ジミーの誕生日

12月23日に次のように書いた。

天皇誕生日。
中略
歴史では、東條英機らA級戦犯が68年前に処刑された日。将来の天皇誕生日に処刑したのは、アメリカの意地悪か、それとも思い出させないためか。

この答えが書かれている本が出ている。

猪瀬直樹『東条英機処刑の日 アメリカが天皇明仁に刻んだ「死の暗号」』(2011 文春文庫)

もともとは2009年に『ジミーの誕生日』というタイトルの単行本を文庫版にするときに改題したもの。ジミーは当時の皇太子明仁殿下の英語の授業時のニックネームである(恥ずかしながら、勉強不足でこの本の存在を最近まで知らなかった)。

この本は、GHQ(実はアメリカ)の対日占領政策を描いたノンフィクションであるが、最大の焦点は東京裁判と1948年の東條らの処刑である。

東條らの処刑は、まるで皇太子の誕生日の12月23日を待つように、1948年のその0時1分30秒に執行された。さかのぼって、A級戦犯が起訴されたのが1946年4月29日(つまり天皇誕生日)、裁判が開廷したのが5月3日(翌年に新憲法施行)。アメリカ(マッカーサー)はA級戦犯の処遇が天皇の身代わりであることを知らせたかったのというのが、著者の主張である。

この本の見どころは、そこで、マッカーサーの部下であるケーディス大佐(実在人物)、そしてこの大佐と不倫関係になったと言われる子爵夫人(これも実在の人物だということは結構知れ渡っている)をキーパーソンとしていることだ。ジミーの誕生日に処刑という筋書きは、このケーディス大佐が描いたものだという。

物語の最後に猪瀬自身がこの子爵夫人の孫という女性(この女性が実在の人物かどうかはどうでもよいことである)と語るシーンがある。

「12月23日の皇太子誕生日がケーディスの作品の完成なのか、というご質問には答えられます。いずれ昭和天皇は無くなれば皇太子明仁が天皇として即位する。12月23日は祝日になる。その日に東條が絞首刑になった日だということを日本人が思い出すはずだった。新しい天皇にも戦争責任が刻印され、引き継がれる。・・略」
「でも東條が処刑された日など、いま誰も知りませんよね」
「ただ一人を除いてね」

ここまで読んだとき、すぐに明仁天皇の姿が浮かんだ。沖縄、広島、長崎、硫黄島、サイパンと痛々しいまでに慰霊の旅を繰り返す姿が。この方にはまだあの戦争の傷跡ががしっかり刻み込まれているのだと。世の中がクリスマスだと浮かれているときにも。

それにしても猪瀬のこの筆力はなんだろう。原資料を含む資料をもとにこの物語を構成するのだろうが、一つひとつの場面はまるで現在目の前で起こっていることのように描かれる。推理小説でも読んでいるような気分になる。

政治の世界などに足を入れて、その名前を汚してしまったのが残念でならない。しかし名誉挽回、政治の世界のドロドロも含めてもっともっと書いてもらいたい(いまは、ほほえましい噂話が持ち上がっているが)。

| | コメント (1)

勇者たちへの伝言

増山実『勇者たちへの伝言・いつの日か来た道』(ハルキ文庫、2016、680円+税)

一気読みした。

「勇者」とは現在のオリックス・バッファローズの全身である阪急ブレーブス球団(1988年度で消滅)。「いつの日か来た道」は阪急ブレーブスの本拠地・西宮球場のあった「西宮北口」とゴロが合って、居眠り状態で聞くと聞き間違えることから来ている。

この小説は阪急ブレーブスにまつわる人々、その西宮北口周辺で生きていた人々のその後の人生を描いた物語。西宮球場と阪急ブレーブスがこの物語の登場人物をつなぐキーになっている。しかし、この物語の大きなテーマは北朝鮮帰還事業によって集団帰国した在日朝鮮人の人々に待っていた過酷な人生。

物語の半分は、主人公の父親の初恋の人であった在日朝鮮人の李安子に手紙文の形で語らせる。「この世の楽園」という北朝鮮側の宣伝によって1959年から1960年代に続けられた北朝鮮帰還事業。しかしその実態はこの世の楽園とは正反対の地獄だった。しかし、それでも必死で生き延びていく李安子の人生。その語り口には体験した人でなければわからない真実味を帯びている。

作者は、おそらくこの小説を書くために時間をかけた取材をしているはずだ。李安子さんはおそらく実在の人物だろうし実際に会って話もしたのであろう。また、阪急ブレーブスの選手であった高井保弘氏やバルボン氏へは取材もしている。北朝鮮に帰還して消息不明になった歌手の小畑実や永山一夫にもふれる。しかし、一方でタイムマシンのように時間が溯って死んだ父親と会話をするなど奇想天外なシーンも登場する。このような、フィクションとノン・フィクションの程よく折り混ざった構成が、物語を面白くしている。

それにしても、あの帰国事業は何だったのだろう。そして帰国事業は、北朝鮮が騙したというだけでは片付けられない。自民党・社会党・共産党をはじめとす政党や多くの団体が積極的に関わっている。日本人の責任も極めて大きい。

なお、物語に小畑実という歌手の「星影の小径」という歌が出てくる。You-Tubeで聴いたらかすかに聴き覚えのある歌だった。永山一夫は残念がら覚えていない。

| | コメント (0)

Facebookより

芥川龍之介「侏儒の言葉」

何度読んでも面白い。夜中に一人で笑っている。「軍人」じゃないが、小児的な人はたくさんいるなあと、何人かの人の顔を思い浮かべる。

小児

軍人は小児に近いものである。英雄らしい身振を喜んだり、所謂光栄を好んだりするのは今更此処に云う必要はない。機械的訓練を貴んだり、動物的勇気を重んじたりするのも小学校にのみ見得る現象である。殺戮を何とも思わぬなどは一層小児と選ぶところはない。殊に小児と似ているのは喇叭や軍歌に皷舞されれば、何の為に戦うかも問わず、欣然と敵に当ることである。

この故に軍人の誇りとするものは必ず小児の玩具に似ている。緋縅の鎧や鍬形の兜は成人の趣味にかなった者ではない。勲章も――わたしには実際不思議である。なぜ軍人は酒にも酔わずに、勲章を下げて歩かれるのであろう?

| | コメント (0)

文芸春秋(9月号)

『文芸春秋9月号』・・・今年の芥川賞の2作品が掲載されている(そんなことはどうでもよい)。

3つの記事がよかった。

・保阪正康「安倍首相・空疎な天皇観」
保阪氏の著書は数多く読んできたが、イデオロギーに捉われずに、歴史と現実をしっかりと超えた提言をしている。安倍首相やその周りにいる人にとっては、野党よりもこういう人の批判が一番きついのではないか。保阪氏の主張を要約して紹介するのは僭越だと思うのでぜひご一読を。

・中曽根康弘「大勲位の遺言」
97歳だそうである。少し総花的な感は拭えないが、今後の日本の進むべき道に対してさまざまな提言をしている。この人が総理大臣をしている頃、私は「革新」の側にいたので当然大嫌いだった。そして「保守反動」の権化のように思っていた。そして氏は今でも改憲論・核武装論者である。しかし、総理大臣を辞して以後のいろいろな著述をみるとそのバランス感覚に驚く(だから、「風見鶏」と呼ばれたのかもしれないが)。現在の集団的自衛権の問題に関してはもちろんそれを推進する立場にあるが、それについても説得力のある説明をしている。中曽根内閣ならもっとまともな議論ができたのかもしれない。ただ、野党にとってはもっと手強いだろう。安倍首相とは格が違う。

川上千春「妹・川上慶子と私の三十年」

8・12日航ジャンボ機墜落事故。ついこの間のような気がしていたのだが、もう30年。520名の方が亡くなったが、4名の生存者がいた。その中の一人、 川上慶子さん。辛い事故報道の中で、生存者の存在は唯一の明るい希望の光だった。慶子さんが救出される場面に涙した人がたくさんいるのではないか。その慶子さんの兄である千春さんの手記。慶子さんはその後看護師になり、阪神大震災の 時は神戸で被災者の看護にあたり、今は結婚もして家族と幸せに暮らしているという。お兄さんもケアマネージャとして高齢者の世話をしているという。とにか く良かった。

| | コメント (0)

本の始末

引っ越しで、2月に2千冊ほど自宅の本を始末した。今度は研究室に置いている自分の本(専門書、雑誌)を始末している。研究室の整理ができなくてしょうがないからだ。

本というのは、一生懸命買ってもたいていはゴミになる。読んでみるとつまらないと思うものが多い(私もゴミみたいな文章をたくさん書いた)。またある時期は宝のように思えた本が、時間がたつとゴミになる。ただ、その逆もある。ゴミだと思っていた本が、実は貴重な資料になることもある。だから、簡単には処分できないのである。

しかし、まあ余り悩んでもしかたがない。「新書」などでほとんど現代的な価値のないもの、3年間一度も開いたことのないような本、近くの図書館に行けばいつでも読めるようなものは処分するに限る。というわけでかなり処分した。

| | コメント (0)

本日討ち入り

今日は、12月14日、赤穂浪士の討ち入りの日。一つの物語としては大好きだが、史実として考えると一大暴挙である。

殿様(たぶん「癪」だったのだろう)が、些細なことで吉良上野介に切り付け、即日切腹の上お家を断絶させられた。吉良上野介が浅野からの心付けが少なかったことに腹を立て、馳走役の指南のさいにきちんと教えなかったり、嘘を教えたりして嫌がらせをしたというのは作り話であろう。馳走役に粗相があれば、指南役でさえ責任は免れ得ない。上野介もなぜ自分が切り付けられたのか心当たりもないだろう。そしてその仇討ちと称して、大挙して(といっても47人)吉良家に討ち入り吉良の首を取った。まあ、逆恨みも良いところである。吉良さんも、何で自分が首を取られなければならないのか、不思議に思いながら死んでいったのではないか。

浪士たちも浪士たちで、討ち入りなどしなければしないで済むはずだったのだろうが、さまざまな理由で討ち入りに追い込まれたのだろう。名誉欲、意地、面子、生活苦など個々に理由は異なるだろうが、「仇討ち」という大義名分によってそれらはすべて覆い隠される。喧嘩両成敗という法度を破って浅野だけを罰した幕府への抗議という説もあるが、吉良は何の抵抗もしなかったのだからその理由も成り立たない。

史実ではないが、しかしそれを扱った物語は面白い。私が一番好きなのは森村誠一『忠臣蔵』(全5巻・角川文庫)である。内蔵助が山科で遊び呆けたのは、相手を油断させるためではなく本当に遊びが好きだったから。そして討ち入りを決断したのは、お家再興もかなわなくなり、名を後生に残すことを目的にしたため。他の登場人物も一人一人個性豊かに描かれている。

池波正太郎の『おれの足音』(文春文庫・全2巻)、『堀部安兵衛』(新潮文庫・全2巻)もなかなかのもの。前者は内蔵助の、後者は安兵衛の生涯をさわやかに描いている。

湯川裕光『瑤泉院―忠臣蔵の首謀者・浅野阿久利』 (新潮文庫) という際物っぽいのもある。

いずれにせよ、忠臣蔵という物語が人々に愛されるのは、生と死について考える機会を提供しているからではないか。この物語には、「死」の場面が3度出てくる。最初は内匠頭の切腹、次が上野介の死、そして最後に浪士たちの切腹。「死を覚悟する」というのはどのようなことか。死はおそかれはやかれやって来るものだが、その日をはっきり知った時はどんな気持ちになるのだろうか。忠臣蔵の物語を読んだり視たりする度に考える。

| | コメント (0)

「共喰い」

田中慎弥「共喰い」(『文芸春秋』3月号)を読む。芥川賞作品である。受賞時の記者会見時の発言などで、作者に関する話題が先行してしまってなかなかコメントがしづらいが・・・

選考委員の何人かが述べているように文章はなかなかすごい。とくに主人公の暮らす地域の風景、主人公のまわりにいる人々を描写している場面を描いているところでは、ぐんぐん引き込まれていく。ただ、主人公の内面の描写はいただけない。

主人公の遠馬は17歳の高校生。近くに住む上級生の千草とのセックスにのめり込んでいる。父は相手に暴力を加えながらセックスをするという性癖があり、それを目撃した主人公は同じことを千草にしてしまう。その前後の主人公の葛藤を描いた小説、ということになるのだろう。

この17歳の主人公の頭の中は、セックスばかりである。わたしもかつて「17歳の少年」を経験したことがあるのでこのような頭の状態はわからなくもない。しかし実際の17歳の少年はそれだけではない。自分の将来のこと、家族のこと、友人のこと、学校のこと、社会のことも1%くらいは考える。その中で苦しみもがく。頭の中は99%セックスばかりであっても、葛藤がセックスから生まれるわけではない。

この主人公も一応は葛藤しているようだ。だから、その葛藤もセックスに由来している。しかし、そんな葛藤にはほとんど必然性がない。それは作者が描いた虚構にすぎない。.この主人公が特異な性格であり、仮に実際に存在する自分だとしても、作者はこの主人公の内面、つまり葛藤の本体は何も描ききれていない。

結局、ベトベトした精液の匂いばかり残る薄気味悪い小説、というのが私の感想である。

| | コメント (0)

「沈黙」

本棚から、久しぶりに遠藤周作の作品を取り出す。遠藤周作の作品のテーマは、「沈黙する神」「弱者イエス」である・・・・・と私は思っている。

代表作である『沈黙』は、幕府による厳しいキリシタン弾圧の中で、神の存在を問うポルトガル人司祭を主人公にした作品。主人公の神への問いは、「なぜあなたは黙っているのです。この時でさえ黙っているのですか」。

この問いは、作者自身の問いでもある。そして次の一節は、作者自身がたどり着いた答えでもあろう。

「主よ。あなたがいつも沈黙していられるのを恨んでいました」
「私は沈黙していたのではない。一緒に苦しんでいたのに」

震災の日。以前は、すっと心に落ちていたこの言葉も、今はすんなりとは落ちてこない。

| | コメント (0)

ただ遊べ帰らぬ道は誰も同じ

作家の団鬼六(おにろく・・・・わたしは数年前まで「きろく」と思いこんでいた)氏が昨日亡くなった。関学出身だということをニュースではじめて気ついた。

私は、鬼六氏の専門のほうの小説(例えば『花と蛇』)は一冊も読んだことがない。ただし将棋を題材にした本は読んだ。本棚には次の2冊があった。

『真剣師小池重明』(幻冬舎アウトロー文庫・1997)
『鬼六の将棋十八番勝負』(kss・」1999)

前者は、将棋のアマ強豪(将棋ギャンブラー)、小池重明の破天荒な生涯を描いたノンフィクション小説。後者は、林葉直子(当時女流棋士)、大山康晴(故人、十五世名人)、羽生善治(当時四冠)らに挑んだ自戦記である。

なんと、鬼六氏はこの将棋で、大山十五世名人、羽生四冠に勝っている。もちろん平手ではなく飛車落ちだが、それでもこの二人を負かすのは大変なことだ(多分私は4枚落でも勝てない)。

将棋の他にもう1冊
『ただ遊べ帰らぬ道は誰も同じ-団鬼六語録』(祥伝社・2009)

これはタイトルのとおり「語録」である。めちゃくちゃおもしろい。
その中から好きな言葉を一つだけ

お銚子なら一本半とか、水割りなら薄め二杯とか、そんな風に計算して自分の肉体を庇いながら酒を飲める酒飲みがいるものか。

| | コメント (0)

阪急電車

自宅のある阪急「武庫之荘」から神戸線で「西宮北口」まで一駅乗り、そこで今津線「宝塚」行に乗り換え、一駅北にある「門戸厄神」駅で降りる。これが私の通勤経路である。

今津線は、阪神線と連絡している「今津」から「西宮北口」を経て「宝塚」までの南北に走っている路線である。路線図上は西宮北口で神戸線と交差していることになっているのだが、現在は西宮北口で路線が分断されている。西宮北口-宝塚間、西宮北口-今津間がそれぞれ別の路線として運行されている。

有川浩『阪急電車』(幻冬舎文庫・533円)

この本の前半は、阪急今津線・宝塚から-西宮北口方面行きのある電車に乗り合わせた人々の物語。駅名がこの各章のタイトルになっている。順に、宝塚駅、宝塚南口駅、逆瀬川(さかせがわ)駅、小林(おばやし)駅、仁川(にがわ)駅、甲東園駅、門戸厄神(もんどやくじん)駅、西宮北口。それぞれの章が独立した出会いや別れの物語なのだが、登場人物が少しずつ交差している。

そしてこの本の後半は、前半の約半年後の話で、前半とは逆に西宮北口駅から宝塚駅までが章のタイトルなっている。同じ電車に前半と同じ登場人物が乗車するのだが、出会いが恋に発展したり、別れが新しい出会いを迎えたりと、それぞれの登場人物が少し幸せになり、また少し強くなっている。ハッピーエンドなのだが、少しも不自然さがなくなんとも爽やかで読後感がよい。

毎日の通勤で目にする電車の中の光景が文章のはしばしに出てくるし、私の勤める大学の学生らしいカップル、その近くにあるたぶんあの高校の女子生徒、そして小林駅近くにあるあの女子小学校の児童も登場する。物語がとても身近に感じられると同時に、若いということが少しうらやましくも感じられる。

2008年に単行本が出たが、最近文庫化された(私はたいていの本は文庫が出てから買って読む)。来年には映画化されるそうだ。

なお、「阪急電車」「阪神電車」のように社名に「電車」をつけるのは関西独特の言い方のようである。東京には「西武電車」「京王電車」「東急電車」のような言い方はない。

| | コメント (0)

より以前の記事一覧