文部科学省幹部の天下り問題

天下るほうも下るほうだが、研究論文なんかほとんだ書いたことがないような人間(教育行政についての知識や手腕はあるが、少なくとも研究者ではない)を教授として雇い入れる大学も大学である。大学が何か一つ新しいこと始めようとすれば、その許認可の権限をすべて文科省が握っているのでそうなるのだが、これは国会等で徹底的に追及してほしいと思う(まさか、私の元職場はそんなことしていないだろうな)。

天下りもひどいが、もっとひどいのが所轄の研究所の人事である。例えば、省内にある某研究所は、所長、副所長、各研究センター長、研究部長等の研究の指導的ポストのほとんどを研究者ではなく文部科学省の幹部あるは中堅の幹部が独占するようになった。もちろん研究所だから事務職としてはなく、研究職つまり文部教官として就任するのである。つまり教育研究という独自の役割をもった研究機関の研究職ポスト(それも幹部ポスト)を文部科学省の事務官がやってきて一時的に利用しているのである。そして、それまでまったく研究の経験もなかった人間が所長や部長の地位につき、長年研究を続けてきた研究者の上に立ってあれこれ指図するという構図になっているのである。

ここの所長や(現在の)研究部長に研究経験がないのは一目瞭然である。ほとんど教育関係の学会では名前を聞いたこともないような人間ばかりである。だから、研究所のHPを見ても、研究者紹介のページはあるが、名前だけでそれぞれの研究者にどんな研究業績があるのかがまったくわからない(幹部には何の研究業績もないから出せないのだろう)。

当然、これらのポストも一時的な腰掛けポストなので、たいていは1〜2年で交代する(とくに所長、次長、センター長)。こんな研究所からよい研究が生まれようがない。もちろん、ここで働いている一般の研究者の中にはすぐれた研究者がたくさんいるし、ほとんどの研究者は誠実な方ばかりである。しかしその人たちの力が十分には発揮されていない。

天下り問題が出てきたことを機会にここにもしっかりメスを入れる必要があるのではないか。

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天皇誕生日

天皇誕生日。

と言われてもピンと来ないのは、私には昭和の時代の方が長いからかな。平成の28年間なんか、あっと間だつた。

長女の誕生日でもある。もう39歳。これもあっという間。

歴史では、東條英機らA級戦犯が68年前に処刑された日。将来の天皇誕生日に処刑したのは、アメリカの意地悪か、それとも思い出させないためか。今日は、このことをマスコミも取り上げない。処刑が行われた巣鴨プリズン跡には、サンシャイン60が建ちクリスマスで賑わっている。どれたけの人が68年前を思うのだろう。

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ディベート

40代のころ、ディベート(単なる「論争」という意味ではなく、競技ディベート)を習った。中学生・高校生のディベートの大会(ディベート甲子園)においてジャッジを担当したこともある。競技ディベートでは、自分の本来の考え方にかかわらず、肯定側あるいは否定側の立場にたって根拠をもって説得しなければならない。相手をねじ伏せるのではなく、ジャッジを説得することが求められる。

そのせいか、それ以来、いろいろな政治、社会、教育などの問題について自分の主張をすることに慎重になった(それ以前の私はどこへ行っても結構過激な主張をしていた)。ディベートによって、自分の現在もっている考え方とは逆の立場で考えるようになったからである。つまり、反対の人は私の意見にどう反論するだろうかと考えるようになったからである。そう考えてみると、いままで「あほらしい」とさえ思っていた反対意見にも、それなりの根拠があることに気づく。

ディベート的な発想をすると、現在の日本社会で論争になっているさまざまな問題、たとえば、原発、憲法、集団的自衛権、慰安婦、捕鯨、教育制度、などの問題も一方的に結論づけることは難しいことがわかる。もちろん自分なりにそれなりの意思決定や価値判断はしているし、選挙の時にはそのような自分の価値判断に基づいて行動はするが、それを明確に表明したり運動にかかわったりして他人に影響を与えるほど自信があるわけではない。

一方で、これらの問題に対して明確に自分の考えを持ち、その運動に加わっている人たちもいる。そういうふうにはっきりと自分の考えを表明する人のことをうらやましく思うこともあるが、どこかあぶなっかしいなあと思うこともある。賛成派、反対派がかみあった議論をすれば良いのだが、ほとんどかみ合っていないことや、議論の場が公平でないことが多い。

少し優柔不断なようだが、みんながディベート的な発想をすればもう少しよい答えが出てくるのではないだろうか。

と、難しい話しはこれくらいにして。

最近頼まれた仕事を引き受けたほうがよいか、断ったほうがよいか、二人の私がディベートしている。

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STAP細胞

小保方さんが研究者として未熟だったということだ。

しかし、今回のことをすべて小保方さん一人が企画し実行したとはとても考えられない。もしそうだったとしたら、野依理事長の言うところ共著者である「シニア研究者」全員が小保方さん一人に一杯食わされたということになる。ほとんど一人で研究をする文系ならいざ知らず(常習者は結構いる)、グループで研究する理系の実験研究ではありえないことだ。理研の報告でもこの研究のプロデューサーが存在したことが示唆されている。

論文の共著者のそれぞれが、研究の中で果たした役割について自分できちんと説明をすれば全体が明らかになるのではないか。今のところそれを明らかにしているのは山梨大の山口教授だけである(全部明らかにしているかどうかは分からないが)。

ただ、それでも私はSTAP細胞にかすかに希望を抱いている。偶然かもしれないが本当に論文通りの方法で生成できたのかもしれない。同じ方法で実験をしても成功する確率は何千分の1に過ぎないかも知れない。それでも、価値はある。STAP細胞の生成が本当でさえあれば、すべて水に流してもよいと思う。

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慰安婦問題

私は、この問題について議論をするのはいやだし、いいかげんテレビで取り上げるのもやめてほしい。年頃の子どもさんのいる家庭では、子どもさんにどう説明しているのだろうか。

「お父さん、慰安婦ってなーに」「戦争中にこんなことがあってね。日本軍は韓国でこんなひどいことをしたんだよ」

こういう会話が行われているとしたらかなり気分が悪い。もちろんそれが事実なら仕方がない。しかし、一番驚くのは、事実関係を軽視している人がいることだ。「強制連行があったかどうかは大した問題ではない」と。その中に歴史学者が含まれているのも信じられないことだ。

私は、強制連行があろうとなかろうと日本軍のやったことは謝罪に値すると思っているので、河野談話を撤回せよとは思わない(もちろん河野談話が「強制連行があったことを日本が認めた」という証拠として利用されていることは承知しているが、談話はその点ではかなり慎重な言い回しになっている)。強制連行の事実がなかったからと言って日本軍が免罪されるとは思わないが、事実があったかどうかによってその犯罪性は大きく異なる。実際に、世界中の人々は、強制連行があったと思いこみそれを前提にこの問題を語っているからである。Sex Slave などという忌まわしい言葉が出てくるのもそのためである。

私は歴史学者ではないので、「絶対か!」と言われれば自信はないが、いくつかの理由で強制連行というものはなかったと考えている。詳細は省くが、私が強制連行がなかったと確信する最大の理由は最初に「強制連行」を事実として主張していた人たちが、その後「事実かどうかは問題ではない」「強制連行があったかどうかに矮小化していはいけない」と論調を変えてしまったことである。つまり、強制連行を示す根拠がなくなったとしか思えないからである。「問題ではない」というのも一つの考え方として成り立つことは否定はしないが、かつて「強制連行」という言葉を使った以上は、それを明確に否定すべきである。ついでながら「狭義の」だの「広義の」だの「強制性(なぜ「性」という語が必要なのか「強制」と言えないのか)」などというあいまな表現を使うのも問題ずらしである。

ただし、この問題に関しては、お互いに「右」「反動勢力」だの「反日」「売国奴」などという口汚い言葉でののしりあうのはやめたほうがよい(私はこういう決めつけが一番嫌いであるし、意見が違う人に「売国奴」などという言葉を投げつける人が嫌いである)。事実をきちんと確認した上で、国際社会に対してていねいな言葉で説明していくしかないだろう。難しいが、それが外交というものだ。政治家が一時期の感情で発言するのではなく、きちんとした国際的戦略をもってこの問題の決着へ向かうことだ。もちろん、「他の国もやっているのに日本だけ何でたたかれるのか!」と言った論調も国際社会の反発を招くだけで何の良い結果ももたらさない。

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資本論

賃金は労働に対して支払われるのではなく、労働力に対して支払われるのだ。労働力の価値は、毎日の労働を維持し(自分の生活費)、さらに未来の労働を維持する(子どもたちの養育費)ための必要経費である。この労働が生み出した価値と労働力の価値との差が剰余価値である。

というのは、昔読んだマルクスの『資本論』の骨子である(間違ってなければ)。マルクスは剰余価値を資本家が手にすることを搾取と呼び問題にした。しかし、マルクスのこの論にしたがえば、人は労働の機会さえ与えられれば、自分の生活を維持し子どもを育てることくらいは可能だということになる。だから、人々の生活は楽ではなくても、資本主義社会は存在してきた。おまけに日本社会では終身雇用が保障されていたので、それなりに幸福感があった。搾取されていることは分かっていても、搾取のないはずの国の実態があまりにもひどすぎた。

今、生活保護の受給額が毎日労働をしている人の賃金を超えることが問題になっている。生活保護費というのはもちろん労働力に対して支払われているのではなく、労働の機会のない人が最低限の生活をする(ただ生きていく)ための費用なので、賃金を超えることはありえないはずだ。生活保護の受給額が賃金を上まわるということは、逆に労働しているのに労働力の価値分すら賃金を得てない人が存在することを意味する。いわゆるワーキング・プアである。つまり、マルクスが問題にした資本主義よりももっとひどい状況が生まれていることになる。そして、この状況は年々広がっていくだろう。

出口はどこにあるか。やはり政治の力しかない思うのだが。

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車は凶器(暴論)

また、高校生の列に自動車が突っ込むという事故が起きた。この所、痛ましい自動車事故が続いている。被害者やその家族・遺族の方々は事故の理不尽最にやりきれない思いだろう。一連の自動車事故の責任は、もちろん運転者にあるし、その罪は厳しく問われるべきである。

しかし、いろいろな事故の原因を考えてみると、問題はもっと大きなところにある。それは、かつてはだれもが合意していた「車は走る凶器」という認識が薄まってきていることにある。車は一歩間違えば凶器である。数日前の京都の事故や高速道路のバス事故のように、運転者が居眠り運転をすれば大事故になる。それほど悪質な違反でなくても、ちょっとした心の油断が大事故を引き起こすこともある。

結局、事故が起きる原因は、凶器を所持し操作しているという自覚も能力もない人が自動車を所持し運転しているということにつきる。

「暴論」と言われそうだが、次のような対策をすべきである。

1 運転免許の取得を厳しくする。例えば、現在の一種の基準を現在の二種くらいまで引き上げる。
2 違反の罰則規定を厳しくする。例えば、いかなる違反も一発で免許取り消し。
3 免許の更新を厳しくする。例えば取得時と同じレベルの学科試験と技能試験を受験させる。
4 自動車の購入(所持)条件を厳しくする。自動車を所有する理由のない者は所有できない。
5 自動車の保有者の管理責任を厳しくする。事故が起きた時には保有者も責任を負う。

要するに、法律を厳しくして自動車そのものを減らすしかない。とくに自家用車をなくすことだ。今の日本でそのなことは無理だと言われそうだが、自家用車がなければ生活ができない社会が異常なのである。

この狭い日本に、車社会は似合わない。私自身は運転能力も自動車の管理能力も欠けていることを自覚しているので、20年ほど運転もしていないし、車も持っていない。運転免許証も捨てた。

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31ビキニ・デー

もちろん水着記念日ではない。

1954(昭和29)年3月1日、太平洋のビキニ環礁でアメリカが水爆実験を行い、附近を航行していたまぐろ漁船「第五福竜丸」の乗組員が被曝した。そのうちの1人である久保山愛吉さんが半年後に亡くなった。

いまでは規模が小さくなったが、かつては「31ビキニ・デー」と呼ばれ、反核・原水爆禁止を求める集会が全国各地で開かれていた。私は学生時代には平和運動にとくに関心が高かったので、大学1年の時には静岡で行われた全国集会にも参加した(焼津での久保山さんの慰霊行事にも参加した)。

この核実験の影響か、私たちが子どものころは「放射能」という言葉に対してはかなり敏感だった(部分的核実験停止条約が結ばれ核実験が地下実験に限定されるようになったのはずっと後のことである)。雨に濡れると「髪が抜ける」と子ども心に本気で心配していた。しかし、時が経つにつれ、放射能にも核兵器にも鈍感になっていった。

時代が変わって、現在の福島原発事故による放射能汚染の問題。この影響については日本人全体にあまりにも大きな認識の差がある。どの情報をを信じてよいのか正直言ってわからない。今何が被災地のためになるのか。このことをめぐって国民の中に対立さえ生まれている。ネット上では汚いことばで非難合戦がくりひろげられている。「絆」という言葉もすっかり色あせてしまった。

一人ひとりが一体何をすればよいのか。何かをすればどこからか非難される(それが悪意によるものならなら無視できるが、善意によるものなので悩みは大きい)。眠れない夜が続く。

※Twitterで福島産米を買って食べることを宣言したが、それに対する批判もきた。危機的な現状を容認し国や東電を免罪することになるということか。

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世代間格差(その2)

(承前)

とは言うものの、自分自身をある世代(いわゆる広い意味での「団塊の世代」)の一員として自覚した時には、忸怩たる思いにかられることも事実である。私だけなのか、同世代のほとんどの人が感じているのかどうかはわからないが、先代たちが命を犠牲にしあるいは命を削ってつくりあげてきた財産を私たちの世代が使い果たし、次世代には何も残さないどころか負の遺産まで残したという思いである。

その遺産の一つは戦後民主主義という遺産、もう一つは高度経済成長の遺産である。これらをほとんど一代で食いつぶしてしまったこの迷惑千万な世代は、残された10~20年をどう生きるべきなのか。遺産を食いつぶした責任を果たすべく身を粉にして働くべきなのか、それとも次世代にに迷惑がかからぬよう社会の片隅でひっそりと生きていくべきなのか。

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世代間格差

最近ニュースによく出てくる「世代間格差」という言葉。内閣府経済社会総合研究所が出したこの論文がもとになっているらしい。

この論文の要約は次のとおり。

現役期に保険料を負担し引退後にサービスを受益するという構造は、年金、医療、介護の3 制度に共通しているが、受益と負担の関係は世代ごとに異なる。年金、医療、介護による受益と負担を合算し、社会保障からの純受益が生涯収入に占める割合として定義される生涯純受給率を生年別にみると、1950 年生れ1.0%、1960 年生れ▲5.3%、1970 年生れ▲7.8%、1980 年生れ▲9.8%、1990 年生れ▲11.5%、2000 年生れ▲12.4%、2010 年生れ▲13.0%と生年が下るにつれて支払い超過が拡大する傾向にある。このように、社会保障を通じた世代間不均衡は無視できない大きさとなっている。

1950年生れがいつも引き合いに出されるのが気になっていたが、こういうわけだった。ただ、私たちの世代も前世代の社会保障をを支えてきたわけだから、受益の超過ばかりとやかく言われても困る。また、この受益超過も支払い超過も子や孫を通じて次の世代に引き継がれるのでこれ自体が社会的不平等だとは言えない。さらに、この数値はあくまでも平均値であり、実際の問題の現れ方はもっと複雑なものになる。「世代間格差」だけを取り出して問題視するのは意味がないような気がする(経済は自信がないので「気がする」としか言えない)。

社会保障制度そのものが大きな曲がり角にあることは間違いないし、期待している保障がすべて受けられるとは思っていない。たとえ今の制度が続いたとしても、私個人は受益超過にはならないと思っている。それはそれで仕方がない。ただ、私が一番恐れているのは「長生きすることが不安」という状況におかれることである。死を覚悟するよりもはるかに恐ろしい。これは、世代全体に共通する感情ではないだろうか。

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