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2017年2月の投稿

2017年2月15日 (水)

新学習指導要領

新学習指導要領案発表。
音楽教育研究者は辞めたので、その文言についてのみ一国民の立場で一言。小学校音楽科の目標。( )は中学校の目標。

**************
「表現及び鑑賞の(幅広い)活動を通して、音楽的見方・考え方を働かせ、生活や社会の中の音や音楽(、音楽文化)と豊かに関わる資質や能力を次の通り育成することを目指す。
(1)
(2)略
(3) 」
**************

昭和44年学習指導以来の箇条書きの復活である。これで少し分かりやすくなるのかと期待した。しかし読んでがっかりした。公の文でこれほど非論理的な文を見た経験がない。

分析
a 表現及び鑑賞の幅広い活動を通して、
b 音楽的見方・考え方を働かせ、
c 生活や社会の中の音や音楽と豊かに関わる資質・能力を
d 次の通り育成する
e ことを目指す。

a まず、この「通して」はどこにかかるのか。従来の説明では、指導のあり方を述べたものだから、そこから推測すれば「育成する」にかかっているとしか読みようがない。

b ここが一番わかりにくいところだ。「働かせ」の主語は、「教師」なのか「児童」なのか?もちろん教師も働かせなければならないが、わざわざここに文章に書くのは、児童に働かせて欲しいからであろう。また「働かせて」だから、これに続くのは用言でなければならない。そう考えると「関わる」しかない。「・・・働かせ、・・・・関わる」とつながるのだろう。

c ここは、今回の学習指導要領の目玉らしい、育成すべき「資質・能力」を示した箇所である。つまり、この目標の中心である。

d 前の節のcで育成すべき対象を示したのだから、ここは「育成する」だけで十分なのだが、「次の通り育成する」となっている。ただ、「次の通り」は次に書くことの予告文であるべきだが、何を予告しているのかさっぱりわからない(次に書いてある箇条書き文も突っ込みどころがいっぱいだが、つきあっている暇はないので省略する)。

e ここを見て私は椅子から50センチ飛び上がるほど驚いた(実際はは1mmも飛び上がってないが)。「育成すること」が目標ではないのか? 目標に「育成することを目指す」と書いてしまえば、「目標を目指す」と言っているようなものである。つまり「私の目標は東大を目指すことです」と言っているようなものであり無意味である。

このように分析すると、今回の目標は「生活や社会の中の音や音楽と豊かに関わる資質や能力を育成する」ということに尽きる。

さらに「音や音楽と豊かに関わる」ためには、働かせなければならないものはたくさんある。「音楽的見方・考え方」だけがなぜこんなに突出しているのか。「音楽的見方、考え方」は資質・能力の一部ではないのか。そうであれば、ここに書くのではなく、まさに箇条書きにその一つとして記せばよいのである。例えば、次のような文章で十分なのである。

「生活や社会の中にある音や音楽と豊かに関わることができるようにする。そのために次のような資質・能力を育成する」
(「音や音楽」は生活や社会の中にあるのは当たり前だから、なくてもかまわないかもしれない)。また「資質」などということばを使うと説明が大変になる、それに概念的に言えば、「資質<能力」だから、ないほうがよいかもしれない。

学習指導要領の目標がなぜこんなに非論理的なのか?
おそらく、この文章を作成したメンバーのせいではない。まず最初に枠組みが上から押し付けられるからである。
・「見方・考え方」を入れよ
・「資質・能力」を入れよ
・「を通して」を入れよ
・文末は「目指す」とする
・箇条書きの部分は、「(1)知識・技能、(2)思考・判断またはそれに準ずるる事項、(3)関心・意欲・態度」を入れよ。

だから、他の教科も判で押したように同じ文章になっている。
例えば、国語。

「言葉による見方・考え方を働かせ、言語活動を通して、国語で適切に理解し適切に表現する資質・能力を次の通り育成することを目指す。」

国語の専門家がこんな非論理的な文章を出して平気でいるわけではないだろう。委員の方々は内容についてはかなり時間をかけて議論をしたのであろうが、最終的にこんな文章を出さなければならないとは気の毒でならない。

まあ、それでも現場には優秀な人材がたくさんいる(とくに音楽関係)ので、それほど心配はしていない。

文部科学省幹部の天下り問題

天下るほうも下るほうだが、研究論文なんかほとんだ書いたことがないような人間(教育行政についての知識や手腕はあるが、少なくとも研究者ではない)を教授として雇い入れる大学も大学である。大学が何か一つ新しいこと始めようとすれば、その許認可の権限をすべて文科省が握っているのでそうなるのだが、これは国会等で徹底的に追及してほしいと思う(まさか、私の元職場はそんなことしていないだろうな)。

天下りもひどいが、もっとひどいのが所轄の研究所の人事である。例えば、省内にある某研究所は、所長、副所長、各研究センター長、研究部長等の研究の指導的ポストのほとんどを研究者ではなく文部科学省の幹部あるは中堅の幹部が独占するようになった。もちろん研究所だから事務職としてはなく、研究職つまり文部教官として就任するのである。つまり教育研究という独自の役割をもった研究機関の研究職ポスト(それも幹部ポスト)を文部科学省の事務官がやってきて一時的に利用しているのである。そして、それまでまったく研究の経験もなかった人間が所長や部長の地位につき、長年研究を続けてきた研究者の上に立ってあれこれ指図するという構図になっているのである。

ここの所長や(現在の)研究部長に研究経験がないのは一目瞭然である。ほとんど教育関係の学会では名前を聞いたこともないような人間ばかりである。だから、研究所のHPを見ても、研究者紹介のページはあるが、名前だけでそれぞれの研究者にどんな研究業績があるのかがまったくわからない(幹部には何の研究業績もないから出せないのだろう)。

当然、これらのポストも一時的な腰掛けポストなので、たいていは1〜2年で交代する(とくに所長、次長、センター長)。こんな研究所からよい研究が生まれようがない。もちろん、ここで働いている一般の研究者の中にはすぐれた研究者がたくさんいるし、ほとんどの研究者は誠実な方ばかりである。しかしその人たちの力が十分には発揮されていない。

天下り問題が出てきたことを機会にここにもしっかりメスを入れる必要があるのではないか。

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