新学習指導要領

新学習指導要領案発表。
音楽教育研究者は辞めたので、その文言についてのみ一国民の立場で一言。小学校音楽科の目標。( )は中学校の目標。

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「表現及び鑑賞の(幅広い)活動を通して、音楽的見方・考え方を働かせ、生活や社会の中の音や音楽(、音楽文化)と豊かに関わる資質や能力を次の通り育成することを目指す。
(1)
(2)略
(3) 」
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昭和44年学習指導以来の箇条書きの復活である。これで少し分かりやすくなるのかと期待した。しかし読んでがっかりした。公の文でこれほど非論理的な文を見た経験がない。

分析
a 表現及び鑑賞の幅広い活動を通して、
b 音楽的見方・考え方を働かせ、
c 生活や社会の中の音や音楽と豊かに関わる資質・能力を
d 次の通り育成する
e ことを目指す。

a まず、この「通して」はどこにかかるのか。従来の説明では、指導のあり方を述べたものだから、そこから推測すれば「育成する」にかかっているとしか読みようがない。

b ここが一番わかりにくいところだ。「働かせ」の主語は、「教師」なのか「児童」なのか?もちろん教師も働かせなければならないが、わざわざここに文章に書くのは、児童に働かせて欲しいからであろう。また「働かせて」だから、これに続くのは用言でなければならない。そう考えると「関わる」しかない。「・・・働かせ、・・・・関わる」とつながるのだろう。

c ここは、今回の学習指導要領の目玉らしい、育成すべき「資質・能力」を示した箇所である。つまり、この目標の中心である。

d 前の節のcで育成すべき対象を示したのだから、ここは「育成する」だけで十分なのだが、「次の通り育成する」となっている。ただ、「次の通り」は次に書くことの予告文であるべきだが、何を予告しているのかさっぱりわからない(次に書いてある箇条書き文も突っ込みどころがいっぱいだが、つきあっている暇はないので省略する)。

e ここを見て私は椅子から50センチ飛び上がるほど驚いた(実際はは1mmも飛び上がってないが)。「育成すること」が目標ではないのか? 目標に「育成することを目指す」と書いてしまえば、「目標を目指す」と言っているようなものである。つまり「私の目標は東大を目指すことです」と言っているようなものであり無意味である。

このように分析すると、今回の目標は「生活や社会の中の音や音楽と豊かに関わる資質や能力を育成する」ということに尽きる。

さらに「音や音楽と豊かに関わる」ためには、働かせなければならないものはたくさんある。「音楽的見方・考え方」だけがなぜこんなに突出しているのか。「音楽的見方、考え方」は資質・能力の一部ではないのか。そうであれば、ここに書くのではなく、まさに箇条書きにその一つとして記せばよいのである。例えば、次のような文章で十分なのである。

「生活や社会の中にある音や音楽と豊かに関わることができるようにする。そのために次のような資質・能力を育成する」
(「音や音楽」は生活や社会の中にあるのは当たり前だから、なくてもかまわないかもしれない)。また「資質」などということばを使うと説明が大変になる、それに概念的に言えば、「資質<能力」だから、ないほうがよいかもしれない。

学習指導要領の目標がなぜこんなに非論理的なのか?
おそらく、この文章を作成したメンバーのせいではない。まず最初に枠組みが上から押し付けられるからである。
・「見方・考え方」を入れよ
・「資質・能力」を入れよ
・「を通して」を入れよ
・文末は「目指す」とする
・箇条書きの部分は、「(1)知識・技能、(2)思考・判断またはそれに準ずるる事項、(3)関心・意欲・態度」を入れよ。

だから、他の教科も判で押したように同じ文章になっている。
例えば、国語。

「言葉による見方・考え方を働かせ、言語活動を通して、国語で適切に理解し適切に表現する資質・能力を次の通り育成することを目指す。」

国語の専門家がこんな非論理的な文章を出して平気でいるわけではないだろう。委員の方々は内容についてはかなり時間をかけて議論をしたのであろうが、最終的にこんな文章を出さなければならないとは気の毒でならない。

まあ、それでも現場には優秀な人材がたくさんいる(とくに音楽関係)ので、それほど心配はしていない。

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3拍子の唱歌

「文部省唱歌」の原点とも言われる『尋常小学唱歌』(全6巻)。明治44-大正3年にかけて発行された。

ちょっと考えるところがあって、3拍子の曲を数えてみたら、全120曲中わずか5曲。

5年
冬景色
海(まつばらとおく)

6年
朧月夜
故郷
四季の雨

このうち「四季の雨」を除く4曲が戦後の共通教材になり、「海」以外は現在も共通教材である。不思議なことに、この5曲は3拍子と言いながらすべてタイプ の異なる3拍子である。現代の人が、「歌詞と旋律が合っていない」というような批判をしても意味はない。大きな実験だったのではないだろうか。

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教育課程の改訂

次期の教育課程改訂のための審議が中央教育審議会ではじまっている。 教育課程全般を審議するのが、初等中等教育分科会教育課程部会。 その中でも芸術教科(音楽・美術・書道)について検討するのが芸術ワーキング・グループ(前回までは「芸術専門部会」と呼ばれていた)。ここで学習指導要領「改善」の基本方針がほぼ決まる。

すでにその第1回目の会合が開かれ、委員名簿や検討事項等が文部科学省のHPで発表されている。

中教審芸術ワーキンググループ

音楽関係の委員については、妥当な方が選ばれていると思う。おそらく、授業時間数などの肝心なことはこのワーキンググループでは議論させてもらえないだろう。私は前回改訂時の委員だったが、委員を依頼された際に「時間数についての議論はするな」と釘を刺された。また上部の部会(教育課程部会)の方針に沿った検討をしなければならないので制約はある。それでもこのWGの役割は重要である。よい議論が行われるよう期待したい。

ただし、経験者としてどうしても書いておきたいことがある。

前々 回の改訂(1998)では、各学校種の授業の総時間数が大幅削減された。その上「総合的な学習の時間」が導入された。そのあおりで音楽や美術の時間も大幅に削減された。その時の音楽教育界の空気は「全体が 減るのだから仕方ない」だった。

しかし前回の改訂(2008)ではゆとり教育批判の中で総時間数は全体として増加した。また、総合的な学習の時間数は削減された。だから、本来ならまずは前々 回の改訂前を前提としてそこから時間数についての議論をはじめるべきであった。

ところが、音楽や美術については何の議論もなく「従来通りの時間数」というこ とで前々回(1998)の時間数と同じ時間数が上の部会から押し付けられた。
「時間数について議論するな」とはこういうことだったのだ。つまり1998年以前の状態からみると、総授業時間数は減っていない(むしろ増えている)のに音楽や美術の時間だけが大幅に削減されたことになる。

前回の委員はこのインチキに引っかかってしまった(もちろんもっと権限のある 上の部会が決めたことなので何かできたかは疑問だが)。強引にでも時間数に関する議論をするなり、上の部会に意見書を上げるなりすべきだった。最後の芸術専門部会では委員から抗議の声があったが後の祭りだった。今回の賢明な委員の先生方は、こういうインチキにだけは引っかかってほしくない。

どんな立派な内容をかかげても、時間数が確保できなければ実現できない。とくに、アクティブラーニングなどという甘い言葉に騙されてはいけない。

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赤とんぼ・・・再考

発問構成を整理してみた。過去に何度も取りあげた教材だが、読めば読むほど奥が深い。
旋律についても、分析中。

赤とんぼ   三木露風

ゆうやけこやけの あかとんぼ おわれてみたのは いつのひか
やまのはたけの くわのみを こかごにつんだは まぼろしか
じゅうごでねえやは よめにゆき おさとのたよりもたえはてた
ゆうやけこやけの あかとんぼ とまっているさおのさき

1 歌詞をわかる範囲で、漢字に直しましょう。辞書を引いてもけっこうです。
2 話者(この詩の中の私)は、今どこで何をしているでしょう。
3 「おわれて」とありますが、誰が誰におわれたのでしょう。
4 「まぼろしか」と思うのはなぜですか。
5 「ねえや」とは話者にとってどんな関係の人ですか。
6 「おさと」とは実家のことですが、誰の実家でしょう。
7 「たより」誰が誰に出したものですか
8 「たより」にはどんなことが書かれていましたか。
9 「たより」はなぜ「たえはてた」のでしょう。
10 「ねえや」はよめに行ったあとどうなったのでしょう。推測で結構です。
11 話者はどんな家庭で育ちましたか。これも推測で結構です。

期末の実技試験の順番待ちの時間に学生に答えを書かせた。かなり奇想天外な答えが書かれていた。

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ごめんなさい

最近立て続けに音楽教育関係の依頼があったのだが全部お断りした。申し訳なく思っているが、もう依頼に応えるだけの意欲も能力も残っていない。ごめんなさい。

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お知らせ

私、吉田孝は、学外からの音楽教育に関する一切の依頼を今後お引き受けいたしませんので、お知らせいたします。ただし、現在すでにお引き受けしているもの、所属する大学の事業として依頼されたものはこの限りではありません。

お引き受けしないこと
講演、研究会での指導助言、非常勤講師、原稿執筆、学会における司会者、論文等の評価、科研等の研究分担者、各種の外部委員等々

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日本音楽教育学会第44回大会

10月12日~13日、日本音楽教育学会第44回大会が弘前大学で開催された。個人的な感想。

(1)4年ぶりの参加だったが、その間に研究が進化していた。自分の知識や理論的な枠組みがずいぶん古くさくなっている。ただし、それについて行くのはもう不可能なくらい年をとったので、自分なりのスタイルをもつ必要がある。あと3年半だけ音楽教育にかかわっていくつもりだが、もう一つ研究をまとめたい。

(2)研究は進化しているし、ずいぶん実践の力になりそうな研究も多くなったのだが、全体としては音楽教育研究の成果が実践に反映していない。研究の側に問題があるのか、実践の側に問題があるのか、それが反映されない制度の問題なのか。このことについては元某研究所芸術教育研究室長として自責の念がある。これは、現役を引退後にきちんと総括しないといけないと思っている。

(3)4年ぶりに会った人が多かった。当たり前のことだが、みんな4年分だけ年をとっていた。今回、会長をはじめ三役が若返ったが、とてもよいことだ。世代交代がスムーズに行くのがよい。老人はもう足を引っ張らないようにしたいものです。

(4)自分の発表は脇が甘く隙が多い。猛省。

(5)夜の交流は楽しかった。

(6)弘前大学(元職場)の準備は万全だった。実行委員会に感謝。校舎がきれいになったのには驚いた。自分が勤めた大学だとは思えなかった。

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鍵盤楽器のシール

教科に関する科目の音楽では、鍵盤ハーモニカをよく使う。鍵盤ハーモニカを教育用楽器としてすすめたいわけではない。むしろ、楽典の学習に役に立つからだ。たとえば、ヘ長調の音階をつくるにはどの黒鍵を使うか、と言ったことを考えさせるには都合のよい楽器だ。

ところが、よく見ていると、楽譜に書かれた音を鍵盤ハーモニカで押さえられない学生がいる。例えば楽譜のFの音の場合、まずCの音を抑え、そこからまた3つ数えてFをおさえる(実際にはCDEF ではなく、おそらくドレミファと数えているはずだ)

また、楽譜のほうも見るとドレミファをふっている学生がいる。学生にたずねると、小中学校で楽譜にドレミを書き込むのは当たり前。それだけでなく、鍵盤ハーモニカ、オルガン、木琴、鉄筋にはドレミのシールが貼ってあったそうである(もちろんCの位置がド)

幼児教育の研究をしている同僚の話では、鍵盤ハーモニカを導入している保育所や幼稚園(小学校に入るための準備として保護者が導入を要求するところもあるらしい)でも、たいていは鍵盤にシールが貼ってあるそうだ。

私のような「原理主義者」は、鍵盤のCをドと「覚えさせる」ことに対してさえ抵抗がある(最近はあきらめたが)のに、ましてやそれにシールを貼っているのを見ると卒倒してしまいそうだ。

そもそもなぜ、こんな楽器をこんなに早くから導入するのかがまったくわからない。もちろん鍵盤ハーモニカは使い方によっては表現力の豊かな楽器である。しかし、幼児や小学校低学年に指導するとすれば、教師によほどの技量がなければそのような表現力は引き出しようがない(私の技量では無理だ)。とくにタンギングと指使いの合わせ方が相当難しい、ピアノよりもはるかに難しい楽器なのである。

少なくともこの時点で、鍵盤にシール貼ってまでも、指導しなければならないような楽器ではない。幼児や低学年では、歌や踊り(身体表現)を中心とした音楽活動で十分ではないか。

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どんぐりさんのおうち

「どんぐりさんのおうち」というけしからぬ歌に対抗して、移動ド原理主義者の替え歌。

(原曲をそれぞれの調に移調して歌います)。

原曲
「どんぐりさんのおうちどこでしょう? ふたつのおやまのひだりがわ」

変二長調 「・・・・ふたつのおやまのひだりやま」
二長調 「・・・・ふたつのおやまのあいだです」
変ホ長調 「・・・・ふたつのおやまのみぎのやま」
ホ長調 「・・・・ふたつのおやまのみぎがわよ」
ヘ長調 「・・・・みっつのおやまのひだりがわ」
変ト長調 「・・・・みっつのおやまのひだりやま」
ト長調 「・・・・みっつのおやまのなかとひだりのあいだ」(早口で)
変イ長調 「・・・・みっつのおやまのなかのやま」
イ長調 「・・・・みっつのおやまのなかとみぎのあいだ」(早口で)
変ロ長調 「・・・・みっつのおやまのみぎのやま」
ロ長調 「・・・・みっつのおやまのみぎがわよ」

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階名唱

今の学生は、階名唱などほとんど経験したことがないようだ。だから、楽譜を見て階名視唱などとてもできない。しかし、それでも楽譜に階名をふらせると(ドの位置がどこかをきちんと教える)、完全とまではいかないまでもある程度の階名視唱ができる。逆にこれをやると音痴になるのが、子どもの頃からピアノを習い、「ドはドに決まっている」という学生である。Cの音をファとよんだりソと読んだりすることが気持ち悪いと言う。不幸だと思う。

このような状況をみると、階名を読む困難さえ克服すれば普通の人(絶対音感をドレミで身に付けた人を除く)にとって階名視唱はそれほど難しくないことがわかる。言い換えれば、相対音感はほとんどの人が身に付けているということになる。

学習指導要領では、「相対的な音程感覚を身に付けさせるため、適宜、移動ド唱法をもちいる」ことになったが、むしろ階名唱は音楽経験によって身に付けた相対的な音程感覚を視唱や音楽理解に利用することということになる。もちろん階名唱をすれば音程感覚はさらに精度を増す。

トニック・ソルファ法やコダーイの方法などによれば、階名を読むことはそれほど困難でない。にも関わらず、学習指導要領では階名による視唱は小学校ではハ長調・イ短調に限定してしまっている。これでは、「ドはドに決まっている」という観念から抜け出させるのは無理である。また、多くのピアノ教師は幼い子どもに「ドはここです」と固定的に教える(「Cはここです」と教えてくれていたらどれだけ、階名が教えやすいか)。私は、これをてっとりばやくピアノを弾かせたいというピアノ教師のエゴだと捉えている。そして学校教育もこのピアノ教師のエゴに迎合しているのである。

「どんぐりさんのおうち」という歌がある。よくこんなばかげた歌が掲載されている教科書が検定をくぐり抜けてきたとあきれるばかりである。

・・・・・・・・・・・・・・・
とここまでは移動ド原理主義

私は上のような移動ド原理主義者ではない。
で、現実的な提案も含めた論文を書き始めた。(続く)

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