「ごんぎつね」のインチキ
私は、研究者としての40年の間に、たくさんの文章を書いてきた。いわゆる「学術論文」と言われるものから、雑誌のコラム・エッセイまで含めるとその数は数百になるかもしれない。しかし、本当に自分でよくできたと言えるものはほとんどない。できるなら抹殺したいと思うようなものばかりである(一旦社会に出たものは抹殺することはできない。ただし、自分のそばから消すことはできるので、ぜんぶ処分した)。しかし、次の小論は、珍しく自分が気に入っているものである(2002年にローカルな雑誌に書いたものなのであまり人目に触れていないかもしれない)。
私は小学校の国語で教材になっている「ごんぎつね」という作品がたまらなく嫌いだ。これがこの小論を書いた動機である。この小論に対しては、あちらこちらから口伝えでは賞賛と批判の声が聞こえてきた。ただし、文章による評価や批判はなかった。今は考えが少し変わってきている(とくに第3校の音楽教育に関する部分)が、そのまま掲載する。
原文は縦書き。Webの習慣にそって表示の形式を改めている。
・漢数字→算用数字
・パラグラフの最初の1マス空き→なし
・改行→1行空き
******************************************************************
音楽科における知
吉田 孝(弘前大学教育学部)
1
第4学年の国語科教科書に掲載されている作品「ごんぎつね」(新見南吉作)について書く。この作品は長い間、ほとんどの国語教科書に掲載され続けて来た。本年度から実施された新しい学習指導要領のもとでも、削除されることはなかった。一方この作品は、音楽科では、音楽劇として実践されることも多い。
私がこの作品を最初に読んだのがいつだったかは思い出せない。しかし、その時に違和感を持ったことだけは覚えている。そしてこの作品が小学校の国語の授業の教材として重宝がられていること、中にはこの教材に十数時間の授業時数をかける教師がいることに何か奇妙さを感じていた。とくに、子どもたちがこの教材を涙を流しながら学習しているという実践報告には胡散臭さを感じていた。そして「ごんぎつね」を題材にした音楽劇が音楽科の実践報告として報告されていることに対しても違和感を持っていた。このような実践はいつか批判しなければならないと思っていた。
ただ、この違和感の正体がなかなかつきとめられないでいた。何となくわかるのだがきちんと説明することはできなかった。だからこれまでずっと批判できないでいた。しかし、次の文章を読んでこの違和感の正体がわかった。
「大きなかぶ」。終りの部分である。
作品の引用(省略)
ねずみ・ねこ・犬などの動物が人間と協力して、かぶを抜く作業を手伝うということが、あり得るか。こういう文句をつけたら、どうだろうか。あほらしい。この話を解釈するコードは、そのようなものではない。動物も人間といっしょにかぶを抜くことができるというコードなのである。かぶもくわで掘らないで、抜くことにしてあるコードなのである。 言い換えれば、そういうルールで作者と読者はなれあっているのである。このなれあいは、みんなが安心して楽しめるような、まとまりのある(矛盾のない、整合的な)状態で成り立っていればいればいいのである。
このような「なれあい」が成り立ちうるときに、右の「動物は人間と協力できるか。」などという問いを発するのは、宴たけなわの折に「幹事不信任!」と叫んで投票を要求するようなものである。「なれあい」ルールの外側の異質のルールを介入させることである。酒がまずくなり座がしらけることは確かである。(宇佐美寛「かくれたカリキュラム」『宇佐美寛・問題意識集2 国語教育は言語技術教育である』明治図書、2001、177-78ページ[初出は『国語科授業批判』明治図書、1986年])
これを「ごんぎつね」にあてはめてみる。次のような箇所がある。
次の日も、そのつぎの日もごんは、栗をひろっては、兵十の家へもってきてやりました。そのつぎの日には、栗ばかりでなく、まつたけも二、三ぼんもっていきました。
きつねが人間の家に栗やまつたけを持ってくるだろうか。当然のことだがこのような問いをすべきではない。この話では、きつねも人間と同じような心を持っているというコードなのである。そういった解釈のコードでよめば、このへんまでは読者も穏やかな気持ちで読むことができるだろう。授業の中では、このへんから子どもたちは主人公のごんのことをどんどん好きになっていくのであろう。
問題はこのあとである。作者は、別のコードで作品を描くのである。つまり、「きつねは人間の家に栗やまつたけを持ってくるはずがない」というコードである。そのようなコードで行動するのがもう一人の登場人物である兵十である。次の場面である。
このとき兵十は、ふと顔をあげました。と、きつねが家の中にはいったではありませんか。こないだうなぎをぬすみやがった、あのごんぎつねめが、またいたずらをしにきたな。
「ようし」
兵十は、たちあがって、納屋にかけてある火縄銃をとって、火薬をつめました。
火縄銃で撃つという行為は、ごんが人間と同じような心をもっているというコードの中では、おこりえないことである。兵十は「きつねはきつね」というコードでごんを見ているのである。もし同じコードの中であれば、ごんのことを誤解しているとしても、せめてつかまえてとっちめてやるくらいである。それを作者はこれまで読んできた読者の解釈コードとはまったく違うコードをつかって、悲劇的な結末を作り出したのである。
私が長い間捕らわれていた違和感というのは、この異なった解釈コードをつかって悲劇を作り出すという作者の手法に対するものだった。私はこのような手法をいやらしいと手法だと思う。もちろんこのような考えには反対もあるだろう。これこそ作者のすぐれたところだと言う意見があってもよい。しかしながら、国語科の教材として扱うのであれば、少なくともここで述べたような手法に気づかせるべきである。
ただし、私は国語科については門外漢である。そのような授業も行われているのだろうと期待する。しかし問題は、それが音楽と結びついて音楽劇などの実践になったときである。
2
「ごんぎつね」に対して、私と同じような違和感を持つ子どももいるはずである。国語の授業でなら、そのような違和感の正体も突き止められるはずである。
ところが、この作品が音楽や総合的な学習の時間に音楽劇になることがある。このような音楽劇になると私が述べたような違和感を持つことは許されない。
「ごんぎつね」を題材にした音楽劇の実践報告は数が多いが、ここでは総合的な学習の事例として示されている中山真理氏の実践報告をとりあげる(中山真理「各教科や道徳が目指すものを音楽活動を通して関連づける」『教育音楽別冊・総合的な学習2』音楽之友社、2000年、17-20ページ)。この実践では、国語科の指導目標として次の3点をあげる。
(1)美しい情景描写を読み味わう美しさに気づかせる。
(2)登場人物の行動の描写から、その心情を読みとらせる。
(3)主人公であるごんの変化に気づかせ自分なりの考えを持たせる。
この目標に明らかなように、ここで子どもに読みとらせようとしてしているのは、情景や登場人物の心情である。音楽劇をすることが前提となっているので、作品の手法に気づかせることなどはまったく論外となっている。そして音楽の学習活動として次のような活動が示される。
●音楽物語「ごんぎつね」の「範唱」を聴いてみよう・歌ってみよう。
●拍の流れやフレーズを体で感じよう。
●歌詞にふさわしい歌い方を見つけよう。
●会話の場面に情景を表す音を付けよう。
さらに、次のような道徳の指導内容が示されている。
・過ちは素直にあらためる。
いたずらしたことへの反省、後悔、つぐないへと 向かっていったごん。
・互いに理解し、信頼する。
あいつは「いたずら」だと決めつけ、ごんの変化 気づかなかった兵十。
・美しいものや気高いものに感動する。
神様のしわざと思われてもなお、つぐないをつづけたごん。
このようなねらいで行われた実践の中の子どもの姿とが次のように紹介されている。
「こないだうなぎをぬすみやがった、あのごんぎつねめが」が、どんどん加速し、大きな声になっていく。伴奏がついていけないほどの変化。「ごん、おまえだったのか」は、涙を流しながら、一事一句をかみしめるように歌う子どもたち。教科の枠を越えた、様々な活動からの学びは、こんなにも表現を豊かにするものかとあらためて思った。
また、授業後には子どもがつくったポスターが紹介されている。そこには次のような感想が書かれている。
心のすれちがいはかなしい。
友だちのこと「こんな人だ」ときめつけていませんか。
ここに示されたような子どもの行動を、評価すべきであろうか。確かにこの授業のねらいは達成されている。しかしそれは知とはもっとも遠いところに子どもを連れていく実践でもある。批判的な精神がどこにもないからである。異なった二つの解釈コートを使って悲劇を創り出すという作者の手法、言い換えれば作者のトリックに、教師も子どもも見事に引っかかってしまったのである。そして、それが音楽と結びつくことによってさらに増幅されてしまったのである。
もちろんトリックに引っかかることがすべて悪いわけではない。例えば奇術はトリックとわかってそれを楽しむものである。落語や漫才では解釈コードのズレが多用されている。それが笑いに結びついている。しかし、「ごんぎつね」の実践は違う。トリックに気づかないまま、子どもに涙を流させ、道徳的な教訓まで引き出しているのである。文学や音楽による価値観の押しつけである。
3
音楽は時に知性を曇らせることがある。音楽がそれだけ人間の心に大きな影響をもたらしているということの裏返しである。
これまでの学校の音楽科では、社会で行われている音楽活動を模擬体験することが学習活動の中心とされてきた。学習指導要領の目標が「表現及び鑑賞の活動を通して」となっていることにもそれが表れている。
子どもたちの成長にとって、音楽活動が重要であることは言うまでもない。理屈抜きにさまざまな音楽に触れ、楽しんでいく機会が必要である。そのような機会がなければ学校がそのような場を保障すべきである。学校の音楽科の本来の役割はそこにあった。ただし、現状はかわってきた。
子どもたちは、学校の授業以外の場でそれ以上に音楽と触れている。マスコミを通じてほとんど生まれてすぐから、十分すぎるほど音楽を楽しんでいる。一日中音楽に囲まれて生活をしていると言っても過言ではない。そしてそれらの音楽には必ず何らかの意図が隠されている。商業的意図、政治的意図、宗教的意図などである。そして私たちはいつのまにかこのような意図によって行動させられてしまっている。とくにもっとも動かされているのはCMなどの商業的意図である。CMでは、音楽が実に効果的に使われている。
私たちはこのような意図に対して、もっと敏感であるべきである。私はかつて次のようなことを書いた。
音楽が氾濫する社会の子どもたちに、まったく社会にある音楽に似た音楽を与え、「音楽を愛好する心情」を育てようとすることでは、音楽科の存在意義は薄れる一方である。むしろ、この氾濫する音楽の中からよりよく生きるために必要な音楽を選び、また音楽をよりよく生きるために利用していく力を育てることが必要である。あふれる音楽にただ浸るのではなく、音楽作品や音楽活動を相対化して捉えることができる主体を育てることである。(中略)音楽のよい面だけではなく音楽のもつ弊害も教えなければならない。ある種の音楽が人間の思考の停止を導くことや、音楽の発展が噪音などの環境問題を引き起こすことや、音楽の専門家の中に良識のない行動をする人がいることもその一例である。
(「教科としての音楽科の存立根拠に関する一考察」『教科教育学の探求』国立教育研究所教科教育研究部、1995年、85ページ)
音楽を楽しみ、時には音楽に涙し、音楽に浸りきることも大切である。しかし、音楽のもつ力の大きさを自覚し、音楽が社会や生活の中でどのような役割を果たしているか、自分にとって音楽がどのような役割をはたしているかについて見直すことも必要である。
このような力をつけることが学校における音楽科の課題になるべきである。音楽に対する批判的な目を向けるべきである。それは先に述べたような「ごんぎつね」のような実践とは正反対の極にある。
最近のコメント