吉報

一昨日の12月31日、大掃除も終わりあとは年越しを待つばかりという頃になって、吉報が飛び込んできた。

理化学研究所仁科加速器研究センター超重元素研究グループの森田浩介グループディレクター(九州大学大学院理学研究院教授)を中心とする研究グループ が発見した「113番元素」を、国際機関が新元素であると認定したというニュースである。

いろいろな報道機関がこのニュースを伝えているが、当事者である理研の広報が一番正確だろう。次のリンクを見ていただきたい。

113番元素の命名権を獲得

この研究の詳細については、私などの門外漢はまったく説明などできないが、それでもその意義は分かる。

(1)元素の周期表を書き換えること、すなわち科学を一歩前進させる研究成果であること。
(2)元素命名権の獲得が欧米以外では初の快挙であり、日本の科学研究にとっても活気的な出来事であること。
(3)スタップ細胞問題で信頼を失った理化学研究所の名誉回復の第一歩となること。理化学研究所は日本の科学研究の重要な拠点であり、したがって日本の科学研究の信頼性の向上にとっても重要であること。
(4)何と言っても、この研究のチームリーダーが私の身内であること。森田浩介は、私のいとこ(父親が兄弟)。

2014年の1度目の成果以来、ずっとこの日を待ち望んできた。その間2度成功したことが伝えられたが、それでも命名権の獲得はならなかった。私自身、和光の研究所を訪ねてその装置を見せてもらったこともある(さっぱりわからなかったが)。何度かメールでもやりとりした。その間に本人は愛妻を病気で亡くしている。「正直落ち込んでいます」というメールももらったことがある。今か今かと待ちながら、10年の月日が流れて行った。

それでも、実験の正しさと命名権の認定について、本人の確信はまったく揺ぎないようだった。最後に会ったのは一昨年の8月。本人の実家にお邪魔していっしょに大酒を飲んだ。その時にも「近いうちに認定される」という確信のある言葉を聞いた。また昨年の8月の国際機関の大会の際に議題に上ったようだが決定は延期された。その時に私から「残念」というメールをを送ると「待つことにはなれている」という返事が返って来た。さらに、正式決定の1週間ほど前の12月26日に一部の新聞で「来年3月に認定か」という記事が流れてた時にも、本人は「まだ確定していない」「3月というのは噂」と言い、いたって冷静だった。

こうなったら、もう「果報は寝て待て」という気になっていたら、今回突然の吉報である。もう舞い上がりそうになった(私が偉いわけでもなんでもなく、私が舞い上がってもしょうがないのだが)。

31日はテレビのニュースを次から次に追いかけた。何度も何度も出てくる本人の笑顔と一瞬見せた涙。私はテレビの前でただ拍手し涙ぐむだけだった。

分野はまったく違うが、私も研究者の端くれ、一瞬がんばらなけりゃとも思ったがあまりにもレベルが違いすぎる。それにもう能力も気力も残っていない。ただただ、お祝いするだけである。

浩介君おめでとう。今度ゆっくり祝杯をあげよう。

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杜撰な歴史記述

FB友の一人が勧めているし、ネット上でも話題になっているので閲覧してみた。

ねずさんのひとりごと

コンテンツがあまりにも多いので、自分の専門に近い記事を読んでみた。

ちょっとガッカリした。なぜかというと記述がめちゃくちゃだからある。極め付けは次の部分である。

引用開始

日本が日清戦争に勝利し、下関条約で台湾の割譲を受けたのが明治28(1895)年4月17日です。
伊沢修二が台湾総督府の学務部長心得として台北に赴任したのが、同じ年の5月18日です。
そして6月26日には、伊沢は台北の芝山巌に学堂を設置し、そこに地元の長老たちとの懇談によって6名の台湾人の若者を、新たな台湾人教師として育成するために、提供してもらっています。

伊沢は長老たちに説きました。
「自分たちがここに来たのは、戦争をするためでも、奸細(探偵)をするためでもありません。日本国の良民とするための教育を行うためだ。」

そしてこの6名と起居をともにし、彼らに必要な教育論と、日本語教育を施しました。
この若者達が、どれだけ優秀だったかというのは、その6名が、わずか4ヶ月で日本語をマスターし、さらに教育論や教育実務についてまでも、優秀な成績で学堂の卒業に至ったという事実です。

もちろん、そもそも彼ら6名に漢文の素養があり、明治の頃の日本語の文章が、ほとんど漢字ばかりだったということも幸いしたろうとは思います。
けれども一般に、むつかしいとされる日本語をたった4ヶ月でマスターしたということは、彼ら6名が優秀だったということに加えて、それだけ熱心に伊沢の授業を受けたという結果でもあったろうと思います。

その彼らの卒業が11月末のことです。
ところが、翌年のお正月、伊沢が日本に帰国していたときに、その6名は約百名のゲリラの襲撃を受けて、全員斬殺されてしまうのです。

引用終了

すこし歴史に詳しい人なら、これがでたらめであることはすぐにわかるはずだ。この著者のいう「ゲリラ」の襲撃を受けて惨殺された事件は「芝山巌事件」と呼ばれる有名な事件であるが、その被害者の6人の日本人教師である。この6人は「六氏先生」とも呼ばれる。

ついでに言えば、この六氏先生の一人は、今放送されているNHK大河ドラマ「花も燃ゆ」の主人公・文(美和)の姉・寿と小田村伊之助(後の楫取素彦)との間に生まれた子・久米次郎(後の楫取道明)である。おそらく大河ドラマでは、これから、久坂玄瑞の隠し子が発覚したり、寿が死んだり、美和と伊之助が再婚したり、この事件で道明が亡くなったりと、文の波乱の人生が描かれるのだろう。このへんがどう描かれるのか興味深い・・・・おっと脱線しそうになった。

これは、明らかに史実に関する謝りである。このような間違いが起きる原因は、おそらく聞きかじり(読みかじり)による推測と思い込みにある(要するにちゃんと調べていない)。

歴史というのは史観が違えば同じ事実に基づいていてもまったく違う見え方がすることがある。それはまだしようがないことだと思う。しかし、事件の被害者が日本人であったか台湾人であったかを間違えるというのはあまりも杜撰である。これが私がたまたま見た記事がそうだったのか、氷山の一角なのかは全部を調べてみないとたわからない。しかし、ほぼ予測はつくし、全部を検討するほど暇人ではない。こういう怪しげなブログには関わらないほうがよさそうだ。そして、こんなブログを他人に勧めると勧めた人も軽くみられるのではないかな。そのほうが心配である。

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7×70

新約聖書の次の箇所を思い出した

イエスは言われた。「あなたに言っておく。七回どころか七の七十倍までも赦しなさい」(マタイによる福音書 8章 22節 新共同訳)

なぜ、思い出したかというと、学生から数え切れないほど裏切られたからである。しかし、教師がここで切れてはいけない。数え切れないと言っても、一人の学生から490回も裏切られたわけではない・・・・と思いつつ、自分の心を鎮める。

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「プロ意識」

息子の入学式のため担任クラスの入学式を欠席した教師のことが、埼玉新聞で次のように掲載された。


県西部の県立高校で50代の女性教諭が長男が通う別の高校の入学式に出席するため、担任を務める1年生の入学式(8日)を欠席していたことが分かった。新入生の保護者らは「今の教員は教え子より息子の入学式が大切なのか」と困惑している。
 
県教育局によると、県内の県立高校では、ほかに男女3人の担任教諭が子息の入学式出席を理由に休暇届を提出し、勤務先の入学式を欠席した。
 
関根郁夫県教育長は11日に開いた県立高校の校長会で「担任がいないことに気付いた新入生や保護者から心配、不安の声が上がった」と、この事実を報告した上で「生徒が安心して高校生活をスタートできる体制づくりと心配りに努めてほしい」と異例の“注意”を促した。
 
関係者によると、入学式の担任紹介の中で校長が女性教諭の欠席理由を説明。女性教諭は「入学式という大切な日に担任として皆さんに会うことができないことをおわびします」という文章を事前に作成し、当日、別の教諭が生徒らに配ったという。
 
来賓として入学式に出席した江野幸一県議(刷新の会)は「担任の自覚、教師の倫理観が欠如している。欠席理由を聞いた新入生たちの気持ちを考えないのか。校長の管理責任も問われる」と憤慨。
 
県教育局は「教員としての優先順位を考え行動するよう指導する」としている。


週刊誌でも次のような見出しで取り上げられている。
「息子の入学式のため担任クラスの入学式を欠席した教師を支持しますか?」
このようなことがニュースになることも、このようなことを問題にすることもナンセンス(久しぶりに使うなあ)である。

自分の行動について意思決定する場合、いつも決まった規範があるわけではない。その時々の状況の中でもっともよいと自分が思った選択をする(当たり前だ)。普通は勤務校の入学式に出席すべきであることはだれでもわかる。しかし、どうしても家庭を優先させたい事情がある場合もある。その許容範囲に明確な境界線があるわけではない。文章ではっきり定義されているのは忌引き、病休くらいである。それ以外の場合、実際にはその時の家庭の状況(家庭の歴史もある)、子どもの状況、学校における対応の可能性など、いろいろな状況を考慮して最終決断をくだすことになる。

今回のケースも、教師はいろいろな状況を考慮し、あえて家庭を優先する決断をしたのであろう。(おそらくそれは苦渋の決断であったはずだ)。そして、休暇願いを出しそれが許可されたので入学式を欠席した。校長が休暇を認めたということは、学校が対応できると判断したことを示す(どうしてもだめなら許可しなかったはずだ。校長は許可しないという判断をすることもできた)。

これだけのことである。この教師は何ら服務規則に違反することもしていない。校長の許可もとった上での行動である。にもかかわらず1度の意思決定についてなぜとやかく言われなければならないのか。何の事情も知らない人間が「プロ意識に欠ける」などと、なぜ断定できるのか。

さらに一県議がその学校名をさらして人格攻撃したために、その教師親子が特定されかねない状況にまでなっている。この県議の責任は重い。少なくとも本人と埼玉県民に対して謝罪すべきである。

犯罪にも違反にもあたらないたった一度の意思決定の結果だけをみて、人間を簡単に断罪できる人の頭の中を私はむしろ疑う。

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大学の自治

読売新聞朝刊記事(抜粋)
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政府は、学長主導の大学改革を促すため、教授会の権限を抑制し、学長に対する助言機関に位置づけることを柱とする、学校教育法・国立大学法人法改正案の骨 子を自民党文教部会に示した。教授会が審議する事項は、(1)教育課程の編成(2)休・退学処分など学生の身分(3)学位の授与(4)教員の業績の審査な どに限定するということ。
*****
現在の大学の教員の役割は大きく3点。教育、研究、大学管理運営。改正案は、基本的には大学の管理運営に一般教員は口出すなということ。こうなると教授会 の議題は減って会議は短くなるし(これはうれしいことだが)、教員は教育と研究だけに専念できるということになりそうにみえる。しかし、一方で大学の管理 運営は一部の役員で文部科学省などの言いなりに決められるので、一方的に不本意な業務が押しつけられ、それに対して意見も言えない状態が生まれるかもしれ ない。2004年の国立大学法人化で、学長の権限が強化され教員の間に閉塞感が広がっていったが、それがさらに進んでいくことになるだろう。また、今回は 学校教育法の改正も含まれているので、私立大学でも同様のことが進行していきそうだ。

私は、もう10年以上前に「大学の自治」を次のように定義したことがある(個人HP内「ひねくれ教育事典」)。

「もうすっか り死語に近くなってしまった言葉。行政の力が強くなったせいもあるが、(死語になった)一番の理由は大学自治の恩恵を一番多く受けた人たちが、大学の自治 をすっかり食いつぶしたせい。その人たちは、食いつぶしただけでまったく修復もせずに大学を去っていく」

これを書いたころは、まだ自覚をしていなかったのだが、私自身も結局食いつぶし世代の一部になってしまった。あと数年。どう生きていくか。

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教育委員は何をしているのか

今回の大津市の事件

私は、Facebook上で報道されているいわゆる「いじめ自殺事件」(事実とすれば「いじめ」と呼ぶべきようなものではなく完全に犯罪)は、加害者が未熟ゆえに引き起こした事件ではなく、学習の結果引き起こしたことが原因であると述べた。

例えば「死ね」という言葉はインターネットの匿名掲示板では当然のように使用される言葉である。そしていじめそのものが、大人社会から学習したものでもある。今回の場合は、教育委員会や学校側に批判が集中しているが、多くの方に自らが生きている職場、地域、コミュニティ、そして社会全体にいじめがないのか考えていただきたい。

この点については、内田樹氏のブログでの主張にほぼ賛成する。(一部学校教育についての記述には賛成できないが)。

もう一点は、報道されている点に不自然なことが多いこと。学校や教育委員会がここまでの事件を隠蔽しつづけたこと、警察がすぐに動かなかったことなおである。この点については藤川大祐氏の意見に賛成する。なにか隠されている重大な事実があるのではないか。越市長が設置しようとしている第三者委員会の調査に期待したい。

ところで今回の事件を見ていて不思議に思うことがある。報道には「教育委員会」と言う言葉が何度も出て来るが、教育委員会の「教育委員」の姿が見えない。

教 育委員会の主役は教育委員であり、その長は教育委員長であるはずである。教育委員は「地方教育行政の組織及び運営に関する法律」で、「人格が高潔で、教 育、学術及び文化(以下単に「教育」という。)に関し識見を有するもののうちから、地方公共団体の長が、議会の同意を得て、任命する」ことになっている。

そ して、教育委員会には教育に関する膨大な権限が与えられている。しかし、実際には教育長を中心とする教育委員会事務局が権限を 持つことになる(教育長は教育委員の一人であるが、むしろ事務局の代表という役割が大きい)。

実際に今回の事件で、教育委員会の代表としてマスコミに登場するのは、教育長である。そして、自殺事件が起こったときに教育委員会ではどれだけこの問題が議論されたのだろうか。

議事録を探したが、やっとみつかった。(見つかりにくいところにある)
教育委員会定例会

 そして毎月開催されているにもかかわらず、議事録は今年3月までのものしか公開されていない。そして本件がとりあげられているのは次の2回の定例会のみである。

昨年11月議事録

昨年12月議事録

この2回の会議でも教育長の報告だけで、教育委員の間でまったく議論がされていない。また教育長の報告には報道されている事実と食い違いがある。是非確認していただきたい。

議事録からうかがえることは、事務局(教育長や各課長)から出される案件をただ形式的に承認しているにすぎない。本来の意味での「教 育委員会」はほとんど形骸化しているのではないだろうか。そしてこれは、大津市だけに限ったことではないだろう。

こんなことだから、教育委員会の制度そのものを否定しようとする人に絶好の攻撃材料を与えてしまう。

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文部科学大臣講演

経済学部、商学部、教育学部、国際学部共催による平野博文文部大臣の講演が関学会館で開催された。教員学生合わせて300名というところか。席がなく立っている人も多かった。
また、当然だが、スーツのえりの内側向かっなにやらささやいているSPと思われる人物も。

タイトルは「グローバル人材の育成に向けて大学に期待すること」。
机の上には、「優秀な官僚が作成した」(平野氏)というレジュメ(パワポの配布資料)があったが、平野氏はパワポを使わず、自分の言葉ではなす。そのためナンバリングのできていない話でまとめにくかったが、だいたい次のような内容。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
まえおき(だと思う)
・教育はどのような方向性をもたなければならないか、とくに幼児教育が重要。
・大学は75%が私学。だから私学の教育が重要。
・かつては大学で勉強しなくても、就職してから企業が教育していたが、現在は企業にその力がないので即戦力が必要になっている。

現在の状況
・日本は海洋国家(島国)であるが、領土問題などを抱えている。
・国際関係が多様化しG8だけで決められなくなっている。中国の台頭でアジアの一員としての日本の役割が求められる。
・予測のつきにくい社会になっている。
・高齢化が進行している。

このような状況だからこそ、人材の育成が必要
そのために次のような7つの国家戦略を考えている。
①小中一貫教育、大学への早期入学などのシステムの変換
②少人数教育の充実
③大学入試改革、大学の質保証、
④コミニュケーションツールとしての英語教育の充実
⑤大学のミッション(役割・任務)の再構築、大学の役割にメリハリをつける。
⑥国際協力
(6つしか聴き取れなかった。私がぼーっとしていのか、平野氏がわすれたのかはわからない。)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
だいたい上のとおり。
そのあと,商学部、国際学部の学生代表との質疑応答。

内容は、中教審等で議論され、文部科学省などから発表されているもの。とくに目新しさは感じなかった。それよりも、自分が所属する関西学院はずいぶんグローバルな教育をしているのだと、あらためて思った。教育学部にいるとそれはあまり感じないが。

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連携

幼小連携、小中連携、中高連携、高大連携、、、、、とった、言葉が教育界で流行している。東京都には、いわゆる小中一貫校がだいぶできているようだ。また、中高一貫の県立学校も全国で生まれている。それでどんな成果が上がっているのかは、よくわからない。

学問的にきちんと調べて検討したわけではないが、私はこの「連携」という言葉には懐疑的である。どうも、行政の都合、あるいは現場の都合はあるにしても、上の学校の都合だけでこうした施策が進められているだけのような気がする。そこに働く先生たちからもあまりいい話は聞かされない。

そもそも学校の制度が、幼、小、中、高、大に区分され、それが長い間維持されてきたことには、それなりの意味があるはずであるからではないか。それぞれの学校もにはそれぞれの時期の役割がある。それぞれの学校で一応区切りをつけ、そして新しい学校で心機一転再出発する機会があることはよいことである。つま 過去を一旦リセットして、新しいステージを迎えるということである。

「連携」とか「一貫」という言葉のもとで、学校間の区分がなくなってしまえば、いつまでも過去の自分をひきって歩かなければならなくなる。これは子どもたちにとっては不幸なことだと私は思っている。

それぞれの学校は、いまある現在の子ども(児童、生徒、学生)の姿をそのまま受け入れ、再出発させるための教育をしていけばよいのである。

そろそろこうした学校に関する調査結果がでてきてもよさそうである。もちろん、研究者や研究機関による客観的な調査でなければ意味がないが。

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礼拝

関西学院大学では、1限目と2限目の間の休み時間が40分間ある。この時間はチャペル・アワー(学校礼拝)で、どのようなイベントも入れられない。もちろん、信教は自由なので、教員も学生も出席は強制されていない。だから、教員・学生が全員出席するわけではない(全員が出席できる、チャペルの容量はない)。全員が出席しないのに、40分の時間をあけておくのは無駄だという考え方もなりたたないわけではないが、それは違う。

関学はキリスト教主義の大学。私は、せっかくキリスト教主義の大学に入学したのだから、キリスト教についてはきちんと学習してほしいと思う。少なくとも、キリスト教とは、どのような教義なのか(宗派によって異なるが)、キリスト教徒とは一体何を信仰しているのか(個人によって異なるが)について一端には触れてほしいと思う。これについては、「キリスト教学」(必修)といった科目があるので一通り学ぶことができるだろう。

しかし、もう一つ重要なことは、キリスト教の習慣やキリスト教主義的な考え方に触れることである。そのためには、礼拝に、出て賛美歌を歌ったり、祈りの言葉に触れたり(例えば「「主の祈り」)、宗教主事やキリスト教信者の話しを聞いたりすることが大切である。そしてその話しを自分なりに解釈したり、批判したりすればよい。ただ、学校礼拝は、教会の礼拝とはまったく異なる。だからこれを「礼拝」と考えるにはまったく不十分であるが、それでもキリスト教の習慣に少しは触れることができる。

学生にはできるだけ礼拝に出席するようにすすめたい。そして私も今年度はできるだけ礼拝に出席することにする。実は、毎日同じ時間に礼拝に出席することによって、生活にリズムができるという利点がある。もちろんそんな実益を求めての出席でもよいのである。

***最近人間が素直になりつつある。「ひねくれ」は返上しなければならないかな。

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大学生数学基本調査

日本数学会が「大学生数学基本調査」の結果を発表した。その要旨は次の通り。

問1では「平均の定義と定義から導かれる初歩的結論」、「少し複雑な命題 の論理的読み取り」のどちらも誤答率が高く、論理を正確に解釈する能力に問題があることを示しています。

問2。記述式入学試験を課している難関国立大学の合格者を除くと、「偶数と奇数の和が奇数になる」証明を明快に記述できる学生は稀、という結果になりました。二次関数の性質を列挙する問題では、意味不明の解答が多く、準正答のなかにも、すでに挙げた性質と重複する性質を再度挙げる解答が目立ちます。論理を整理された形で記述する力が不足しています。

問3では、平面図形を定規とコンパスで作図するということが何を意味するのか理解していない解答が多く見られました。高校までの教育で、こうしたことがきちんと教えられていない可能性もあります。

定点観測の一環としてこのような調査を継続しデータを集積する意義はある。しかし、次のような提言が意味があるとは思えない。それにあまり数学者らしくない提言だ。

中等教育機関に対して:充実した数学教育を通じ論理性を育む。証明問題を解かせる等の方法により、論理の通った文章を書く訓練を行う。

大学に対して:数学の入試問題はできるかぎり記述式にする。1年次2年次の数学教育において、思考整理と論理的記述を学生に体得させる。

数学の学力を含め、大学生の学力が低下しているのは間違いない。しかし、同年代に占める大学生の比率が高くなれば、その学力が低下するのはある意味で当たり前のことである。大学人は、それを中学校や高校の教育のせいにしたり入試にせいにする前に、まず現実として受け止める以外にない。重要なことは、その現実を受け入れ、そこを出発点として、これから自分がどのような教育をするかを考えることだ。

ただ、これはなかなか難しいことだ。私もついつい自分の教育力のなさを学生の能力や学生が過去に受けた教育のせいにしてしまう。決してしてはいけないことだ。肝に銘じよう。

※大学生の比率の増加に伴い、人口に対する大学教員の比率も当然高くなっている。ということは・・・・恥ずかしくて口に出せない。

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