はびこる形式陶冶主義
以下の文章は、日本音楽教育学会より学会設立50周年を記念して発行される「50年の歩み」編集委員会より依頼されて執筆したものである。
内容については一任ということだったので、このような冊子にふさわしい原稿かどうかはわからないが、当時考えていたことを書きメールで送った(2018年11月30日)。
その冊子が発行されたかどうか、また私の文章が掲載されたのかもわからない。また、執筆して2年以上たっているので、主張も色あせている。
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はびこる形式陶冶主義
吉田 孝 1998.11.30
私は1969年に大学に入学した。中学校の音楽教師をめざしたので、この時から私は音楽教育に関わってきたことになる。それから本年3月でちょうど50年たった。奇しくも、音楽教育学会も創立50周年らしい。ただ、まだ50年を振り返る気にはなれない。歴史研究の対象としては、この50年はまだまだ近すぎるし、生々しい話も多い。また、過去を振り返っている余裕も私にはない。しかし、せっかく紙幅をいただけるので、最近気になっていることについて書いておくことにする。
2017年3月に幼稚園教育要領、小学校学習指導要領及び中学校学習指導要領が改訂された。続いて同年4月に特別支援学校、2018年3月に高等学校学習指導要領が改訂された。この学習指導要領の改訂が日程に上って来た当初から、私は嫌な気がしていた。「カリキュラム・マネジメント」「アクティブ・ラーニング」などの怪しげなカタカナ語が、文部科学省の関係者によって頻繁に語られるようになっていたからである。
アクティブ・ラーニングに関して言えば、学習がアクティブ(能動的)なほうがよいのは当たり前のことである。当たり前のことをあえて「アクティブ・ラーニング」と強調するのは、そこに何らかの教育思想や特定の教育方法があると疑うのが当然である。私は、少なくとも音楽科の学習に関する限り、教育内容(学習内容)を想定しない教育思想や学習方法に関する議論に反対する(この考えはある時期に私が主張してきたこととの間に矛盾もあることは自覚している)。当然のことながら「音楽科におけるアクティブ・ラーニング」(「アクティブ・ラーニング」を「主体的・対話的で深い学び」と置き換えたところでまったく同じである)などというようなタイトルの研究は無意味だと考えている。そして最も心配したのは、「アクティブ・ラーニング」の強調が教育内容の軽視に結び付くことであった。
学習指導要領の告示によって、心配は現実のものとなった。例えば小学校の音楽科の目標は 「表現及び鑑賞の活動を通して、音楽的な見方・考え方を働かせ、生活や社会の中の音や音楽と豊かに関わる資質・能力を次のとおり育成することを目指す。」である。これは、音楽科の内容を前提にして設定された目標ではない。「見方・考え方を働かせ」と「次の通り育成することを目指す」は、どの教科もまったく同じだからである。「次の通り」以下に示された目標も、「知識・技能」「思考力・判断力」「学びに向かう力・人間性等」という枠組みに音楽に関する言葉を流し込んだだけのものである。このような考え方は、「教科・教材の実質的な知識内容を習得し保持することよりも、形式的な心的諸力である記憶力・意志力・応用力などを訓練し形成することに教育的価値をおく(吉本均『教授学重要用語300の基礎知識』明治図書、1981、p.34)」形式陶冶主義の焼き直しに他ならない。形式陶冶主義は歴史上では繰り返し現れるが、現在はこの形式陶冶主義が横行している時代と言える。
音楽科の目標や内容が、音楽教育研究の論理ではなく、外側から押し付けられた原則や枠組みによって設定されたことを、研究者諸氏はどのように捉えているのだろうか。音楽教育研究が軽んじられているのである。かつては、新しい学習指導要領が告示されると、少なからぬ研究者が批判的な見解を表明した。しかし、今回はほとんどの研究者が沈黙している。音楽教育研究の危機でもある。
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