私の身内であること。森田浩介は、私のいとこ(父親が兄弟)。

2014年の1度目の成果以来、ずっとこの日を待ち望んできた。その間2度成功したことが伝えられたが、それでも命名権の獲得はならなかった。私自身、和光の研究所を訪ねてその装置を見せてもらったこともある(さっぱりわからなかったが)。何度かメールでもやりとりした。その間に本人は愛妻を病気で亡くしている。「正直落ち込んでいます」というメールももらったことがある。今か今かと待ちながら、10年の月日が流れて行った。

それでも、実験の正しさと命名権の認定について、本人の確信はまったく揺ぎないようだった。最後に会ったのは一昨年の8月。本人の実家にお邪魔していっしょに大酒を飲んだ。その時にも「近いうちに認定される」という確信のある言葉を聞いた。また昨年の8月の国際機関の大会の際に議題に上ったようだが決定は延期された。その時に私から「残念」というメールをを送ると「待つことにはなれている」という返事が返って来た。さらに、正式決定の1週間ほど前の12月26日に一部の新聞で「来年3月に認定か」という記事が流れてた時にも、本人は「まだ確定していない」「3月というのは噂」と言い、いたって冷静だった。

こうなったら、もう「果報は寝て待て」という気になっていたら、今回突然の吉報である。もう舞い上がりそうになった(私が偉いわけでもなんでもなく、私が舞い上がってもしょうがないのだが)。

31日はテレビのニュースを次から次に追いかけた。何度も何度も出てくる本人の笑顔と一瞬見せた涙。私はテレビの前でただ拍手し涙ぐむだけだった。

分野はまったく違うが、私も研究者の端くれ、一瞬がんばらなけりゃとも思ったがあまりにもレベルが違いすぎる。それにもう能力も気力も残っていない。ただただ、お祝いするだけである。

浩介君おめでとう。今度ゆっくり祝杯をあげよう。

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一年の計

あけましておめでとうございます。

今年は申年。私にとっても「去る年」になります。といってもこの世からはまだ去るつもりはありません。しばらくご迷惑をおかけしますが、よろしくお付き合いをお願いします。

「1年の計は元旦にあり」と言う。計画は最初に立てておくべきだという意味だろうが、それは元旦にたてた計画は必ず達成されるということを意味するものではない。私は、昨年の元旦、このブログに次のように書いた。

(前略)
という訳で、1年の計。目標は次の3つである。

(1)
(2)
(3)

実は、私だけが見える目標が書いてある。公言するのはとても恥ずかしいので、その目標が実現できたら、年末に公開することにしたい。

この目標が実現できたかというというと、もちろん実現できていない。できていたら、昨日公開している。・・・・というよりも、こんな目標を立てたこともすっかり忘れてしまった(私だけが見えるように書いていたのだが、5月頃にはすでに消えて見えなくなっていた)。

今年も目標を立てようとは思うが、昨年よりももっと実現可能なものにする。それは次の3つのことを毎日1時間行うことである。

(1)
(2)
(3)

今年は、あぶりだしにしてある。どうしても見たい人は、画面を火で炙っていただきたい(その結果については責任は負わない)。「実現可能」と書いたが、実はこれすら相当難しい。これを書いている今は、午後4時15分である。今日はもうあと7時間45分しかない。3つ全部やるのは難しそうだ。

というわけで、目標には次のような附則をつけておくことにする。
「当日の目標が達成できない場合は、翌日あるいは翌々日に先送りすることも可とする」
さあ、これで今日はゆっくり飲める。

本年も怠け者めの私をよろしくお願いします。

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