大学人の差別ツイート

広島大学助教の差別ツイート問題。
言語道断だし、自分の出身大学にこのような教員が勤めていることが恥ずかしい。
だから、この人の言動は批判されるべきだ。また、大学としても何らかの責任ある対応をすべきだ。
ところが、このことについてある団体を通じて署名依頼が来た。その内容は次の通り
・・・・・・・・・
私たちは広島大学と伊藤氏が非常勤講師を務める上記の大学に対して、以下のことを求めます:
1) 伊藤氏を解雇し、このようなことが二度と行われないように学内で差別禁止ルールを定め、再発防止策をとること。
2) 伊藤氏の講義や学内その他の場において差別発言が行われてこなかったかを調査すること。
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この署名には私は応じない。
学外団体が一大学に対して教員解雇の圧力をかけることには反対だからである。
一教員に大学の諸規定に違反する行為があれば、大学がその規定に基づいてなんらかの処分をくだすのは当然である。しかし、外部からの圧力を理由にした一教員の解雇などは絶対にあってはならない。
このようなことが前例となれば、大学の人事に対する外部の圧力を認めることになる。また大学当局が気に入らない教員を排除するのに外部の圧力を口実にすることも可能になる。
目的がいくら正しくても、その手段が節度を超えてはならない。

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尼崎市体罰

朝日新聞朝刊

兵庫県尼崎市教委は28日、市立の小中高校などを対象に体罰の実態をアンケートしたところ、小学4年生以上の児童生徒2万2559人のうち348人(1・5%)から「体罰を受けた」と申告があったと発表した。教職員2898人への調査でも、131人(4・5%)が「体罰を行った」と認めた。市教委は今後、個別の事例を詳しく聞き取り、関係者の処分を検討する。

教員の4.5%をどう見るのか? これが「体罰を行った自覚がある」という教員の回答だとするとかなり多い数字だ。自覚していないものを含めると、体罰はもっと存在しているはずだ。これは尼崎市だけに特別な状況なのか?

一般の社会には、残念ながら体罰を容認する風潮は残っている。酒飲み話をすれば、「俺は先生によく殴られた。それが良かった!」などという話はよく出てくる。酒場の教育論には反論してもしかたないが、教育界では「体罰は厳禁」ということはすでに常識になっているはずだ。また、教員養成の過程でもそのことは何度も学んでいるはずだ。現在は教員になっても何度も研修があって、何度も何度も教えられているはずだ。私は小、中、高で働いた経験はないので、どうしてこんな高い数字が出てくるのかまったく理解できない。

 

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流山市のいじめ問題

藤川大祐氏(千葉大学教育学部教授)が、21日に記者会見を開き、千葉県流山市教育委員会の法令違反かつ不適切ないじめ問題対応について公表した。藤川氏は、流山市いじめ対策調査会の元会長でもあり、この記者会見は流山市教育委員会が重大ないじめ事件に対し何の対応もしてこなかったことに対する告発でもある。

私は、藤川氏とかつて付き合いもある。藤川氏は研究者らしく慎重に言葉を選んで使う人である。その藤川氏が「嘘」と言うような厳しい言葉で批判するのだから、よほどのことだったのだろう。記者会見も子どもたちを守る最後の手段だったのだろう。

藤川氏自身が、自分のブログで経過を説明しているのでその記事を読んでいただきたい。
このようなことは、流山市またはごく一部の教育委員会の話だと思いたい。

以下、藤川氏のブログにリンク。

流山市教育委員会の法令違反かつ不適切ないじめ問題対応について

教育委員会が法令なぜ違反の対応をしてしまうのか

流山市教育委員会は資料を確認せずに嘘をつく

流山市教育委員会、後藤博美教育長にお尋ねしたいこと

 

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大学改革

産経新聞「正論」より

正論にもたまにはまともな意見掲載される。

私が大学教員になった頃は、天国とは言えないまでも、大学はまだ社会とは別世界でパラダイスだった。90年代に8年ほど研究機関に勤め、21世紀になって大学に戻ったら、大学はすっかり変わっていた。それでもまだまだ居心地の悪い場所ではなかった。しかし、国立大学の法人化等を通して、だんだん閉塞感が強くなってきた。

私は最後は私学だったのでまだマシだったかもしれない。それでも、最後ごろは、もうやってられないという気になってきた。その後の大学の状況はあまり伝わってこなくなってきたが、それでも今何が起こっているかはニュースなどから想像することはできる。

私が若い頃に今の状況だったら、大学教員の仕事を続けるのは無理だっただろう。ただ、大学教員でなかったら何ができたかというと、他にできそうな仕事もない。結局、生きにくい世の中になってきたということか。




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神戸市教員いじめ事件

それにしても、神戸市の教師いじめ問題は深刻だ。私は教師の不祥事がおこるたびに、それはあくまでも個人の特殊な状況だと判断してきたし、そう主張してきた。


しかし、今回の自体はそうも言えそうにない。現役時代、神戸市内の小学校に足を運んだ。今考えるといろいろ思い当たるフシはある。ただ確定的なことは言えない。なぜこんな事が起きたのか。体質的な問題も含めて、徹底的な解明が必要だ。

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吉報

一昨日の12月31日、大掃除も終わりあとは年越しを待つばかりという頃になって、吉報が飛び込んできた。

理化学研究所仁科加速器研究センター超重元素研究グループの森田浩介グループディレクター(九州大学大学院理学研究院教授)を中心とする研究グループ が発見した「113番元素」を、国際機関が新元素であると認定したというニュースである。

いろいろな報道機関がこのニュースを伝えているが、当事者である理研の広報が一番正確だろう。次のリンクを見ていただきたい。

113番元素の命名権を獲得

この研究の詳細については、私などの門外漢はまったく説明などできないが、それでもその意義は分かる。

(1)元素の周期表を書き換えること、すなわち科学を一歩前進させる研究成果であること。
(2)元素命名権の獲得が欧米以外では初の快挙であり、日本の科学研究にとっても活気的な出来事であること。
(3)スタップ細胞問題で信頼を失った理化学研究所の名誉回復の第一歩となること。理化学研究所は日本の科学研究の重要な拠点であり、したがって日本の科学研究の信頼性の向上にとっても重要であること。
(4)何と言っても、この研究のチームリーダーが私の身内であること。森田浩介は、私のいとこ(父親が兄弟)。

2014年の1度目の成果以来、ずっとこの日を待ち望んできた。その間2度成功したことが伝えられたが、それでも命名権の獲得はならなかった。私自身、和光の研究所を訪ねてその装置を見せてもらったこともある(さっぱりわからなかったが)。何度かメールでもやりとりした。その間に本人は愛妻を病気で亡くしている。「正直落ち込んでいます」というメールももらったことがある。今か今かと待ちながら、10年の月日が流れて行った。

それでも、実験の正しさと命名権の認定について、本人の確信はまったく揺ぎないようだった。最後に会ったのは一昨年の8月。本人の実家にお邪魔していっしょに大酒を飲んだ。その時にも「近いうちに認定される」という確信のある言葉を聞いた。また昨年の8月の国際機関の大会の際に議題に上ったようだが決定は延期された。その時に私から「残念」というメールをを送ると「待つことにはなれている」という返事が返って来た。さらに、正式決定の1週間ほど前の12月26日に一部の新聞で「来年3月に認定か」という記事が流れてた時にも、本人は「まだ確定していない」「3月というのは噂」と言い、いたって冷静だった。

こうなったら、もう「果報は寝て待て」という気になっていたら、今回突然の吉報である。もう舞い上がりそうになった(私が偉いわけでもなんでもなく、私が舞い上がってもしょうがないのだが)。

31日はテレビのニュースを次から次に追いかけた。何度も何度も出てくる本人の笑顔と一瞬見せた涙。私はテレビの前でただ拍手し涙ぐむだけだった。

分野はまったく違うが、私も研究者の端くれ、一瞬がんばらなけりゃとも思ったがあまりにもレベルが違いすぎる。それにもう能力も気力も残っていない。ただただ、お祝いするだけである。

浩介君おめでとう。今度ゆっくり祝杯をあげよう。

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杜撰な歴史記述

FB友の一人が勧めているし、ネット上でも話題になっているので閲覧してみた。

ねずさんのひとりごと

コンテンツがあまりにも多いので、自分の専門に近い記事を読んでみた。

ちょっとガッカリした。なぜかというと記述がめちゃくちゃだからある。極め付けは次の部分である。

引用開始

日本が日清戦争に勝利し、下関条約で台湾の割譲を受けたのが明治28(1895)年4月17日です。
伊沢修二が台湾総督府の学務部長心得として台北に赴任したのが、同じ年の5月18日です。
そして6月26日には、伊沢は台北の芝山巌に学堂を設置し、そこに地元の長老たちとの懇談によって6名の台湾人の若者を、新たな台湾人教師として育成するために、提供してもらっています。

伊沢は長老たちに説きました。
「自分たちがここに来たのは、戦争をするためでも、奸細(探偵)をするためでもありません。日本国の良民とするための教育を行うためだ。」

そしてこの6名と起居をともにし、彼らに必要な教育論と、日本語教育を施しました。
この若者達が、どれだけ優秀だったかというのは、その6名が、わずか4ヶ月で日本語をマスターし、さらに教育論や教育実務についてまでも、優秀な成績で学堂の卒業に至ったという事実です。

もちろん、そもそも彼ら6名に漢文の素養があり、明治の頃の日本語の文章が、ほとんど漢字ばかりだったということも幸いしたろうとは思います。
けれども一般に、むつかしいとされる日本語をたった4ヶ月でマスターしたということは、彼ら6名が優秀だったということに加えて、それだけ熱心に伊沢の授業を受けたという結果でもあったろうと思います。

その彼らの卒業が11月末のことです。
ところが、翌年のお正月、伊沢が日本に帰国していたときに、その6名は約百名のゲリラの襲撃を受けて、全員斬殺されてしまうのです。

引用終了

すこし歴史に詳しい人なら、これがでたらめであることはすぐにわかるはずだ。この著者のいう「ゲリラ」の襲撃を受けて惨殺された事件は「芝山巌事件」と呼ばれる有名な事件であるが、その被害者の6人の日本人教師である。この6人は「六氏先生」とも呼ばれる。

ついでに言えば、この六氏先生の一人は、今放送されているNHK大河ドラマ「花も燃ゆ」の主人公・文(美和)の姉・寿と小田村伊之助(後の楫取素彦)との間に生まれた子・久米次郎(後の楫取道明)である。おそらく大河ドラマでは、これから、久坂玄瑞の隠し子が発覚したり、寿が死んだり、美和と伊之助が再婚したり、この事件で道明が亡くなったりと、文の波乱の人生が描かれるのだろう。このへんがどう描かれるのか興味深い・・・・おっと脱線しそうになった。

これは、明らかに史実に関する謝りである。このような間違いが起きる原因は、おそらく聞きかじり(読みかじり)による推測と思い込みにある(要するにちゃんと調べていない)。

歴史というのは史観が違えば同じ事実に基づいていてもまったく違う見え方がすることがある。それはまだしようがないことだと思う。しかし、事件の被害者が日本人であったか台湾人であったかを間違えるというのはあまりも杜撰である。これが私がたまたま見た記事がそうだったのか、氷山の一角なのかは全部を調べてみないとたわからない。しかし、ほぼ予測はつくし、全部を検討するほど暇人ではない。こういう怪しげなブログには関わらないほうがよさそうだ。そして、こんなブログを他人に勧めると勧めた人も軽くみられるのではないかな。そのほうが心配である。

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7×70

新約聖書の次の箇所を思い出した

イエスは言われた。「あなたに言っておく。七回どころか七の七十倍までも赦しなさい」(マタイによる福音書 8章 22節 新共同訳)

なぜ、思い出したかというと、学生から数え切れないほど裏切られたからである。しかし、教師がここで切れてはいけない。数え切れないと言っても、一人の学生から490回も裏切られたわけではない・・・・と思いつつ、自分の心を鎮める。

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「プロ意識」

息子の入学式のため担任クラスの入学式を欠席した教師のことが、埼玉新聞で次のように掲載された。


県西部の県立高校で50代の女性教諭が長男が通う別の高校の入学式に出席するため、担任を務める1年生の入学式(8日)を欠席していたことが分かった。新入生の保護者らは「今の教員は教え子より息子の入学式が大切なのか」と困惑している。
 
県教育局によると、県内の県立高校では、ほかに男女3人の担任教諭が子息の入学式出席を理由に休暇届を提出し、勤務先の入学式を欠席した。
 
関根郁夫県教育長は11日に開いた県立高校の校長会で「担任がいないことに気付いた新入生や保護者から心配、不安の声が上がった」と、この事実を報告した上で「生徒が安心して高校生活をスタートできる体制づくりと心配りに努めてほしい」と異例の“注意”を促した。
 
関係者によると、入学式の担任紹介の中で校長が女性教諭の欠席理由を説明。女性教諭は「入学式という大切な日に担任として皆さんに会うことができないことをおわびします」という文章を事前に作成し、当日、別の教諭が生徒らに配ったという。
 
来賓として入学式に出席した江野幸一県議(刷新の会)は「担任の自覚、教師の倫理観が欠如している。欠席理由を聞いた新入生たちの気持ちを考えないのか。校長の管理責任も問われる」と憤慨。
 
県教育局は「教員としての優先順位を考え行動するよう指導する」としている。


週刊誌でも次のような見出しで取り上げられている。
「息子の入学式のため担任クラスの入学式を欠席した教師を支持しますか?」
このようなことがニュースになることも、このようなことを問題にすることもナンセンス(久しぶりに使うなあ)である。

自分の行動について意思決定する場合、いつも決まった規範があるわけではない。その時々の状況の中でもっともよいと自分が思った選択をする(当たり前だ)。普通は勤務校の入学式に出席すべきであることはだれでもわかる。しかし、どうしても家庭を優先させたい事情がある場合もある。その許容範囲に明確な境界線があるわけではない。文章ではっきり定義されているのは忌引き、病休くらいである。それ以外の場合、実際にはその時の家庭の状況(家庭の歴史もある)、子どもの状況、学校における対応の可能性など、いろいろな状況を考慮して最終決断をくだすことになる。

今回のケースも、教師はいろいろな状況を考慮し、あえて家庭を優先する決断をしたのであろう。(おそらくそれは苦渋の決断であったはずだ)。そして、休暇願いを出しそれが許可されたので入学式を欠席した。校長が休暇を認めたということは、学校が対応できると判断したことを示す(どうしてもだめなら許可しなかったはずだ。校長は許可しないという判断をすることもできた)。

これだけのことである。この教師は何ら服務規則に違反することもしていない。校長の許可もとった上での行動である。にもかかわらず1度の意思決定についてなぜとやかく言われなければならないのか。何の事情も知らない人間が「プロ意識に欠ける」などと、なぜ断定できるのか。

さらに一県議がその学校名をさらして人格攻撃したために、その教師親子が特定されかねない状況にまでなっている。この県議の責任は重い。少なくとも本人と埼玉県民に対して謝罪すべきである。

犯罪にも違反にもあたらないたった一度の意思決定の結果だけをみて、人間を簡単に断罪できる人の頭の中を私はむしろ疑う。

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大学の自治

読売新聞朝刊記事(抜粋)
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政府は、学長主導の大学改革を促すため、教授会の権限を抑制し、学長に対する助言機関に位置づけることを柱とする、学校教育法・国立大学法人法改正案の骨 子を自民党文教部会に示した。教授会が審議する事項は、(1)教育課程の編成(2)休・退学処分など学生の身分(3)学位の授与(4)教員の業績の審査な どに限定するということ。
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現在の大学の教員の役割は大きく3点。教育、研究、大学管理運営。改正案は、基本的には大学の管理運営に一般教員は口出すなということ。こうなると教授会 の議題は減って会議は短くなるし(これはうれしいことだが)、教員は教育と研究だけに専念できるということになりそうにみえる。しかし、一方で大学の管理 運営は一部の役員で文部科学省などの言いなりに決められるので、一方的に不本意な業務が押しつけられ、それに対して意見も言えない状態が生まれるかもしれ ない。2004年の国立大学法人化で、学長の権限が強化され教員の間に閉塞感が広がっていったが、それがさらに進んでいくことになるだろう。また、今回は 学校教育法の改正も含まれているので、私立大学でも同様のことが進行していきそうだ。

私は、もう10年以上前に「大学の自治」を次のように定義したことがある(個人HP内「ひねくれ教育事典」)。

「もうすっか り死語に近くなってしまった言葉。行政の力が強くなったせいもあるが、(死語になった)一番の理由は大学自治の恩恵を一番多く受けた人たちが、大学の自治 をすっかり食いつぶしたせい。その人たちは、食いつぶしただけでまったく修復もせずに大学を去っていく」

これを書いたころは、まだ自覚をしていなかったのだが、私自身も結局食いつぶし世代の一部になってしまった。あと数年。どう生きていくか。

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